魔法より、君に恋をする。

十三本目の線を辿って歩きながら、リリアは何度か空を見上げた。巨大な黒い月には無数の亀裂が走っているものの、完全に崩れる気配はない。偽神の声も聞こえなくなったが、それが諦めたからではないことは分かっていた。

 隣を歩くアレンは、ずっとリリアの手を握っている。以前なら、その力の強さに彼の恐怖を感じていたかもしれない。けれど今は違う。指を絡めているだけで、引っ張ることも、進む方向を決めることもしない。

「アレン先輩」

「ん?」

「さっきの、本当?」

「どれ?」

「私を閉じ込めるくらいなら三百年一人の方がましって」

「ああ」

「本当に?」

「何で疑うんだよ」

「三百年って相当ですよ」

「知ってる。俺が一番知ってる」

「じゃあ、もし私がアレン先輩から離れたいって言ったら?」

 繋いだ手がわずかに止まった。

 リリア自身、どうして今そんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、偽神が言った言葉が引っかかっていた。

 自由である限り、リリアはアレンではない誰かを選ぶ可能性がある。

 恋人になったばかりなのだから、今は離れたいと思っていない。むしろもっと一緒にいたい。それでも、未来の気持ちまで約束することはできない。

 アレンはしばらく黙っていた。

「嫌だな」

 やがて、正直に答えた。

「嫌なんだ」

「当たり前だろ。お前に別れたいとか言われたら普通に嫌だし、理由聞くし、俺が悪いなら直すって言うし、たぶん簡単には諦めねえ」

「うん」

「でも、お前が本当に俺を好きじゃなくなったなら、最後は離すしかねえだろ」

 リリアは少し驚いた。

「できる?」

「……分かんねえ」

 アレンは苦笑した。

「格好つけて『できる』って言いてえけど、実際その時になったら相当みっともねえと思う。嫌だって言うし、泣くかもしれねえし、お前のこと忘れるまで時間かかると思う」

「アレン先輩、泣くんだ」

「そこ食いつくなよ」

「見たことなかったから」

「昨日見ただろ」

「見てないことにしてあげた」

「じゃあ今も知らねえままでいろ」

 少しだけ笑ったあと、アレンは前を向いた。

「でも、好きじゃなくなったお前を無理やり隣に置いたって意味ねえよ。俺が好きなのは、俺を選ぶように作られたお前じゃねえから」

 リリアはその横顔を見つめた。

「じゃあ今、私が好きって言うのは嬉しい?」

「死ぬほど嬉しい」

「よかった」

「何だよ、その確認」

「言いたくなっただけ」

 アレンが呆れたように笑う。

「じゃあ俺も言う。好きだよ」

「知ってます」

「俺だって言いたくなっただけだ」

 繋いだ手を少し持ち上げられ、指先へ唇が触れた。あまりにも自然にされたせいで、リリアは一拍遅れて頬が熱くなるのを感じた。

「……今の何?」

「キス」

「手に?」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけど、急だった」

「お前、帰ったらキスするって言ってたじゃん」

「口の話です」

「それは帰ってから」

「律儀」

「楽しみにしてるからな」

 赤い世界の真ん中で交わすには、ずいぶん普通の恋人らしい会話だった。それが嬉しくて、リリアはアレンの手を握り直した。

 二人がさらに進むと、十三本目の線は荒れた平原の中央で途切れていた。その先には何もない。ただ黒い月から落ちる影だけが、まるで境界線のように地面を二つに分けている。

「行き止まり?」

「いや」

 アレンが周囲を見回す。

「何か来る」

 その予感が当たったのは、ほとんど同時だった。

 地面が大きく揺れ、リリアは反射的にアレンの腕を掴んだ。黒い月から無数の光が降り注ぎ、二人の周囲へ人影を作っていく。

 ノア、レオン、カイル、ルシアン、セシル。

 学院にいるはずの五人が現れた。

「みんな?」

「違う」

 アレンがすぐに剣へ手をかけた。

 確かに違う。姿は同じでも、誰も動かない。表情もない。

 やがて五人の幻影の中央に、もう一人リリアが現れた。

 今のリリアと同じ制服を着て、同じ銀白の髪を揺らしている。

『未来を見せよう』

 偽神の声が響いた。

『彼女が自由である未来を』

 景色が変わる。

 学院の中庭。

 幻のリリアは笑っている。

 隣にいるのはアレンではなかった。

 ノアと楽しそうに話し、次の瞬間にはレオンの隣を歩き、カイルと魔法陣を覗き込み、ルシアンと生徒会室で笑い、セシルと手を繋ぐ。

 どれも実際にあり得る光景だった。

『彼女には、お前以外にも選べる相手がいる』

 アレンは何も言わない。

『お前だけが三百年待った。お前だけが彼女を殺した記憶を抱えた。お前だけが、彼女のために世界の終わりを生きた。それでも彼女がお前を選び続ける保証はない』

「それはそうだろ」

 アレンが答えた。

 あまりにも早かったので、今度はリリアの方が彼を見た。

「アレン先輩?」

「保証なんか最初からねえよ」

『恐ろしくないのか』

「怖えよ」

 アレンは幻のリリアを見る。そこでは彼女がノアに笑いかけていた。

「めちゃくちゃ嫌だし、見せんなって思ってる」

「嫉妬してる?」

「するに決まってんだろ。特にあいつ」

「ノア?」

「あいつ距離近えんだよ」

 こんな時なのに、リリアは少し笑ってしまった。

「笑うなよ。結構本気で嫌なんだからな」

「ごめん」

「あとセシルも嫌だ」

「セシルも?」

「お前、あいつには警戒心なさすぎる」

「女の子だから?」

「そういう意味じゃねえ。あいつがお前を見る目の話してんだよ」

「え?」

「……今はいい」

「気になる」

「帰ったら本人に聞け」

「聞いていいの?」

「いや、やっぱ聞くな。面倒なことになりそう」

 偽神の作り出した幻の前で、二人は普通に話していた。

『なぜ恐怖を拒絶する』

「拒絶してねえよ」

 アレンが偽神へ視線を戻した。

「怖いって認めてんだろ」

『ならば縛ればいい』

「嫌だって言ってんだよ」

『彼女の選択肢を減らせば、お前を選ぶ確率は上がる』

「それで選ばれて何が嬉しいんだ?」

 アレンの声が低くなる。

「他に何もねえから俺を選ぶのと、他にも選べるのに俺を選ぶのじゃ全然違うだろ」

 リリアは思わず彼を見つめた。

 アレンは少し照れたように眉を寄せる。

「何だよ」

「格好いいこと言ったなと思って」

「今そこ拾う?」

「好き」

「……後にしろ。集中切れる」

「はい」

 アレンが咳払いをして偽神を見る。

「それに、俺が三百年待ったことと、こいつが俺を選ぶことは別だ。俺が勝手に待った時間を理由に、こいつへ俺を好きでいろなんて言う気はねえ」

『三百年が無意味になるぞ』

「ならねえよ」

 今度の答えには、迷いがなかった。

「あの三百年があったから今の俺がいる。いい思い出だなんて死んでも言わねえし、もう一回やれって言われたら絶対嫌だけど、それでもなかったことにはならねえ」

 アレンはリリアの手を握った。

「それをこいつの借金にするつもりもない」

 胸の奥が熱くなった。

 リリアはこれまで、アレンが三百年待ったことを知ってから、どこかでその時間を埋めてあげたいと思っていたのかもしれない。

 でも、埋める必要はない。

 三百年はアレンの過去だ。

 リリアが返済するものではない。

「私も一個言っていい?」

「おう」

 リリアは偽神ではなく、アレンを見た。

「私はアレン先輩を選んだよ」

「……今?」

「今」

「それは知ってる」

「でも、ちゃんと言いたい」

 アレンが黙る。

「ノアも、レオン先輩も、クロフォード先輩も、ルシアン先輩も、セシルも大切です。これからも仲良くしたいし、アレン先輩と付き合ったからって離れるつもりもない」

「分かってる」

「その上で、恋人として隣にいてほしいのはアレン先輩です」

 アレンの瞳が少しだけ見開かれた。

「それは三百年待ったからじゃなくて、今の私が決めたこと」

「ああ」

「未来は分からないけど、今はそう思ってる」

「それで十分だ」

 アレンは笑った。

「むしろ、それがいい」

 その瞬間、周囲にいた五人の幻影へ亀裂が走った。

 偽神の声が低く響く。

『永遠を望まないのか』

「望んでないとは言ってねえよ」

 アレンが答える。

「できるならずっと一緒にいたい。でも、永遠って最初に決めて閉じ込めるもんじゃなくて、今日一緒にいて、明日も一緒にいて、その次の日も選んで、後から振り返った時に長かったなって思うもんだろ」

「アレン先輩」

「何?」

「それ、かなり好き」

「俺のこと?」

「今の言葉」

「……俺じゃねえのかよ」

「アレン先輩も好き」

「ならいい」

 リリアは笑った。

 幻影がすべて砕け、黒い光となって十三本目の線へ吸い込まれていく。途切れていた線が再び伸び始め、その先に一枚の黒い石板が浮かび上がった。

 表面には文字が刻まれている。

《ALLEN VERMILION》
《THIRD WORLD SURVIVOR》
《WAITING PERIOD:300 YEARS》
《PRIMARY DESIRE:LILIA WILL NEVER LEAVE》

 リリアは最後の一文を読んだ。

「リリアが絶対に離れないこと……」

「昔の俺なら、その通りだな」

 アレンは石板を見上げた。

「今は?」

「書き換えたい」

「何に?」

 アレンは少し考えた。

「一緒に生きること」

 その言葉に反応するように、石板の文字が揺れた。

《REJECTED》

「拒否された」

「感じ悪いな」

《SUBJECT ALLEN VERMILION REQUIRES GUARANTEED NON-ABANDONMENT》

「勝手に決められてますよ」

「余計なお世話だ」

 アレンが石板へ近づく。

《TRAUMA RECORD:300 YEARS》
《OPTIMAL SOLUTION:PERMANENT BINDING》

「永久拘束……」

「やっぱ閉じ込めろってことか」

「最適解って書いてある」

「俺にとっては最悪だ」

 アレンは剣の柄へ手を置いたが、リリアはその腕へ触れた。

「待って」

「何だ?」

「壊す前に、書き換えられないかな」

「どうやって?」

「私の魔法」

 可能性創造。

 リリアは石板へ手を伸ばした。

「アレン先輩が本当に望んでることを入れたら、変わるかもしれない」

「俺が?」

「うん。でも私が決めたら意味ないから、自分で言って」

 アレンは石板を見る。

 永久に離れないこと。

 三百年間、彼が望み続けたもの。

 昔のリリアを失い、誰もいない世界に残され、次の世界が来るまで死ぬことさえできなかった。そんな人が「二度と置いていかれたくない」と願ったのは、きっと間違いではない。

 でも今の彼は、その願いの形を変えようとしている。

「俺は」

 アレンがゆっくり口を開いた。

「置いていかれたくねえ」

 リリアは黙って聞く。

「今でも怖い。お前が急にいなくなる夢も見るし、手離された時に昔思い出すこともある。たぶん、これからも完全にはなくならねえ」

 石板の文字が微かに光る。

「でも、だからってお前を縛りたいわけじゃねえ。お前が自由に生きて、その中で俺と一緒にいたいって思ってくれる方がいい」

 アレンはリリアを見る。

「俺が欲しいのは、置いていかれない保証じゃない」

 赤い瞳が真っ直ぐ向けられる。

「お前と一緒に生きていける明日だ」

 リリアは杖を石板へ向けた。

「それなら、作れるかもしれない」

「保証できる?」

「できない」

「即答だな」

「明日のことなんて誰にも保証できないから。でも、明日へ行ける可能性なら作れる」

「それでいい」

 アレンは迷わなかった。

「それがいい」

 リリアが魔力を流し込むと、石板に刻まれていた《PRIMARY DESIRE》の文字が崩れ始めた。

《LILIA WILL NEVER LEAVE》

 その一文が消える。

 代わりに新しい文字が浮かび上がった。

《PRIMARY DESIRE:LIVE TOGETHER》

 二人で同時に読む。

「一緒に生きる」

「ああ」

 アレンが笑った。

「そっちの方が俺らしい」

 石板が砕けた。

 黒い破片は地面へ落ちる前に光へ変わり、十三本目の線へ吸い込まれる。線は一気に遠くまで伸び、赤かった空の一部が青く変わった。

 リリアはその変化を見上げたあと、隣のアレンを見る。

「帰れそう?」

「たぶんな」

「帰ったら何する?」

「お前が言ってたやつ」

「何?」

「キス」

 思い出して顔が熱くなった。

「覚えてたんだ」

「忘れるわけねえだろ」

「でも、その前にお風呂入りたい」

「……雰囲気台無しだな」

「だって戦ったし」

「まあ俺も入りてえけど」

「そのあと?」

「会えるなら」

「会う」

「じゃあそのあと」

「うん」

 約束する。

 それは世界を救うための約束でも、次の世界で見つけるための約束でもない。ただ今日が終わったあと、もう一度会うための約束だった。

 アレンはそんな小さな約束を大切そうに受け取るように笑い、リリアの手を握った。

 十三本目の線の先には、まだ黒い月がある。偽神も消えてはいない。それでもアレンの足取りは、ここへ来た時よりずっと軽くなっていた。

 三百年間、彼は次の世界が来るのを待つことしかできなかった。何をしても時間は止まったままで、墓の前で話しかけても返事はなく、明日という言葉には何の意味もなかった。

 今は違う。

 自分で歩ける。隣には返事をする人がいる。明日になったら何をするか、くだらない相談ができる。

 アレンが欲しかったものは、永遠に変わらない少女ではなかった。

 変わっていく一人の人間と、自分も変わりながら同じ時間を生きることだった。

「リリア」

「何?」

「明日も会おうな」

「もちろん」

「明後日も」

「予定空いてたら」

「そこは空けろよ」

「デートなら空ける」

「じゃあデート」

「どこ行く?」

「帰ってから決めようぜ」

「うん」

 二人はそんな話をしながら歩き続けた。

 死んだ世界に似つかわしくないほど普通の会話だったけれど、だからこそアレンは何度も笑った。三百年間どれだけ願っても手に入らなかったのは、奇跡でも永遠でもない。明日の予定を誰かと決められる、こんな当たり前の時間だったのだ。

 やがて十三本目の線の終点に、学院へ戻るものとよく似た光の扉が現れた。

 アレンはその前で一度だけ振り返った。

 遠くには昔のリリアの墓がある。もう肉眼ではほとんど見えないほど小さくなっていた。

「行く?」

 リリアが尋ねる。

「ああ」

「もういい?」

「うん」

 アレンは墓の方角を見つめたまま、静かに笑った。

「三百年、ありがとな」

 誰に向けた言葉なのか、リリアは聞かなかった。

 昔のリリアかもしれない。死んだ世界そのものかもしれない。あるいは、そこで生き続けた昔の自分へ向けた言葉なのかもしれない。

 アレンは前を向いた。

「帰ろうぜ、リリア」

「うん。帰ろう」

 リリアは差し出された手を握った。

 今度は「絶対に離さない」という誓いのためではない。扉の向こうへ一緒に進むために、二人で手を繋いだ。

 光の中へ踏み込む直前、アレンが小さく笑った。

「帰ったら約束忘れんなよ」

「お風呂?」

「その後!」

「分かってます」

「絶対分かってねえ顔してる」

「キスでしょ?」

「……分かってるなら普通に言うなよ」

 アレンの耳が赤くなる。

 リリアは笑いながら彼の手を引き、二人で光の向こうへ踏み出した。

 三百年前にはできなかったことを、今度は二人で選ぶ。

 死んで終わるのではなく、生きて次の日へ行く。

 その先に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。

 それでも、分からない未来へ一緒に進めることこそが、今の二人が選んだ答えだった。