十三本目の線を辿って歩きながら、リリアは何度か空を見上げた。巨大な黒い月には無数の亀裂が走っているものの、完全に崩れる気配はない。偽神の声も聞こえなくなったが、それが諦めたからではないことは分かっていた。
隣を歩くアレンは、ずっとリリアの手を握っている。以前なら、その力の強さに彼の恐怖を感じていたかもしれない。けれど今は違う。指を絡めているだけで、引っ張ることも、進む方向を決めることもしない。
「アレン先輩」
「ん?」
「さっきの、本当?」
「どれ?」
「私を閉じ込めるくらいなら三百年一人の方がましって」
「ああ」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「三百年って相当ですよ」
「知ってる。俺が一番知ってる」
「じゃあ、もし私がアレン先輩から離れたいって言ったら?」
繋いだ手がわずかに止まった。
リリア自身、どうして今そんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、偽神が言った言葉が引っかかっていた。
自由である限り、リリアはアレンではない誰かを選ぶ可能性がある。
恋人になったばかりなのだから、今は離れたいと思っていない。むしろもっと一緒にいたい。それでも、未来の気持ちまで約束することはできない。
アレンはしばらく黙っていた。
「嫌だな」
やがて、正直に答えた。
「嫌なんだ」
「当たり前だろ。お前に別れたいとか言われたら普通に嫌だし、理由聞くし、俺が悪いなら直すって言うし、たぶん簡単には諦めねえ」
「うん」
「でも、お前が本当に俺を好きじゃなくなったなら、最後は離すしかねえだろ」
リリアは少し驚いた。
「できる?」
「……分かんねえ」
アレンは苦笑した。
「格好つけて『できる』って言いてえけど、実際その時になったら相当みっともねえと思う。嫌だって言うし、泣くかもしれねえし、お前のこと忘れるまで時間かかると思う」
「アレン先輩、泣くんだ」
「そこ食いつくなよ」
「見たことなかったから」
「昨日見ただろ」
「見てないことにしてあげた」
「じゃあ今も知らねえままでいろ」
少しだけ笑ったあと、アレンは前を向いた。
「でも、好きじゃなくなったお前を無理やり隣に置いたって意味ねえよ。俺が好きなのは、俺を選ぶように作られたお前じゃねえから」
リリアはその横顔を見つめた。
「じゃあ今、私が好きって言うのは嬉しい?」
「死ぬほど嬉しい」
「よかった」
「何だよ、その確認」
「言いたくなっただけ」
アレンが呆れたように笑う。
「じゃあ俺も言う。好きだよ」
「知ってます」
「俺だって言いたくなっただけだ」
繋いだ手を少し持ち上げられ、指先へ唇が触れた。あまりにも自然にされたせいで、リリアは一拍遅れて頬が熱くなるのを感じた。
「……今の何?」
「キス」
「手に?」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど、急だった」
「お前、帰ったらキスするって言ってたじゃん」
「口の話です」
「それは帰ってから」
「律儀」
「楽しみにしてるからな」
赤い世界の真ん中で交わすには、ずいぶん普通の恋人らしい会話だった。それが嬉しくて、リリアはアレンの手を握り直した。
二人がさらに進むと、十三本目の線は荒れた平原の中央で途切れていた。その先には何もない。ただ黒い月から落ちる影だけが、まるで境界線のように地面を二つに分けている。
「行き止まり?」
「いや」
アレンが周囲を見回す。
「何か来る」
その予感が当たったのは、ほとんど同時だった。
地面が大きく揺れ、リリアは反射的にアレンの腕を掴んだ。黒い月から無数の光が降り注ぎ、二人の周囲へ人影を作っていく。
ノア、レオン、カイル、ルシアン、セシル。
学院にいるはずの五人が現れた。
「みんな?」
「違う」
アレンがすぐに剣へ手をかけた。
確かに違う。姿は同じでも、誰も動かない。表情もない。
やがて五人の幻影の中央に、もう一人リリアが現れた。
今のリリアと同じ制服を着て、同じ銀白の髪を揺らしている。
『未来を見せよう』
偽神の声が響いた。
『彼女が自由である未来を』
景色が変わる。
学院の中庭。
幻のリリアは笑っている。
隣にいるのはアレンではなかった。
ノアと楽しそうに話し、次の瞬間にはレオンの隣を歩き、カイルと魔法陣を覗き込み、ルシアンと生徒会室で笑い、セシルと手を繋ぐ。
どれも実際にあり得る光景だった。
『彼女には、お前以外にも選べる相手がいる』
アレンは何も言わない。
『お前だけが三百年待った。お前だけが彼女を殺した記憶を抱えた。お前だけが、彼女のために世界の終わりを生きた。それでも彼女がお前を選び続ける保証はない』
「それはそうだろ」
アレンが答えた。
あまりにも早かったので、今度はリリアの方が彼を見た。
「アレン先輩?」
「保証なんか最初からねえよ」
『恐ろしくないのか』
「怖えよ」
アレンは幻のリリアを見る。そこでは彼女がノアに笑いかけていた。
「めちゃくちゃ嫌だし、見せんなって思ってる」
「嫉妬してる?」
「するに決まってんだろ。特にあいつ」
「ノア?」
「あいつ距離近えんだよ」
こんな時なのに、リリアは少し笑ってしまった。
「笑うなよ。結構本気で嫌なんだからな」
「ごめん」
「あとセシルも嫌だ」
「セシルも?」
「お前、あいつには警戒心なさすぎる」
「女の子だから?」
「そういう意味じゃねえ。あいつがお前を見る目の話してんだよ」
「え?」
「……今はいい」
「気になる」
「帰ったら本人に聞け」
「聞いていいの?」
「いや、やっぱ聞くな。面倒なことになりそう」
偽神の作り出した幻の前で、二人は普通に話していた。
『なぜ恐怖を拒絶する』
「拒絶してねえよ」
アレンが偽神へ視線を戻した。
「怖いって認めてんだろ」
『ならば縛ればいい』
「嫌だって言ってんだよ」
『彼女の選択肢を減らせば、お前を選ぶ確率は上がる』
「それで選ばれて何が嬉しいんだ?」
アレンの声が低くなる。
「他に何もねえから俺を選ぶのと、他にも選べるのに俺を選ぶのじゃ全然違うだろ」
リリアは思わず彼を見つめた。
アレンは少し照れたように眉を寄せる。
「何だよ」
「格好いいこと言ったなと思って」
「今そこ拾う?」
「好き」
「……後にしろ。集中切れる」
「はい」
アレンが咳払いをして偽神を見る。
「それに、俺が三百年待ったことと、こいつが俺を選ぶことは別だ。俺が勝手に待った時間を理由に、こいつへ俺を好きでいろなんて言う気はねえ」
『三百年が無意味になるぞ』
「ならねえよ」
今度の答えには、迷いがなかった。
「あの三百年があったから今の俺がいる。いい思い出だなんて死んでも言わねえし、もう一回やれって言われたら絶対嫌だけど、それでもなかったことにはならねえ」
アレンはリリアの手を握った。
「それをこいつの借金にするつもりもない」
胸の奥が熱くなった。
リリアはこれまで、アレンが三百年待ったことを知ってから、どこかでその時間を埋めてあげたいと思っていたのかもしれない。
でも、埋める必要はない。
三百年はアレンの過去だ。
リリアが返済するものではない。
「私も一個言っていい?」
「おう」
リリアは偽神ではなく、アレンを見た。
「私はアレン先輩を選んだよ」
「……今?」
「今」
「それは知ってる」
「でも、ちゃんと言いたい」
アレンが黙る。
「ノアも、レオン先輩も、クロフォード先輩も、ルシアン先輩も、セシルも大切です。これからも仲良くしたいし、アレン先輩と付き合ったからって離れるつもりもない」
「分かってる」
「その上で、恋人として隣にいてほしいのはアレン先輩です」
アレンの瞳が少しだけ見開かれた。
「それは三百年待ったからじゃなくて、今の私が決めたこと」
「ああ」
「未来は分からないけど、今はそう思ってる」
「それで十分だ」
アレンは笑った。
「むしろ、それがいい」
その瞬間、周囲にいた五人の幻影へ亀裂が走った。
偽神の声が低く響く。
『永遠を望まないのか』
「望んでないとは言ってねえよ」
アレンが答える。
「できるならずっと一緒にいたい。でも、永遠って最初に決めて閉じ込めるもんじゃなくて、今日一緒にいて、明日も一緒にいて、その次の日も選んで、後から振り返った時に長かったなって思うもんだろ」
「アレン先輩」
「何?」
「それ、かなり好き」
「俺のこと?」
「今の言葉」
「……俺じゃねえのかよ」
「アレン先輩も好き」
「ならいい」
リリアは笑った。
幻影がすべて砕け、黒い光となって十三本目の線へ吸い込まれていく。途切れていた線が再び伸び始め、その先に一枚の黒い石板が浮かび上がった。
表面には文字が刻まれている。
《ALLEN VERMILION》
《THIRD WORLD SURVIVOR》
《WAITING PERIOD:300 YEARS》
《PRIMARY DESIRE:LILIA WILL NEVER LEAVE》
リリアは最後の一文を読んだ。
「リリアが絶対に離れないこと……」
「昔の俺なら、その通りだな」
アレンは石板を見上げた。
「今は?」
「書き換えたい」
「何に?」
アレンは少し考えた。
「一緒に生きること」
その言葉に反応するように、石板の文字が揺れた。
《REJECTED》
「拒否された」
「感じ悪いな」
《SUBJECT ALLEN VERMILION REQUIRES GUARANTEED NON-ABANDONMENT》
「勝手に決められてますよ」
「余計なお世話だ」
アレンが石板へ近づく。
《TRAUMA RECORD:300 YEARS》
《OPTIMAL SOLUTION:PERMANENT BINDING》
「永久拘束……」
「やっぱ閉じ込めろってことか」
「最適解って書いてある」
「俺にとっては最悪だ」
アレンは剣の柄へ手を置いたが、リリアはその腕へ触れた。
「待って」
「何だ?」
「壊す前に、書き換えられないかな」
「どうやって?」
「私の魔法」
可能性創造。
リリアは石板へ手を伸ばした。
「アレン先輩が本当に望んでることを入れたら、変わるかもしれない」
「俺が?」
「うん。でも私が決めたら意味ないから、自分で言って」
アレンは石板を見る。
永久に離れないこと。
三百年間、彼が望み続けたもの。
昔のリリアを失い、誰もいない世界に残され、次の世界が来るまで死ぬことさえできなかった。そんな人が「二度と置いていかれたくない」と願ったのは、きっと間違いではない。
でも今の彼は、その願いの形を変えようとしている。
「俺は」
アレンがゆっくり口を開いた。
「置いていかれたくねえ」
リリアは黙って聞く。
「今でも怖い。お前が急にいなくなる夢も見るし、手離された時に昔思い出すこともある。たぶん、これからも完全にはなくならねえ」
石板の文字が微かに光る。
「でも、だからってお前を縛りたいわけじゃねえ。お前が自由に生きて、その中で俺と一緒にいたいって思ってくれる方がいい」
アレンはリリアを見る。
「俺が欲しいのは、置いていかれない保証じゃない」
赤い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「お前と一緒に生きていける明日だ」
リリアは杖を石板へ向けた。
「それなら、作れるかもしれない」
「保証できる?」
「できない」
「即答だな」
「明日のことなんて誰にも保証できないから。でも、明日へ行ける可能性なら作れる」
「それでいい」
アレンは迷わなかった。
「それがいい」
リリアが魔力を流し込むと、石板に刻まれていた《PRIMARY DESIRE》の文字が崩れ始めた。
《LILIA WILL NEVER LEAVE》
その一文が消える。
代わりに新しい文字が浮かび上がった。
《PRIMARY DESIRE:LIVE TOGETHER》
二人で同時に読む。
「一緒に生きる」
「ああ」
アレンが笑った。
「そっちの方が俺らしい」
石板が砕けた。
黒い破片は地面へ落ちる前に光へ変わり、十三本目の線へ吸い込まれる。線は一気に遠くまで伸び、赤かった空の一部が青く変わった。
リリアはその変化を見上げたあと、隣のアレンを見る。
「帰れそう?」
「たぶんな」
「帰ったら何する?」
「お前が言ってたやつ」
「何?」
「キス」
思い出して顔が熱くなった。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけねえだろ」
「でも、その前にお風呂入りたい」
「……雰囲気台無しだな」
「だって戦ったし」
「まあ俺も入りてえけど」
「そのあと?」
「会えるなら」
「会う」
「じゃあそのあと」
「うん」
約束する。
それは世界を救うための約束でも、次の世界で見つけるための約束でもない。ただ今日が終わったあと、もう一度会うための約束だった。
アレンはそんな小さな約束を大切そうに受け取るように笑い、リリアの手を握った。
十三本目の線の先には、まだ黒い月がある。偽神も消えてはいない。それでもアレンの足取りは、ここへ来た時よりずっと軽くなっていた。
三百年間、彼は次の世界が来るのを待つことしかできなかった。何をしても時間は止まったままで、墓の前で話しかけても返事はなく、明日という言葉には何の意味もなかった。
今は違う。
自分で歩ける。隣には返事をする人がいる。明日になったら何をするか、くだらない相談ができる。
アレンが欲しかったものは、永遠に変わらない少女ではなかった。
変わっていく一人の人間と、自分も変わりながら同じ時間を生きることだった。
「リリア」
「何?」
「明日も会おうな」
「もちろん」
「明後日も」
「予定空いてたら」
「そこは空けろよ」
「デートなら空ける」
「じゃあデート」
「どこ行く?」
「帰ってから決めようぜ」
「うん」
二人はそんな話をしながら歩き続けた。
死んだ世界に似つかわしくないほど普通の会話だったけれど、だからこそアレンは何度も笑った。三百年間どれだけ願っても手に入らなかったのは、奇跡でも永遠でもない。明日の予定を誰かと決められる、こんな当たり前の時間だったのだ。
やがて十三本目の線の終点に、学院へ戻るものとよく似た光の扉が現れた。
アレンはその前で一度だけ振り返った。
遠くには昔のリリアの墓がある。もう肉眼ではほとんど見えないほど小さくなっていた。
「行く?」
リリアが尋ねる。
「ああ」
「もういい?」
「うん」
アレンは墓の方角を見つめたまま、静かに笑った。
「三百年、ありがとな」
誰に向けた言葉なのか、リリアは聞かなかった。
昔のリリアかもしれない。死んだ世界そのものかもしれない。あるいは、そこで生き続けた昔の自分へ向けた言葉なのかもしれない。
アレンは前を向いた。
「帰ろうぜ、リリア」
「うん。帰ろう」
リリアは差し出された手を握った。
今度は「絶対に離さない」という誓いのためではない。扉の向こうへ一緒に進むために、二人で手を繋いだ。
光の中へ踏み込む直前、アレンが小さく笑った。
「帰ったら約束忘れんなよ」
「お風呂?」
「その後!」
「分かってます」
「絶対分かってねえ顔してる」
「キスでしょ?」
「……分かってるなら普通に言うなよ」
アレンの耳が赤くなる。
リリアは笑いながら彼の手を引き、二人で光の向こうへ踏み出した。
三百年前にはできなかったことを、今度は二人で選ぶ。
死んで終わるのではなく、生きて次の日へ行く。
その先に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。
それでも、分からない未来へ一緒に進めることこそが、今の二人が選んだ答えだった。
隣を歩くアレンは、ずっとリリアの手を握っている。以前なら、その力の強さに彼の恐怖を感じていたかもしれない。けれど今は違う。指を絡めているだけで、引っ張ることも、進む方向を決めることもしない。
「アレン先輩」
「ん?」
「さっきの、本当?」
「どれ?」
「私を閉じ込めるくらいなら三百年一人の方がましって」
「ああ」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「三百年って相当ですよ」
「知ってる。俺が一番知ってる」
「じゃあ、もし私がアレン先輩から離れたいって言ったら?」
繋いだ手がわずかに止まった。
リリア自身、どうして今そんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、偽神が言った言葉が引っかかっていた。
自由である限り、リリアはアレンではない誰かを選ぶ可能性がある。
恋人になったばかりなのだから、今は離れたいと思っていない。むしろもっと一緒にいたい。それでも、未来の気持ちまで約束することはできない。
アレンはしばらく黙っていた。
「嫌だな」
やがて、正直に答えた。
「嫌なんだ」
「当たり前だろ。お前に別れたいとか言われたら普通に嫌だし、理由聞くし、俺が悪いなら直すって言うし、たぶん簡単には諦めねえ」
「うん」
「でも、お前が本当に俺を好きじゃなくなったなら、最後は離すしかねえだろ」
リリアは少し驚いた。
「できる?」
「……分かんねえ」
アレンは苦笑した。
「格好つけて『できる』って言いてえけど、実際その時になったら相当みっともねえと思う。嫌だって言うし、泣くかもしれねえし、お前のこと忘れるまで時間かかると思う」
「アレン先輩、泣くんだ」
「そこ食いつくなよ」
「見たことなかったから」
「昨日見ただろ」
「見てないことにしてあげた」
「じゃあ今も知らねえままでいろ」
少しだけ笑ったあと、アレンは前を向いた。
「でも、好きじゃなくなったお前を無理やり隣に置いたって意味ねえよ。俺が好きなのは、俺を選ぶように作られたお前じゃねえから」
リリアはその横顔を見つめた。
「じゃあ今、私が好きって言うのは嬉しい?」
「死ぬほど嬉しい」
「よかった」
「何だよ、その確認」
「言いたくなっただけ」
アレンが呆れたように笑う。
「じゃあ俺も言う。好きだよ」
「知ってます」
「俺だって言いたくなっただけだ」
繋いだ手を少し持ち上げられ、指先へ唇が触れた。あまりにも自然にされたせいで、リリアは一拍遅れて頬が熱くなるのを感じた。
「……今の何?」
「キス」
「手に?」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど、急だった」
「お前、帰ったらキスするって言ってたじゃん」
「口の話です」
「それは帰ってから」
「律儀」
「楽しみにしてるからな」
赤い世界の真ん中で交わすには、ずいぶん普通の恋人らしい会話だった。それが嬉しくて、リリアはアレンの手を握り直した。
二人がさらに進むと、十三本目の線は荒れた平原の中央で途切れていた。その先には何もない。ただ黒い月から落ちる影だけが、まるで境界線のように地面を二つに分けている。
「行き止まり?」
「いや」
アレンが周囲を見回す。
「何か来る」
その予感が当たったのは、ほとんど同時だった。
地面が大きく揺れ、リリアは反射的にアレンの腕を掴んだ。黒い月から無数の光が降り注ぎ、二人の周囲へ人影を作っていく。
ノア、レオン、カイル、ルシアン、セシル。
学院にいるはずの五人が現れた。
「みんな?」
「違う」
アレンがすぐに剣へ手をかけた。
確かに違う。姿は同じでも、誰も動かない。表情もない。
やがて五人の幻影の中央に、もう一人リリアが現れた。
今のリリアと同じ制服を着て、同じ銀白の髪を揺らしている。
『未来を見せよう』
偽神の声が響いた。
『彼女が自由である未来を』
景色が変わる。
学院の中庭。
幻のリリアは笑っている。
隣にいるのはアレンではなかった。
ノアと楽しそうに話し、次の瞬間にはレオンの隣を歩き、カイルと魔法陣を覗き込み、ルシアンと生徒会室で笑い、セシルと手を繋ぐ。
どれも実際にあり得る光景だった。
『彼女には、お前以外にも選べる相手がいる』
アレンは何も言わない。
『お前だけが三百年待った。お前だけが彼女を殺した記憶を抱えた。お前だけが、彼女のために世界の終わりを生きた。それでも彼女がお前を選び続ける保証はない』
「それはそうだろ」
アレンが答えた。
あまりにも早かったので、今度はリリアの方が彼を見た。
「アレン先輩?」
「保証なんか最初からねえよ」
『恐ろしくないのか』
「怖えよ」
アレンは幻のリリアを見る。そこでは彼女がノアに笑いかけていた。
「めちゃくちゃ嫌だし、見せんなって思ってる」
「嫉妬してる?」
「するに決まってんだろ。特にあいつ」
「ノア?」
「あいつ距離近えんだよ」
こんな時なのに、リリアは少し笑ってしまった。
「笑うなよ。結構本気で嫌なんだからな」
「ごめん」
「あとセシルも嫌だ」
「セシルも?」
「お前、あいつには警戒心なさすぎる」
「女の子だから?」
「そういう意味じゃねえ。あいつがお前を見る目の話してんだよ」
「え?」
「……今はいい」
「気になる」
「帰ったら本人に聞け」
「聞いていいの?」
「いや、やっぱ聞くな。面倒なことになりそう」
偽神の作り出した幻の前で、二人は普通に話していた。
『なぜ恐怖を拒絶する』
「拒絶してねえよ」
アレンが偽神へ視線を戻した。
「怖いって認めてんだろ」
『ならば縛ればいい』
「嫌だって言ってんだよ」
『彼女の選択肢を減らせば、お前を選ぶ確率は上がる』
「それで選ばれて何が嬉しいんだ?」
アレンの声が低くなる。
「他に何もねえから俺を選ぶのと、他にも選べるのに俺を選ぶのじゃ全然違うだろ」
リリアは思わず彼を見つめた。
アレンは少し照れたように眉を寄せる。
「何だよ」
「格好いいこと言ったなと思って」
「今そこ拾う?」
「好き」
「……後にしろ。集中切れる」
「はい」
アレンが咳払いをして偽神を見る。
「それに、俺が三百年待ったことと、こいつが俺を選ぶことは別だ。俺が勝手に待った時間を理由に、こいつへ俺を好きでいろなんて言う気はねえ」
『三百年が無意味になるぞ』
「ならねえよ」
今度の答えには、迷いがなかった。
「あの三百年があったから今の俺がいる。いい思い出だなんて死んでも言わねえし、もう一回やれって言われたら絶対嫌だけど、それでもなかったことにはならねえ」
アレンはリリアの手を握った。
「それをこいつの借金にするつもりもない」
胸の奥が熱くなった。
リリアはこれまで、アレンが三百年待ったことを知ってから、どこかでその時間を埋めてあげたいと思っていたのかもしれない。
でも、埋める必要はない。
三百年はアレンの過去だ。
リリアが返済するものではない。
「私も一個言っていい?」
「おう」
リリアは偽神ではなく、アレンを見た。
「私はアレン先輩を選んだよ」
「……今?」
「今」
「それは知ってる」
「でも、ちゃんと言いたい」
アレンが黙る。
「ノアも、レオン先輩も、クロフォード先輩も、ルシアン先輩も、セシルも大切です。これからも仲良くしたいし、アレン先輩と付き合ったからって離れるつもりもない」
「分かってる」
「その上で、恋人として隣にいてほしいのはアレン先輩です」
アレンの瞳が少しだけ見開かれた。
「それは三百年待ったからじゃなくて、今の私が決めたこと」
「ああ」
「未来は分からないけど、今はそう思ってる」
「それで十分だ」
アレンは笑った。
「むしろ、それがいい」
その瞬間、周囲にいた五人の幻影へ亀裂が走った。
偽神の声が低く響く。
『永遠を望まないのか』
「望んでないとは言ってねえよ」
アレンが答える。
「できるならずっと一緒にいたい。でも、永遠って最初に決めて閉じ込めるもんじゃなくて、今日一緒にいて、明日も一緒にいて、その次の日も選んで、後から振り返った時に長かったなって思うもんだろ」
「アレン先輩」
「何?」
「それ、かなり好き」
「俺のこと?」
「今の言葉」
「……俺じゃねえのかよ」
「アレン先輩も好き」
「ならいい」
リリアは笑った。
幻影がすべて砕け、黒い光となって十三本目の線へ吸い込まれていく。途切れていた線が再び伸び始め、その先に一枚の黒い石板が浮かび上がった。
表面には文字が刻まれている。
《ALLEN VERMILION》
《THIRD WORLD SURVIVOR》
《WAITING PERIOD:300 YEARS》
《PRIMARY DESIRE:LILIA WILL NEVER LEAVE》
リリアは最後の一文を読んだ。
「リリアが絶対に離れないこと……」
「昔の俺なら、その通りだな」
アレンは石板を見上げた。
「今は?」
「書き換えたい」
「何に?」
アレンは少し考えた。
「一緒に生きること」
その言葉に反応するように、石板の文字が揺れた。
《REJECTED》
「拒否された」
「感じ悪いな」
《SUBJECT ALLEN VERMILION REQUIRES GUARANTEED NON-ABANDONMENT》
「勝手に決められてますよ」
「余計なお世話だ」
アレンが石板へ近づく。
《TRAUMA RECORD:300 YEARS》
《OPTIMAL SOLUTION:PERMANENT BINDING》
「永久拘束……」
「やっぱ閉じ込めろってことか」
「最適解って書いてある」
「俺にとっては最悪だ」
アレンは剣の柄へ手を置いたが、リリアはその腕へ触れた。
「待って」
「何だ?」
「壊す前に、書き換えられないかな」
「どうやって?」
「私の魔法」
可能性創造。
リリアは石板へ手を伸ばした。
「アレン先輩が本当に望んでることを入れたら、変わるかもしれない」
「俺が?」
「うん。でも私が決めたら意味ないから、自分で言って」
アレンは石板を見る。
永久に離れないこと。
三百年間、彼が望み続けたもの。
昔のリリアを失い、誰もいない世界に残され、次の世界が来るまで死ぬことさえできなかった。そんな人が「二度と置いていかれたくない」と願ったのは、きっと間違いではない。
でも今の彼は、その願いの形を変えようとしている。
「俺は」
アレンがゆっくり口を開いた。
「置いていかれたくねえ」
リリアは黙って聞く。
「今でも怖い。お前が急にいなくなる夢も見るし、手離された時に昔思い出すこともある。たぶん、これからも完全にはなくならねえ」
石板の文字が微かに光る。
「でも、だからってお前を縛りたいわけじゃねえ。お前が自由に生きて、その中で俺と一緒にいたいって思ってくれる方がいい」
アレンはリリアを見る。
「俺が欲しいのは、置いていかれない保証じゃない」
赤い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「お前と一緒に生きていける明日だ」
リリアは杖を石板へ向けた。
「それなら、作れるかもしれない」
「保証できる?」
「できない」
「即答だな」
「明日のことなんて誰にも保証できないから。でも、明日へ行ける可能性なら作れる」
「それでいい」
アレンは迷わなかった。
「それがいい」
リリアが魔力を流し込むと、石板に刻まれていた《PRIMARY DESIRE》の文字が崩れ始めた。
《LILIA WILL NEVER LEAVE》
その一文が消える。
代わりに新しい文字が浮かび上がった。
《PRIMARY DESIRE:LIVE TOGETHER》
二人で同時に読む。
「一緒に生きる」
「ああ」
アレンが笑った。
「そっちの方が俺らしい」
石板が砕けた。
黒い破片は地面へ落ちる前に光へ変わり、十三本目の線へ吸い込まれる。線は一気に遠くまで伸び、赤かった空の一部が青く変わった。
リリアはその変化を見上げたあと、隣のアレンを見る。
「帰れそう?」
「たぶんな」
「帰ったら何する?」
「お前が言ってたやつ」
「何?」
「キス」
思い出して顔が熱くなった。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけねえだろ」
「でも、その前にお風呂入りたい」
「……雰囲気台無しだな」
「だって戦ったし」
「まあ俺も入りてえけど」
「そのあと?」
「会えるなら」
「会う」
「じゃあそのあと」
「うん」
約束する。
それは世界を救うための約束でも、次の世界で見つけるための約束でもない。ただ今日が終わったあと、もう一度会うための約束だった。
アレンはそんな小さな約束を大切そうに受け取るように笑い、リリアの手を握った。
十三本目の線の先には、まだ黒い月がある。偽神も消えてはいない。それでもアレンの足取りは、ここへ来た時よりずっと軽くなっていた。
三百年間、彼は次の世界が来るのを待つことしかできなかった。何をしても時間は止まったままで、墓の前で話しかけても返事はなく、明日という言葉には何の意味もなかった。
今は違う。
自分で歩ける。隣には返事をする人がいる。明日になったら何をするか、くだらない相談ができる。
アレンが欲しかったものは、永遠に変わらない少女ではなかった。
変わっていく一人の人間と、自分も変わりながら同じ時間を生きることだった。
「リリア」
「何?」
「明日も会おうな」
「もちろん」
「明後日も」
「予定空いてたら」
「そこは空けろよ」
「デートなら空ける」
「じゃあデート」
「どこ行く?」
「帰ってから決めようぜ」
「うん」
二人はそんな話をしながら歩き続けた。
死んだ世界に似つかわしくないほど普通の会話だったけれど、だからこそアレンは何度も笑った。三百年間どれだけ願っても手に入らなかったのは、奇跡でも永遠でもない。明日の予定を誰かと決められる、こんな当たり前の時間だったのだ。
やがて十三本目の線の終点に、学院へ戻るものとよく似た光の扉が現れた。
アレンはその前で一度だけ振り返った。
遠くには昔のリリアの墓がある。もう肉眼ではほとんど見えないほど小さくなっていた。
「行く?」
リリアが尋ねる。
「ああ」
「もういい?」
「うん」
アレンは墓の方角を見つめたまま、静かに笑った。
「三百年、ありがとな」
誰に向けた言葉なのか、リリアは聞かなかった。
昔のリリアかもしれない。死んだ世界そのものかもしれない。あるいは、そこで生き続けた昔の自分へ向けた言葉なのかもしれない。
アレンは前を向いた。
「帰ろうぜ、リリア」
「うん。帰ろう」
リリアは差し出された手を握った。
今度は「絶対に離さない」という誓いのためではない。扉の向こうへ一緒に進むために、二人で手を繋いだ。
光の中へ踏み込む直前、アレンが小さく笑った。
「帰ったら約束忘れんなよ」
「お風呂?」
「その後!」
「分かってます」
「絶対分かってねえ顔してる」
「キスでしょ?」
「……分かってるなら普通に言うなよ」
アレンの耳が赤くなる。
リリアは笑いながら彼の手を引き、二人で光の向こうへ踏み出した。
三百年前にはできなかったことを、今度は二人で選ぶ。
死んで終わるのではなく、生きて次の日へ行く。
その先に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。
それでも、分からない未来へ一緒に進めることこそが、今の二人が選んだ答えだった。

