翌朝、リリアは目を覚ましてからしばらく、白い天井を見つめていた。
昨夜、眠る直前まで考えていた問いが、まだ胸の奥に残っている。
もし明日、授業も約束もなく、誰のところへ行ってもいいとしたら、自分は誰に会いたいのか。
六人とも大切だった。ただ、その大切が全部同じ形ではないことにも、もう気づいている。
ノアの笑顔を見ると安心する。レオンハルトとは、もっと王子ではない彼のことを知りたい。カイルには、自分を見るたびに浮かべるあの苦しそうな顔の理由を聞きたい。ルシアンのことは知れば知るほど分からなくなるし、セシルといる時間は自然で心地いい。
そして、アレン。
赤い髪と赤い瞳。初対面の頃から距離が近く、思ったことを隠すのが下手で、時々腹が立つほど勝手で、それなのに誰より分かりやすく自分を気にしている人。
会いたい人を一人だけ選べと言われて最初に浮かんだのは、彼だった。
「……アレン先輩」
声に出してみると、妙に意識してしまった。
理由は分からない。
だからこそ、確かめたかった。
*
授業が始まるより一時間近く早く寮を出たものの、リリアはすぐに困った。
アレンがどこにいるのか知らない。
昨日の夜には「会いたい」と思っただけで、その先をまったく考えていなかった。
「二年生寮……は入れないし」
訓練場にいる可能性はある。朝から剣や魔法の訓練をしていても不思議ではない。
そう考えて向かった結果、なぜか十分後には温室の裏にいた。
「違う」
見覚えがない。
学院へ入学してそれなりの日数が経ったというのに、方向感覚だけは一向に改善しない。
「訓練場ってどっちだっけ」
「お前、朝っぱらから何してんだ?」
背後から聞こえた声に、勢いよく振り返った。
探していた赤がそこにあった。
「アレン先輩」
「おう」
本人だった。
黒い制服の上着は着ておらず、白いシャツの袖を肘まで捲っている。蒼色のネクタイも少し緩んでいて、片手には訓練用の剣があった。どうやら予想通り朝練の途中らしい。
「なんでこんなとこいんだ?」
「アレン先輩を探してました」
「俺を?」
「はい」
アレンの動きが止まった。
「……何かあったか?」
「ないです」
「じゃあなんで」
「会いたかったから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも嘘ではない。
アレンはもっと分かりやすかった。
赤い瞳を大きくして、数秒ほど完全に固まっている。
「先輩?」
「待て」
「何を?」
「今ちょっと喋んな」
「なんで?」
「いいから」
顔を逸らされた。
耳が赤い。
「照れてる?」
「照れてねえ」
「赤いですよ」
「朝練したからだ!」
「耳も?」
「うるせえ!」
怒られた。
でも、本気で怒っているわけではないことくらいは分かる。
リリアは少し笑った。
「何笑ってんだよ」
「アレン先輩、分かりやすいなと思って」
「お前が分かりにくすぎんだよ」
「私?」
「普通、朝から男探しに来て『会いたかった』なんて言うなら、もうちょいこう……あるだろ」
「何が?」
「照れるとか!」
「ちょっと照れてます」
「見えねえ!」
「心の中で」
「分かるか!」
朝の静かな庭に声が響く。
この感じ。
久しぶりでもないのに、少し懐かしく思えた。
「それで」
アレンが剣を肩へ担ぐ。
「本当にそれだけか?」
「うん」
自然に敬語が抜けた。
アレンも気づいたらしい。
目が合う。
けれど何も言われなかった。
「昨日、考えてたんです」
「何を?」
「もし誰に会ってもいいなら、誰に会いたいかなって」
アレンの表情が少し変わる。
「それで俺?」
「最初に浮かんだ」
「……マジで?」
「うん」
今度は。
アレンが黙った。
さっきみたいな照れ方ではない。
もっと。
何かを堪えるような顔。
「アレン先輩?」
「……そういうの」
低い声だった。
「簡単に言うなよ」
「嫌だった?」
「逆だ」
アレンは目を逸らした。
「嬉しすぎるから困ってんだよ」
胸が。
小さく鳴った。
いつもそうだ。
アレンは。
欲しい言葉を。
何の準備もさせずに投げてくる。
「先輩も会いたかった?」
聞く。
赤い瞳が戻ってくる。
「会いたかった」
迷わない。
「昨日も?」
「会いたかった」
「一昨日は?」
「会いたかった」
「毎日?」
「そうだよ」
「……それはちょっと重い」
「お前な!」
笑ってしまった。
アレンも呆れたように笑う。
でも。
その笑顔の奥。
一瞬だけ。
寂しそうに見えた。
なぜだろう。
毎日会っている。
同じ学院にいる。
自分はここにいる。
それなのに。
アレンは時々。
ずっと会えなかった人を見ているような目をする。
「アレン先輩」
「ん?」
「今日、放課後空いてます?」
「空いてるけど」
「ご飯食べたい」
「食堂?」
「外」
「二人で?」
「嫌?」
「嫌なわけねえだろ」
また即答だった。
その速さが。
少し嬉しい。
「じゃあ行こう」
「……お前さ」
「何?」
「俺がどんだけ我慢してるか知らねえだろ」
「何を?」
「知らなくていい」
「気になる」
「今はいい」
「教えて」
「嫌だ」
「ケチ」
「何とでも言え」
アレンが笑う。
「放課後、迎えに行く」
「二年生棟まで行けます」
「お前が?」
「行ける」
「温室の裏で何言ってんだよ」
「今日はたまたま」
「絶対迎えに行く」
「信用ない」
「あると思ってたのか?」
「ひどい」
でも。
迎えに来てくれるなら。
それも悪くない。
*
放課後。
本当にアレンは来た。
授業が終わって教室を出ると、廊下の壁にもたれて待っている。
目立つ。
かなり。
二年生の赤髪の男子が一年生棟にいるだけでも目を引くのに、アレンは元々有名だ。
「アレン先輩」
「おう」
「目立ってます」
「知るか」
「女子見てる」
「だから?」
「モテる?」
「知らねえ」
「告白されたことある?」
「ある」
「何回?」
「覚えてねえ」
「すごい」
「何の話だよ」
二人で歩き出す。
廊下の視線はまだついてくる。
リリアは何となくアレンを見る。
背が高い。
かなり高い。
隣を歩くと、自分の頭が彼の肩より低い。
「何だよ」
「大きいなと思って」
「今さら?」
「何センチ?」
「百八十七」
「でかい」
「お前が小せえんだよ」
「百五十四あります」
「小せえだろ」
「普通です」
「そうか?」
アレンの手が伸びてきた。
頭へ。
「ちょうどこの辺」
「何してるの?」
「身長差確認」
「やめて」
手を払う。
アレンが笑う。
「怒んなよ」
「子ども扱いされた」
「してねえよ」
「頭触った」
「触りたかっただけ」
「……なんで?」
「好きだから」
足が止まった。
アレンも止まる。
「今」
「ん?」
「好きって言いました?」
「言った」
「普通に?」
「今さらだろ」
「今さら?」
アレンが。
少しだけ。
困ったような顔をした。
「俺がお前のこと好きなの、知らなかったのか?」
「……知らない」
「マジかよ」
「ちゃんと聞いたことない」
「嘘だろ」
「いつ言った?」
アレンが記憶を探すように黙る。
「……言ってねえかも」
「ほら」
「でも分かるだろ!」
「なんとなくは」
「なんとなく!?」
「距離近いし」
「そこ!?」
「よく見てるし」
「他には?」
「すぐ怒る」
「それ好意の根拠に入れんな!」
リリアは笑った。
でも。
胸の奥が。
さっきから。
落ち着かない。
「じゃあ」
聞く。
「本当に好きなんですか?」
今度は。
アレンは笑わなかった。
廊下にはまだ人がいる。
だから。
少しだけ。
声を落とす。
「好きだよ」
赤い瞳が。
まっすぐ。
こちらを見る。
「ずっと好きだ」
その「ずっと」が。
妙に重かった。
「どれくらい?」
何となく聞いた。
アレンの目が。
揺れた。
「……お前が思ってるより」
「入学してから?」
返事がない。
「アレン先輩?」
「その話は」
視線を逸らす。
「飯食いながらする話じゃねえな」
逃げた。
初めて。
そう思った。
いつも。
何でも真っ直ぐ言う人なのに。
「じゃあ、いつか教えて」
「……ああ」
「約束」
「分かった」
歩き出す。
今度は。
少しだけ。
距離が近かった。
*
学院から少し離れた街の食堂へ入った。
高級な店ではない。
学生も多い。
焼いた肉と野菜。
スープ。
パン。
簡単な料理。
「ここでよかったの?」
アレンが聞く。
「うん」
「レオンならもっと洒落たとこ連れてくぞ」
「なんでレオン先輩?」
「いや」
「比べてる?」
「比べてねえ」
「じゃあいい」
向かいに座る。
料理が来る。
「いただきます」
食べる。
美味しい。
「うまい?」
「うん」
「よかった」
「アレン先輩のおすすめ?」
「たまに来る」
「一人で?」
「友達とも。一人の時もある」
「何食べるの?」
「だいたい肉」
「やっぱり」
「何だよ」
「イメージ通り」
「お前は?」
「甘いもの」
「それもイメージ通り」
「真似した?」
「してねえ」
特別なことは。
何もしていない。
ただ。
ご飯を食べて。
話して。
笑う。
でも。
不思議だった。
楽しい。
「アレン先輩」
「ん?」
「こういうのいいですね」
「こういうの?」
「普通の」
アレンの手が。
止まった。
「普通……」
「うん」
「そっか」
その顔。
また。
少しだけ。
遠い。
「嫌?」
「違う」
アレンは。
ゆっくり。
笑った。
「俺も好きだ」
「この店?」
「こういうのが」
目が合う。
「お前と飯食って、くだらねえ話して、明日もまた会うって分かってるの」
胸の奥が。
きゅっとなる。
「それがいい」
アレンが言った。
どうして。
そんな。
当たり前のことを。
大切そうに言うのだろう。
「明日も会えますよ」
「分かってる」
「明後日も」
「ああ」
「来週も」
「……ああ」
「卒業まで」
「リリア」
名前を呼ばれた。
声が。
少し掠れている。
「どうしたの?」
「それ以上言うな」
「なんで?」
「嬉しいから」
笑っている。
でも。
泣きそうにも見えた。
「アレン先輩」
「ん?」
「私、どこか行くと思ってる?」
その瞬間。
赤い瞳が。
はっきり揺れた。
聞いてはいけなかったのかもしれない。
でも。
もう。
気づいてしまった。
「時々、そういう顔する」
「……どんな」
「私がいなくなるみたいな」
アレンは。
答えなかった。
周囲では。
普通に人が話している。
皿の音。
笑い声。
料理の匂い。
その中で。
二人の間だけ。
少し静かになった。
「昔」
やがて。
アレンが口を開く。
「約束した奴がいた」
「誰?」
「……お前」
リリアは。
瞬きをした。
「私?」
「ああ」
「覚えてない」
「知ってる」
アレンは。
少し笑った。
「覚えてなくていい」
その言い方が。
優しすぎて。
逆に。
胸が痛かった。
「何を約束したの?」
「まだ言いたくねえ」
「どうして?」
「今のお前が俺に会いたいって言ってくれた日くらい」
アレンは。
リリアを見る。
「昔の話じゃなくて、今の話してえから」
その言葉に。
リリアは。
何も返せなかった。
昔。
自分とアレンの間に。
何があったのか。
知りたい。
でも。
今。
目の前にいる彼が。
過去ではなく。
自分を見ようとしている。
それも。
嬉しかった。
「じゃあ今日は聞かない」
「悪い」
「その代わり」
「何だ?」
「またご飯行こう」
アレンが。
目を見開く。
「今日だけじゃなくて」
言葉にする。
「また普通のことしたい」
赤い瞳が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「……ああ」
「次は私が店決める」
「迷わず行けんのか?」
「迎えに来て」
「結局俺じゃねえか」
「お願いします」
アレンが笑った。
「分かったよ」
それから。
少しだけ。
照れたように。
「何回でも迎えに行く」
*
店を出た頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
学院へ戻る道を二人で歩く。
行きより。
距離が近い。
手は。
繋いでいない。
でも。
歩くたび。
時々。
指先が触れる。
一回。
二回。
三回。
気づいている。
たぶん。
アレンも。
でも。
どちらも。
手を離すほど。
距離を取らなかった。
四回目。
触れた時。
アレンの小指が。
ほんの少し。
リリアの指に絡んだ。
握るわけではない。
すぐに。
離せるくらい。
「……アレン先輩」
「嫌なら離す」
前を向いたまま。
言われる。
リリアは。
自分の指を見る。
少しだけ。
考える。
「嫌じゃない」
答えた。
小指だけ。
繋がったまま。
二人で歩く。
手を繋ぐより。
なぜか。
恥ずかしい。
「アレン先輩」
「ん?」
「顔赤い」
「夕日のせいだ」
「耳も」
「うるせえ」
「私も赤い?」
聞くと。
アレンが。
初めて。
こちらを見る。
目が合う。
「……赤い」
「そっか」
「何笑ってんだよ」
「同じだなと思って」
アレンは。
一瞬黙って。
それから。
笑った。
「そうだな」
学院が。
見えてくる。
明日も。
会える。
それは。
リリアにとって。
当たり前だった。
でも。
隣を歩く彼にとっては。
きっと。
当たり前ではなかった。
その理由を。
まだ。
知らない。
ただ。
今は。
明日も会いたいと思う。
その気持ちだけは。
昔の誰かのものではない。
今の。
リリア自身のものだった。

