魔法より、君に恋をする。


 レオンハルトの問いを聞いた途端、銀白色の髪の少女は笑うのをやめた。

 夢の中にあるはずの王宮は異様なほど静かで、窓の外には星も月も見えない。少女の背後に浮かぶ黒い月だけが、この空間に不自然な光を落としていた。

『誰、って』

 少女は戸惑ったように自分の胸へ手を置いた。

『リリアよ』

「それは名前だろう?」

『あなたが愛したリリア』

「僕は君を愛した記憶がない」

 少女の顔が僅かに歪む。

『思い出せば分かる』

「だから思い出さないと決めたんだ」

『どうして?』

「今の僕には、今の僕の人生があるから」

 答えると、少女は悲しそうに目を伏せた。

 その表情を見た瞬間、レオンハルトの胸が痛んだ。夢を通して流れ込んできた過去の感情が反応しているのか、それとも単純に目の前で傷ついた顔をされることが苦しいのか、自分でも分からない。

 けれど、分からないからこそ決めつけてはいけないと思った。

「君は、本当に過去のリリアなの?」

『そうよ』

「最初のリリア?」

 少女が黙る。

「それとも第七世界で僕が愛したリリア?」

 返事はない。

「十二回のうち、どのリリア?」

『私は……』

 少女の瞳が揺れる。

『リリア』

「それしか分からない?」

『違う』

「じゃあ教えて」

 レオンハルトは一歩近づいた。

「君自身のことを」

 少女が息を呑む。

「何が好き?」

『え?』

「食べ物でも、花でも、色でもいい。何が好き?」

『私は……』

「何が嫌い?」

『……』

「どこへ行きたい?」

『……』

「何をしたい?」

 質問するたびに、少女の顔から自信が消えていく。

『分からない』

 やがて小さな声が落ちた。

『何も、分からない』

 レオンハルトは少女を見つめた。

 敵意は感じない。

 むしろ。

 彼女自身が一番混乱している。

「なら、君はまだ自分が誰なのか知らないんじゃない?」

『私はリリアよ』

「それは誰に教えられた?」

 少女が振り返る。

 黒い月。

『……あれが』

「君自身が決めた名前じゃない?」

『分からない』

「僕を愛してる?」

『愛してる』

「どうして?」

『だって、私はあなたを――』

 そこで言葉が止まる。

 少女は胸を押さえた。

『あなたを……』

 何度繰り返しても、その先が出てこない。

 レオンハルトはようやく理解した。

 この少女は嘘をついているわけではない。

 与えられた情報を、本当だと思っているだけだ。

「君は僕を知らないんだね」

 少女が顔を上げる。

「僕も君を知らない」

『違う』

「違わないよ」

『あなたは私を愛していた』

「過去の僕は、誰かを愛していた。それは否定しない」

 レオンハルトは静かに答えた。

「でも、その人が君なのかどうかを、僕は知らない」

『私よ』

「なら、君自身の言葉で教えて」

 少女の唇が震える。

「記録じゃなく、誰かに決められた役割でもなく、君自身が何を思ってるのかを聞かせて」

 長い沈黙のあと、少女は小さく首を振った。

『分からない』

「うん」

『何も分からない』

「なら、そこからでいいんじゃない?」

 少女が驚いた顔をする。

『……私を、偽物だと言わないの?』

「偽物かどうかも僕には判断できない」

『でも私は、あなたの恋人だったリリアじゃないかもしれない』

「たぶん、そうなんだと思う」

『なら私は何?』

「それを僕に決めさせるの?」

 少女は何も言えなくなった。

「君が決めればいい」

 その瞬間、黒い月が大きく揺れた。

『不要だ』

 空間全体が震える。

『記録に意思は必要ない』

 少女の身体が透け始めた。

『……嫌』

 初めて。

 与えられたものではないように聞こえる声だった。

『消えたくない』

 レオンハルトは反射的に手を伸ばした。

 しかし指先が触れる直前、黒い光が二人の間を裂いた。

     *

 リリアが目を覚ましたのは、まだ夜明け前だった。

 理由もなく胸騒ぎがした。

 ベッドから起き上がった瞬間、右腕に十三本の線が浮かび、そのうち一本が黒く点滅している。

「……レオン先輩?」

 なぜか、すぐにそう思った。

 着替える時間すら惜しくて、寝間着の上に上着を羽織り、女子寮を飛び出した。

 当然、男子寮へは入れない。

 だから途中で方向を変えた。

 生徒会室。

 ルシアンなら何か分かるかもしれない。

 夜明け前なのに灯りがついていた。

「ルシアン先輩!」

 扉を開ける。

 ルシアンがいた。

「来ると思った」

「レオン先輩が変です」

「君にも分かるか」

「何が起きてるんですか?」

「十三個目の石が、レオンハルトと接続した」

「切れます?」

「試している」

 机の上には大量の術式が広がっていた。

「私もやります」

「できる?」

「分かりません。でもやる」

 リリアは迷わず隣へ座った。

「何すればいい?」

 ルシアンが一瞬だけこちらを見る。

「君、本当に変わったね」

「今それ必要?」

「必要ない」

「じゃあ早く」

「分かった」

 説明を受ける。

 十三本目の線へ魔力を流し、レオンハルトとの接続点を探す。

 普通の魔法ではない。

 術式もない。

 だから。

 自分の魔法を使う。

「《可能性創造》」

 右腕が光る。

 視界が白く染まった。

     *

 次に目を開けた時。

 リリアは知らない王宮に立っていた。

「……どこ?」

「リリア?」

 声。

 振り返る。

「レオン先輩!」

 いた。

 駆け寄る。

 そのまま抱きつきそうになって、直前で止まる。

「本物?」

「たぶん」

「合言葉」

「決めてないよ」

「じゃあ私の好きな食べ物」

「苺のタルト」

「方向音痴?」

「かなり」

「余計」

「本物っぽい?」

「はい」

 安心した途端、今度こそ抱きついた。

 レオンハルトの腕もすぐに背中へ回る。

「心配した」

「ごめん」

「寝てたら腕が光った」

「僕も寝てた」

「夢?」

「たぶん、それに近い場所」

 少し離れる。

 そこで。

 もう一人いることに気づいた。

 銀白色の髪。

 青紫色の瞳。

 自分と。

 よく似た少女。

「……私?」

『違う』

 少女が答える。

『たぶん』

「たぶん?」

『私も分からない』

 リリアは少女を見る。

 不思議な感覚だった。

 以前なら。

 過去の自分だと思ったかもしれない。

 でも今は違う。

「あなたが昔のリリア?」

『そう言われた』

「誰に?」

 少女が黒い月を見る。

「偽神?」

『うん』

「じゃあ信用できないね」

『……あなた、自分と同じ顔をしている私を見て、それだけ?』

「似てるけど同じじゃない」

『どうして分かるの?』

「なんとなく」

「そこはもう少し理屈が欲しいな」

 レオンハルトが苦笑する。

「でも違うでしょ?」

「僕もそう思う」

「ならいいです」

 少女は呆然としている。

『怖くないの?』

「何が?」

『私が、あなたの代わりになるかもしれない』

 リリアは少し考えた。

「嫌です」

『……そう』

「でも、あなたがいることが嫌なんじゃない」

 少女が顔を上げる。

「私の代わりにされるのが嫌。私があなたの代わりにされるのも嫌」

『同じ顔なのに?』

「顔で人決めるの?」

『……』

「私はリリアで、エリシアでもある。あなたは?」

 少女は答えられない。

「名前ない?」

『リリアだと言われた』

「それ使いたい?」

『分からない』

「じゃあ後で決めればいいよ」

『後で?』

「うん」

『私に、後があるの?』

 その問いに。

 リリアは黙った。

 確約できない。

 だから。

 嘘はつかなかった。

「分からない」

『……』

「でも、あってほしいとは思う」

 少女の瞳が揺れる。

『どうして?』

「消えたくないんでしょ?」

『うん』

「じゃあ、それで十分じゃない?」

 黒い月が。

 大きく震えた。

『記録に未来はない』

「また勝手に決めてる」

 リリアは空を見る。

「そればっかりですね」

『記録は過去を保存するものだ』

「でも今、話してる」

『与えられた反応だ』

「じゃあ『消えたくない』も?」

 沈黙。

「それも最初から入れたの?」

 答えない。

 少女が自分の胸へ手を置く。

『……違う』

 小さな声。

『あれは、私が思った』

 リリアは笑った。

「じゃあ一個見つかった」

『何が?』

「あなた自身」

 少女の目から。

 涙が落ちた。

『私……』

 その瞬間。

 空間が激しく揺れた。

『不要』

 黒い月から無数の黒い糸が伸びる。

 少女の身体へ絡みつく。

『記録を回収する』

「待って!」

 リリアが手を伸ばす。

 届かない。

『嫌!』

 少女が叫ぶ。

 レオンハルトが動いた。

 黒い糸を掴む。

「レオン先輩!」

「リリア、彼女を!」

「うん!」

 リリアが少女の手を取る。

 触れた。

 冷たい。

 でも。

 確かに感触がある。

『どうして』

 少女が泣いている。

『どうして助けるの?』

「助けたいから!」

『私はあなたじゃないのに』

「だからだよ!」

 リリアは手を離さない。

「あなたは私じゃない。だから、私があなたの人生を決める権利もない!」

 十三本目の線が光る。

「生きたいなら、自分で言って!」

『……』

「私に言わされるんじゃなくて!」

 少女の顔が歪む。

 怖い。

 消えたくない。

 でも。

 初めて。

 自分で。

 選ばなければならない。

『私は』

 黒い糸が。

 さらに強くなる。

『私は、生きたい!』

 叫んだ。

 光が爆発した。

     *

 黒い月に。

 亀裂が入る。

 十三本目の線が。

 また伸びる。

 円まで。

 あと少し。

『なぜだ』

 偽神の声が揺れる。

『記録に選択は存在しない』

「したよ」

 リリアは少女の手を握ったまま答える。

「今」

『あり得ない』

「私もそう言われた」

 リリアは。

 少し笑った。

「でも、いるよ」

 偽神の声が。

 止まる。

 レオンハルトが。

 隣へ来る。

「君の間違いは、ずっと同じなのかもしれないね」

『何?』

「人を役割で決めることだ」

 黒い月を見る。

「リリアは器。僕は王子。彼女は記録。そう決めたら、そこから変わることを許さない」

『役割は世界を維持する』

「でも、人は役割だけで生きてるわけじゃない」

 レオンハルトが。

 リリアの手を取る。

 反対の手では。

 リリアが少女と繋がっている。

「僕は王子だけど、それだけじゃない」

 リリアを見る。

「彼女は世界の中心にいる。でも、それだけじゃない」

 少女を見る。

「そして君も、記録として生まれたとしても、それだけで終わる必要はない」

 少女の涙が。

 また落ちる。

『私にも』

 声が震える。

『これからが、ある?』

「欲しい?」

 レオンハルトが聞く。

 少女は。

 今度は。

 迷わなかった。

『欲しい』

 十三本目の線が。

 強く光った。

     *

 空間が崩れ始める。

「まずい」

 レオンハルトが周囲を見る。

「リリア、戻るよ」

「この子は?」

 少女の手を握る。

「置いていけない」

『私は』

 少女自身も。

 怖そうに周囲を見る。

『どこへ行けばいいの?』

 その時。

 別の声が響いた。

『こちらへ』

「ルシアン先輩?」

 空間の端に。

 紫色の光が現れる。

『記録領域へ退避させる。肉体として現実へ出すことはできないが、意識情報を保存することはできる』

「消えない?」

『保証はできない。ただ、偽神へ戻すよりは可能性がある』

 リリアは少女を見る。

「どうする?」

 少女が驚いた顔をする。

『私が決めるの?』

「当たり前でしょ」

 少女は。

 紫色の光を見る。

 そして。

 リリアを見る。

『行きたい』

「うん」

『消えたくない』

「うん」

『それから』

 少しだけ。

 笑った。

『自分の名前を考えたい』

「いいと思う」

 リリアは。

 手を離す。

 今度は。

 奪われるからではない。

 彼女自身が。

 行くために。

『ありがとう』

 少女が紫色の光へ向かう。

 その途中で。

 振り返った。

『レオン』

「うん」

『あなたが愛した人が私なのか、私はまだ分からない』

「僕も分からない」

『でも』

 少女は。

 穏やかに笑った。

『知らなくてもいい気がする』

「僕もそう思うよ」

『さようなら』

「さようならじゃなくていい」

 少女が目を瞬く。

「またね、でいいんじゃない?」

 レオンハルトが言った。

 少女は。

 少し驚いて。

 それから。

 今までで一番自然に笑った。

『……またね』

 光の中へ。

 消えた。

     *

 リリアが目を覚ますと。

 生徒会室の床に座り込んでいた。

「……戻った」

「おかえり」

 ルシアンの声。

 隣を見る。

「レオン先輩は?」

「男子寮。今頃起きているだろう」

「会いに行く」

「今?」

「今」

「まだ夜明け前だよ」

「待てません」

 立ち上がる。

 少しふらついた。

「無理するな」

「大丈夫」

「方向は?」

「男子寮」

「場所を聞いている」

「……連れてってください」

「そう言うと思った」

     *

 男子寮へ入ることはできないため。

 ルシアンが呼び出した。

 数分後。

 レオンハルトが上着を羽織っただけの姿で出てきた。

「リリア」

「レオン先輩」

 顔を見た瞬間。

 安心した。

 走る。

 今度は。

 止まらなかった。

 そのまま抱きつく。

「わ」

 レオンハルトが受け止める。

「本物?」

「また確認する?」

「念のため」

「苺のタルトが好きで、方向音痴で、思ったより積極的で――」

「最後いらない」

「本物でしょ?」

「本物」

 胸元へ顔を押しつける。

「よかった」

「うん」

 腕が。

 背中へ回る。

「彼女は?」

「ルシアン先輩が保存できたって」

「そっか」

「まだ何なのかは分からないみたい。でも、消えてない」

「よかった」

 少しの間。

 二人とも。

 何も言わなかった。

 夜明け前。

 寒い。

 でも。

 レオンハルトの腕の中は。

 暖かかった。

「レオン先輩」

「うん?」

「昔のリリアに会って、どうでした?」

「嫉妬してる?」

「ちょっとだけ」

「正直だね」

「だって顔ほぼ私だったし」

「でも違った」

「うん」

「君じゃなかった」

 リリアが。

 顔を上げる。

「それだけ?」

「それだけで十分じゃない?」

「……もうちょっと欲しい」

「珍しいね」

「彼女なので」

 レオンハルトが笑う。

「じゃあ」

 頬へ。

 手が触れる。

「僕が今、会えて嬉しいのは君だよ」

「うん」

「抱きしめたいと思うのも」

「うん」

「キスしたいと思うのも」

 そこで。

 リリアは少し笑った。

「今したい?」

「したい」

「私も」

 今度は。

 聞くだけで。

 恥ずかしくならなかった。

 顔が近づく。

 夜明け前の。

 誰もいない庭。

 唇が。

 柔らかく触れる。

 一度。

 それだけ。

 離れたあと。

 リリアは。

 レオンハルトの胸元へ。

 もう一度。

 顔を寄せた。

「眠い」

「そりゃそうだよ」

「今日授業ある?」

「ある」

「休みたい」

「駄目」

「王子の力で」

「使いません」

「彼氏の力で」

「それも無理」

「役に立たない」

「ひどいな」

 笑いながら。

 二人で。

 朝を待った。

 世界は。

 まだ終わっていない。

 十三本目の線も。

 まだ完成していない。

 それでも。

 過去から作られた存在が。

 初めて。

 自分の未来を欲しいと言った。

 その選択は。

 確かに。

 世界を。

 少しだけ。

 変えていた。

     *

 学院地下。

 十三個目の石。

 《ALTERNATIVE SELECTION》

 その文字が。

 消える。

 代わりに。

 新しい文字が。

 浮かんだ。

 《FINAL SELECTION》

 その下。

 《LILIA》

 《LEONHART》

 そして。

 もう一つ。

 今までなかった文字。

 《KINGDOM》

 黒い月が。

 静かに。

 王都の上空へ。

 姿を現し始めた。