翌朝、リリアが目を覚ました時には、右腕の十三本の線は消えていた。
昨夜、十三本目の先端が僅かに曲がり、円を作ろうとしていたことは覚えている。すぐにルシアンへ知らせるべきだったのかもしれないが、時刻が遅かったこともあり、朝になってから話すことにした。
それより少しだけ困っていることがある。
昨日、レオンハルトと二度目のキスをした。
しかも自分から「もう一回は?」と聞いた。
冷静になって思い返すと、かなり恥ずかしい。
「……最近の私、積極的すぎる?」
鏡の中の自分に聞いても、当然答えは返ってこない。
嫌だったわけではない。むしろ、もう一度したいと思ったから聞いただけだ。それなら別に悪いことではない気もする。
「したかったんだから仕方ない」
そう結論づけて部屋を出た。
*
女子寮の前には、今日もレオンハルトがいた。
すっかり朝の光景になりつつある。
「おはよう、リリア」
「おはようございます」
顔を見る。
昨日のことを思い出す。
視線が唇へ行きそうになって、慌てて目を見る。
レオンハルトが笑った。
「また思い出してる?」
「何を?」
「昨日」
「……レオン先輩も?」
「朝から」
「じゃあ同じですね」
「同じだね」
少し恥ずかしいのに、嫌ではない。
リリアが手を差し出すと、もう説明する必要もなく指を絡められた。
「慣れましたね」
「手を繋ぐのはね」
「キスは?」
「朝から聞く?」
「気になったから」
「まだ慣れてないよ」
「私も」
「なら安心した」
「なんで?」
「僕だけ毎回緊張してたら格好悪いから」
「別に格好悪くないです」
「そう?」
「はい。私も緊張してる方が嬉しい」
レオンハルトが少し意外そうに見る。
「どうして?」
「同じだから」
「君、お揃い好きだね」
「好きかも」
「じゃあ僕も緊張しておこうかな」
「わざとは違う」
「難しいな」
そんな話をしながら歩く朝が、もう少し続けばいいと思った。
その願いを邪魔するように、中央棟の鐘が鳴った。
通常の始業鐘ではない。
三回。
緊急招集の合図だった。
*
生徒会室へ着くと、ルシアンはすでに全員を待っていた。
「地下へ行く」
説明はそれだけだった。
普段なら質問するリリアも、今日のルシアンの表情を見て黙ってついていく。
学院の地下。
以前、十三本の線について調べた場所よりさらに深い区画だった。
階段を下りるほど空気が冷たくなる。
「こんなところあったんですね」
「学院設立以前から存在する区画だ」
「ルシアン先輩は全部知ってるんですか?」
「知っていた。最近は知らないものが増えた」
「嫌ですか?」
「逆だよ」
ルシアンが僅かに笑う。
「知らないものがある方が、世界としては健全らしい」
やがて大きな扉へ辿り着く。
ルシアンが触れると、扉がゆっくり開いた。
その先。
円形の部屋。
中央に。
十三個の石が並んでいた。
「……増えてる」
リリアはすぐに気づいた。
十二個の黒い石。
そして。
十三個目。
昨日までは存在しなかったもの。
新しい石には文字が浮かんでいる。
《LILIA》
《LEONHART》
《SELECTION》
レオンハルトが隣で息を呑む。
「僕の名前?」
「昨日まではなかった」
ルシアンが答える。
「昨夜出現した」
「何を選べってこと?」
セシルが聞く。
「分からない。だが、触れれば何か起きる可能性が高い」
「じゃあ触ってみます」
「待て」
五人くらいから同時に止められた。
リリアは伸ばしかけた手を戻す。
「まだ触ってないです」
「触ろうとしただろ」
アレンが睨む。
「調べないと分からないから」
「だからって即触るな!」
「アレンの言う通りだ」
カイルまで同意した。
「珍しい」
「何がだ」
「二人が同じ意見」
「そこじゃねえ!」
いつものやり取りに少し空気が緩んだが、レオンハルトだけは十三個目の石を見たままだった。
「ルシアン」
「何?」
「これが僕を指定している理由に心当たりは?」
「ある」
即答だった。
「君が記憶を持っていないからだ」
部屋が静かになる。
「どういうこと?」
リリアが聞く。
「偽神にとって、現在のレオンハルトは異常な存在なんだ」
「私だけじゃなく?」
「ああ。ノア、アレン、カイルには過去の記憶がある。僕にも管理者として記録が残っている。僕たちは程度の差こそあれ、過去十二世界から現在へ情報を持ち越している」
ルシアンがレオンハルトを見る。
「でも君だけは、ほぼ完全に現在の世界だけで人格を形成している」
「それが何か問題なの?」
「偽神にとってはね」
ルシアンが十三個目の石へ視線を戻す。
「再構築とは、本来、前の世界の情報を使って次の世界を作る仕組みだ。なのに現在の君は、重要人物でありながら過去からの情報継承が切れている」
「だから、戻したい?」
「おそらく」
レオンハルトは黙った。
「もし全部戻ったら、どうなる?」
その問いに。
ルシアンはすぐには答えなかった。
「分からない」
「僕が僕じゃなくなる可能性は?」
「ある」
リリアの指が、無意識にレオンハルトの袖を掴んだ。
「どれくらい?」
「判断できない。過去十二世界の記憶と感情が一度に流れ込めば、現在の人格がそれらに圧倒される可能性はある。逆に、単純に記憶として統合できる可能性もある」
「やってみないと分からない?」
「そうなる」
「じゃあやらなくていいです」
リリアが即答した。
全員がこちらを見る。
「必要ないなら、やらなくていい」
「リリア」
「世界を救うのに必要なんですか?」
ルシアンを見る。
「現時点では必要だとは言えない」
「ならしなくていいです」
「でも」
レオンハルトが口を開く。
「過去の記憶の中に、十三本目を完成させる方法があるかもしれない」
「あるかもしれないだけですよね?」
「そうだけど」
「レオン先輩がいなくなるかもしれないのに?」
言葉にした途端、怖くなった。
身体が消えるわけではない。
それでも。
今のレオンハルトが。
自分の好きになった人が。
十二の人生に飲み込まれて。
別の誰かみたいになるかもしれない。
「嫌です」
もう一度言った。
「それは嫌」
レオンハルトがこちらを見る。
「リリア」
「何?」
「少しだけ、考えさせて」
「……うん」
嫌だ。
でも。
決めるのは彼だ。
昨日。
自分たちでそう決めたばかりだった。
「分かった」
リリアは袖から手を離した。
「でも、私の意見は今言ったから」
「うん」
「嫌です」
「分かってる」
*
その日の昼。
リリアは一人で食事をしていた。
珍しい。
セシルは訓練。
ノアとアレンは実技。
カイルは三年生の授業。
ルシアンは生徒会。
そして。
レオンハルトは王宮から呼ばれていた。
静かだった。
「……会いたい」
朝会ったばかりなのに。
でも。
今は会いたかった。
記憶を戻すかもしれない。
そう考えるだけで。
落ち着かない。
「リリア?」
声に顔を上げる。
セシルだった。
「訓練は?」
「早く終わった。隣いい?」
「うん」
セシルが座る。
「レオン先輩のこと?」
「分かる?」
「顔に書いてある」
「最近みんなそれ言う」
「リリアが分かりやすくなったんじゃない?」
「そうかな」
「恋してからね」
セシルは自分の飲み物を開ける。
「記憶、戻すかもしれないんだって?」
「聞いた?」
「ルシアン先輩から」
「嫌なんだ」
「うん」
「でも止めたくない」
セシルは黙って聞いている。
「止めたら、昨日偽神がやろうとしたことと同じになる気がする」
「閉じ込めるのと?」
「少し違うけど。私が怖いからって、レオン先輩が決めることを奪うのは嫌」
「うん」
「でもやってほしくない」
「それも言っていいんじゃない?」
リリアはセシルを見る。
「選ばせることと、何も言わないことは違うでしょ」
「……そっか」
「リリアは嫌って言ったんだよね?」
「うん」
「なら、あとはレオン先輩が考えることだよ」
「セシルならどうする?」
聞いてから。
少しだけ。
彼女の表情が変わった。
「私?」
「好きな人が、自分じゃなくなるかもしれないことしようとしてたら」
セシルは少し考えた。
「嫌だって言う」
「止める?」
「たぶん、止めたい。でも最後に決めるのはその人かな」
「怖くない?」
「怖いよ」
セシルが笑う。
「好きだから怖いんじゃない?」
その言葉が。
胸に残った。
*
夕方。
レオンハルトは王宮から戻ってきた。
リリアは学院の正門近くで待っていた。
「リリア?」
「おかえりなさい」
「待ってたの?」
「はい」
「どれくらい?」
「二十分」
「寒くない?」
「ちょっと」
「中で待ってればよかったのに」
「帰ってきた時にすぐ会いたかったから」
レオンハルトが。
少し困ったように笑った。
「そういうこと言われると、嬉しいけど心配になるな」
「次から上着着ます」
「そこじゃないんだけど」
レオンハルトが自分の上着を脱ごうとする。
「いらないです」
「寒いんでしょ?」
「レオン先輩が寒くなる」
「僕は平気」
「じゃあ半分」
「上着を?」
「無理ですね」
「無理だね」
結局。
肩へ掛けられた。
暖かい。
「少し歩く?」
「うん」
二人で学院の庭を歩く。
今日は。
リリアから手を繋いだ。
「考えました?」
「うん」
「記憶のこと」
「考えた」
レオンハルトが足を止める。
「戻さない」
リリアは。
すぐに言葉が出なかった。
「……いいの?」
「いい」
「世界を救う方法があるかもしれないのに?」
「あるかもしれない。でも、ないかもしれない」
「うん」
「それに」
レオンハルトが。
繋いだ手を見る。
「僕はずっと、記憶がないことを欠けていると思ってた」
静かな声だった。
「みんなが知っていることを僕だけ知らない。過去の僕が何をしたのかも、誰を愛したのかも分からない。それが怖かったし、自分だけ置いていかれているような気もした」
リリアは黙って聞く。
「でも最近、少し考え方が変わった」
「どう?」
「知らないからこそ、今の僕が選べたこともあるのかもしれない」
青い瞳が。
リリアを見る。
「君を見た時、昔の誰かと重ねなかった。最初から、今の君しか知らなかった」
リリアの胸が。
ゆっくり。
温かくなる。
「それが」
レオンハルトは少し笑う。
「今は、すごく大切に思える」
「……私も」
「うん?」
「嬉しい」
リリアは。
繋いだ手を。
少し強く握った。
「レオン先輩が覚えてないこと、前は少し寂しいのかなって思ってた」
「今は?」
「好き」
「僕が忘れてることが?」
「違います」
少し笑う。
「昔の私を知らないレオン先輩が、今の私を好きになってくれたこと」
レオンハルトの表情が。
柔らかくなる。
「うん」
「だから」
リリアは。
彼の手を引いた。
「今のままでいて」
「……それは結構難しいお願いだね」
「なんで?」
「人は変わるから」
「そういう意味じゃないです」
「分かってる」
レオンハルトが笑う。
「でも、変わっていく僕も見ていてほしい」
「見る」
「君も変わる?」
「たぶん」
「じゃあ、僕も見るよ」
「うん」
未来。
それは。
変わらないことではない。
変わっていくこと。
知らないものが増えること。
昨日と違う自分になること。
それでも。
そのたびに。
選び直すこと。
リリアは。
少しだけ。
十三本目の線の意味が。
分かった気がした。
*
その瞬間。
右腕が。
熱くなった。
「リリア?」
十三本の線。
現れる。
十三本目。
昨日。
少しだけ曲がった線。
それが。
さらに伸びる。
円を。
作ろうとして。
あと少し。
届かない。
「また伸びた」
レオンハルトが言う。
「今の選択?」
「たぶん」
過去の記憶を。
取り戻さない。
知らないことを。
欠陥にしない。
今の自分で。
未来へ行く。
その選択が。
世界を。
また少し。
独立させた。
*
その夜。
学院地下。
十三個目の石に。
新しい文字が浮かんだ。
《MEMORY RESTORATION――REJECTED》
しばらくして。
文字が。
消える。
代わりに。
別の言葉が現れた。
《ALTERNATIVE SELECTION REQUIRED》
そして。
黒い月の声が。
響く。
『記憶を拒むなら』
十三個目の石が。
割れる。
中から。
白い光が漏れる。
『過去を、現在に戻せ』
*
同じ頃。
レオンハルトは。
眠っていた。
夢の中。
王宮。
見覚えのある部屋。
窓辺。
銀白色の髪。
過去のリリア。
いつもなら。
それだけ。
でも。
今日は違った。
少女が。
振り返る。
そして。
レオンハルトを見た。
『あなた』
声。
今までの記録とは。
違う。
レオンハルトは。
直感的に。
分かった。
これは。
夢ではない。
『私を』
少女が。
一歩。
近づく。
『今の世界へ連れていって』
レオンハルトは。
何も答えられなかった。
少女の背後。
黒い月が。
浮かんでいる。
『そうすれば』
偽神の声。
『二人とも、存在できる』
過去のリリアが。
手を伸ばす。
『レオン』
その声を。
レオンハルトは。
知っている気がした。
懐かしい。
悲しい。
そして。
胸が。
痛い。
でも。
手を取る直前。
レオンハルトは。
気づいた。
「……君は」
少女が。
微笑む。
「誰?」
その瞬間。
笑顔が。
止まった。

