魔法より、君に恋をする。

翌朝、リリアが女子寮を出ると、本当にレオンハルトがいた。

 冗談だと思っていたわけではない。それでも、朝の光の中で正門近くの木に寄りかかっている金色の髪を見つけた瞬間、思わず足が速くなった。

「レオン先輩」

「おはよう、リリア」

「本当に来た」

「約束したからね」

「迎えに来てもいいですよ、とは言ったけど、約束でした?」

「僕の中では」

 レオンハルトが笑う。昨日の私服とは違い、今日はいつもの制服姿だ。二年生を示す蒼色のネクタイをきちんと締め、髪も整っている。見慣れているはずなのに、休日を一緒に過ごした翌日だからなのか、以前とは少し違って見えた。

「じゃあ行こうか」

「はい」

 二人で校舎へ向かう。昨日は自然に手を繋いだのに、学院内ではそうしなかった。肩が触れそうな距離を歩くだけで、妙に意識する。

「昨日、ちゃんと帰れた?」

「女子寮までですよ?」

「君なら途中で男子寮に着いても驚かない」

「そこまでじゃないです」

「旧研究棟には行くのに?」

「一回だけ」

「一回でも十分すごいよ」

 くだらない話をしながら歩いていると、向こうから数人の生徒が来た。レオンハルトに気づき、少し緊張したように頭を下げる。

「殿下、おはようございます」

「おはよう」

 返した瞬間、彼の雰囲気が僅かに変わった。

 声は優しいままだし、表情も穏やかだ。それでも昨日植物園で見たレオンハルトとは違う。誰に見られても隙のない、王子としての顔だった。

 生徒たちが通り過ぎると、リリアは隣を見上げた。

「今、閉じてました」

「何が?」

「花」

 一瞬きょとんとしてから、レオンハルトが意味を理解して笑った。

「昨日の話?」

「はい」

「そんなに分かる?」

「分かります」

「君の前では?」

「今は開いてる」

「そっか」

 レオンハルトは少し嬉しそうだった。

「それならいいな」

 その表情を見た瞬間、リリアは昨日から考えていたことが、もうほとんど答えになっているのを感じた。

 王子だからではない。綺麗な顔だからでも、優しいからでもない。

 この人のいろいろな顔を、もっと見たい。

 自分には見せてほしい。

 たぶんそれは、友人へ向ける気持ちとは違う。

     *

 教室の前まで来ると、セシルがいた。

「おはよう、リリア……と、レオン先輩」

「おはよう」

「おはよう、セシル」

 セシルは二人を交互に見る。

「一緒に来たんだ?」

「迎えに来てくれた」

「へえ」

 ほんの一瞬だけ、セシルの表情に何かが過ぎった。でもすぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻る。

「よかったね」

「うん」

 リリアが答えると、レオンハルトは「じゃあまた昼に」と言って二年生の教室へ向かった。

 その背中が見えなくなるまで、なんとなく目で追う。

「リリア」

「何?」

「好きなんじゃない?」

 あまりにも普通の声で言われたので、リリアはすぐに返事ができなかった。

「……やっぱり?」

「私に聞くの?」

「確認」

「昨日までなら、まだ途中なのかなって思ったけど」

 セシルが少し笑う。

「今の顔を見ると、もう違うんじゃないかな」

「どんな顔?」

「嬉しそう」

 自分の頬へ触れる。

「普通だけど」

「本人には分からないよ」

 セシルと教室へ入り、いつもの席に座る。

 リリアは鞄を置いてから、小さな声で聞いた。

「セシル」

「うん?」

「好きって、どうなったら確定?」

「確定?」

「これを満たしたら恋愛です、みたいなのない?」

「魔法式じゃないんだから」

「不便」

「そうだね」

 セシルは少し考える。

「じゃあ、その人が他の誰かを好きになったらどう思う?」

「嫌」

「会えない日が続いたら?」

「会いたい」

「触れたい?」

 昨日繋いだ手を思い出す。

「うん」

「自分のことも好きになってほしい?」

「なってほしい」

「二人でいたい?」

「いたい」

「その人の格好悪いところを知っても?」

「もっと知りたい」

 答え終えてから、リリアは黙った。

 セシルも何も言わない。

「……これ、確定?」

「私はそう思うよ」

「そっか」

 不思議だった。

 もっと大きな衝撃があると思っていた。

 恋を自覚する瞬間というのは、胸が苦しくなったり、世界が変わって見えたりするものだと思っていた。

 実際はもっと静かだった。

 ずっと集めてきたものに、ようやく名前がついただけだった。

「私、レオン先輩が好きなんだ」

 口にすると、すとんと胸に落ちた。

「うん」

 セシルが笑う。

「たぶん、そうだね」

「言ってくる」

「今?」

「うん」

「待って。もうすぐ授業」

「……忘れてた」

「恋すると授業時間まで忘れるんだね」

「違うと思う」

「リリアの場合、普段からだったね」

「セシル」

「ごめん」

 笑っている。

 でも、その笑顔が少しだけ寂しそうに見えた。

 リリアはそれが気になったけれど、教師が入ってきたため聞けなかった。

     *

 昼休み。

 いつもの場所には六人が揃っていた。

 レオンハルトを見つけた瞬間、朝とは違う緊張が生まれた。

 好きだと分かった。

 それだけで、昨日まで普通に見ていた相手の顔をまともに見るのが少し難しい。

「リリア?」

「はい」

「どうしたの?」

「何でもないです」

「さっきから僕の顔見て、すぐ逸らしてない?」

「気のせい」

「敬語まで固くなってるけど」

「気のせいです」

 向かいでアレンが怪訝な顔をする。

「お前ら何やってんだ?」

「分かりません」

「俺も分からない」

「じゃあ普通に飯食え」

「はい」

 リリアは昼食を食べる。

 でも、やっぱり気になる。

 隣ではない。

 今日は斜め向かい。

 レオンハルトが飲み物を取る。誰かの話に笑う。アレンと言い合う。ノアに何か言われて困った顔をする。

 全部見てしまう。

「リリア」

 今度はノアだった。

「何?」

「僕の顔にも何かついてる?」

「ついてない」

「じゃあ、なんでさっきから僕の後ろばっかり見てるの?」

 ノアの後ろ。

 レオンハルトがいる。

「……レオン先輩見てた」

「知ってる」

「じゃあ聞かないで」

「確認したかっただけ」

 ノアは笑っていた。

 けれど、少しだけ寂しそうだった。

「そっか」

 それ以上は何も聞かなかった。

 その声を聞いて、リリアは胸の奥に小さな痛みを感じた。

 誰かを選ぶということは、他の誰かの気持ちに応えられないことでもある。

 それでも、自分が誰を好きになるかを曖昧にすることは、きっと誰に対しても優しくない。

 だから。

 今日、言おう。

     *

 放課後になるまでが、異様に長かった。

 最後の授業が終わると、リリアはすぐに教室を出た。レオンハルトの教室へ向かおうとして、廊下を二つ間違えた。

「なんで今日に限って」

 焦るほど分からなくなる。

 ようやく二年生の校舎へ辿り着いたところで、教室から出てきた男子生徒に尋ねた。

「レオンハルト先輩いますか?」

「殿下? さっき王宮の使者が来て、会議室へ行ったよ」

「会議室」

「中央棟の二階」

「ありがとうございます」

 中央棟なら分かる。

 たぶん。

 しかし着いた時には、会議室の扉は閉まっていた。

 外で待つ。

 十分。

 二十分。

 三十分。

 ようやく扉が開いた。

 最初に出てきたのは王宮の紋章をつけた男性だった。その後ろからレオンハルトが現れる。

「リリア?」

「レオン先輩」

「どうしたの? ずっと待ってた?」

「三十分くらい」

「何かあった?」

「あります」

 即答すると、レオンハルトの表情が変わった。

「どこかで話そう」

     *

 連れて行かれたのは、以前二人で話した裏庭だった。

 夕方の庭には誰もいない。

 レオンハルトが振り返る。

「何があった?」

「私のことです」

「うん」

「分かりました」

「何が?」

 さっきまで言うつもりだった。

 好き。

 ただそれだけ。

 なのに本人を目の前にすると、思ったより難しい。

「昨日、途中じゃないかもって言ったの覚えてます?」

「もちろん」

「あれ」

 リリアは一度息を吸った。

「途中じゃなかったです」

 レオンハルトが黙る。

「今日、セシルと話して分かりました」

「……うん」

「レオン先輩が他の人を好きになるの嫌です。会えなかったら会いたいし、昨日みたいに手も繋ぎたい。二人で出かけたいし、王子じゃないレオン先輩のことも、もっと知りたいです」

 話しているうちに、少しずつ緊張が消えていく。

 これは自分の気持ちだ。

 なら、自分の言葉で伝えればいい。

「だから」

 レオンハルトを見る。

「私、レオン先輩が好きです」

 言えた。

 驚くほど素直に。

 レオンハルトは何も言わなかった。

 一秒。

 二秒。

 もっと。

「……レオン先輩?」

「ごめん」

 ようやく声が返る。

「嬉しすぎて、何を言えばいいか分からなくなった」

「よかった」

「よかった?」

「嫌だったらどうしようって、少し思ってたから」

「それはない」

 レオンハルトはすぐに否定した。

「絶対にない」

 そこまで言ってから。

 彼は口を閉じた。

「レオン先輩?」

「……僕も」

 言いかけて。

 止まる。

 その様子に、リリアは首を傾げた。

「何?」

「言いたいことがある」

「うん」

「でも、その前に確認したいことがあるんだ」

「私に?」

「いや」

 レオンハルトは首を振る。

「自分に」

 青い瞳に、迷いがあった。

「君が好きだと思う」

 告白のはずなのに。

 言葉の形が少し違う。

「昨日からずっと考えてた。たぶん、もう疑う必要もないくらい君に惹かれてる。でも」

「昔のこと?」

 聞くと。

 レオンハルトが頷いた。

「夢を見るたびに、感情まで流れ込んでくるんだ」

「昔のレオン先輩の?」

「そう」

 彼は胸元を押さえる。

「彼女を失いたくない。守りたい。愛している。その感情があまりにも強くて、自分の中に入ってくると区別がつかなくなる」

 リリアは黙って聞いた。

「君を見る時に感じるものまで、過去から続いているだけなんじゃないかって思うことがある」

「それが嫌?」

「嫌だ」

 答えははっきりしていた。

「君が今の僕を選んでくれたのに、僕だけ過去の誰かの気持ちで君を好きになるのは嫌だ」

「……そっか」

「だから」

 レオンハルトが苦しそうに笑った。

「少しだけ時間をくれないかな」

 断られたわけではない。

 それでも。

 胸は少し痛かった。

「どれくらい?」

「分からない」

「一ヶ月?」

「そんなに待たせるつもりはないよ」

「一週間?」

「それくらいには答えを出したい」

「分かった」

 リリアは頷いた。

 レオンハルトが意外そうに見る。

「怒らない?」

「なんで?」

「告白してくれたのに、すぐ答えないから」

「ちゃんと考えたいんですよね?」

「うん」

「なら待つ」

 少し考えて。

「でも」

「何?」

「その間に他の人好きになるのは禁止」

 レオンハルトが目を瞬いて、それから笑った。

「それは大丈夫」

「絶対?」

「絶対」

「なら待ちます」

「……ありがとう」

 それで話は終わるはずだった。

 でも。

 帰ろうとした時。

 レオンハルトがリリアの手首を掴んだ。

「ごめん」

「何?」

「一つだけ」

 手首から。

 ゆっくり手へ。

 指が触れる。

「これくらいは、許して」

 リリアはその手を見る。

「答え出てないのに?」

「だから本当は駄目だと思う」

「じゃあ離します?」

 聞くと。

 レオンハルトは困った顔をした。

「……離したくない」

 その答えが。

 嬉しかった。

「じゃあいいです」

 リリアからも握る。

 告白はした。

 まだ恋人ではない。

 それでも。

 今日だけは。

 手を繋いで帰った。

     *

 その夜。

 レオンハルトは、また夢を見た。

 今度は王宮ではない。

 燃えている街だった。

 剣を握る自分。

 血の匂い。

 逃げていく人々。

 遠くに銀白色の髪が見える。

『リリア!』

 叫ぶ。

 彼女が振り返る。

 その瞬間。

 胸を貫かれた。

 膝をつく。

 視界が赤く染まる。

 彼女が走ってくる。

『レオン!』

 抱き起こされる。

 泣いている。

『ごめん、ごめんなさい』

『どうして君が謝るの』

『私が外に出たから』

『違う』

 自分の手が。

 彼女の頬へ触れる。

『僕が選んだ』

 苦しい。

 それでも。

 夢の中の自分は笑っていた。

『最後くらい、君の行きたい方を守りたかった』

 少女が泣く。

 そして。

 自分は。

 言った。

『愛してる』

 そこで。

 夢が終わった。

 レオンハルトは目を覚ました。

 暗い部屋。

 激しい鼓動。

 頬が濡れている。

 夢の中の感情が、まだ胸に残っていた。

 愛している。

 強く。

 深く。

 命を懸けられるほど。

「……これが」

 昔の自分の。

 恋。

 レオンハルトは目を閉じた。

 そして。

 今日のリリアを思い出す。

『私、レオン先輩が好きです』

 真っ直ぐな瞳。

 少し緊張した声。

 待つと言った顔。

 繋いだ手。

 夢の中の愛情とは。

 違った。

 同じ顔をしているのに。

 全然違う。

 昔のリリアを思うと。

 胸が痛い。

 悲しい。

 守りたかったと思う。

 でも。

 今のリリアを思うと。

 明日が楽しみになる。

 会いたい。

 話したい。

 笑ってほしい。

 また二人で出かけたい。

 自分の知らないところも見つけてほしい。

 そして。

 自分も。

 彼女の知らないところを。

 もっと知りたい。

 レオンハルトは。

 暗い部屋で。

 ようやく。

 その違いを理解し始めていた。