約束していた休日の朝、リリアは学院の正門前でレオンハルトを待っていた。
待ち合わせの十五分前に着いたのは、珍しく道に迷わなかったからだ。正門まで迷う方が難しいと言われればその通りなのだが、今日は少しだけ自分を褒めてもいい気がする。
服は散々迷った末に、淡い青紫色のワンピースを選んだ。普段なら着やすさを優先するのに、今日は鏡の前で髪まで何度も確認した。どうしてそこまで気になるのかは、もう考えなくても分かり始めている。
「リリア?」
声に振り返ると、レオンハルトが立っていた。
白いシャツに濃紺の上着。学院の制服でも、王族らしい正装でもない。金色の髪も普段より少しだけ柔らかく見える。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「迷わなかったので」
「正門で迷ったら心配するよ」
「私もそこまでは迷いません」
「本当に?」
「たぶん」
「急に信用できなくなった」
笑いながら近づいてきたレオンハルトが、ふとリリアの姿を見て黙った。
「どうしました?」
「いや、その服」
「変?」
「逆だよ。似合ってる」
視線を逸らさずに言われて、今度はリリアが黙る番だった。
「……ありがとうございます」
「照れてる?」
「少し」
「珍しいね」
「最近増えました」
「誰のせい?」
「レオン先輩も入ってます」
今度はレオンハルトが少し困ったように笑った。
「朝から強いな」
「本当のことなので」
「それなら仕方ないか」
彼が手を差し出すことはなかった。昨日までなら、それを何とも思わなかったはずなのに、今日は少しだけ気になった。
けれど自分から繋ぐ勇気もなくて、リリアはそのまま彼の隣を歩き始めた。
*
「まだ教えてくれないんですか?」
「もうすぐ着くよ」
「王都?」
「王都だけど、前とは違う場所」
「甘いものあります?」
「ある」
「じゃあ大丈夫」
「判断基準そこなんだ」
学院から馬車で王都へ入り、そこからしばらく歩く。中心街を抜けたあたりで、景色が少しずつ変わってきた。
建物が低くなり、道の向こうに緑が増える。やがて大きな石造りの門を抜けると、その先に広い庭園が現れた。
「ここは?」
「王立植物園」
リリアは目を瞬いた。
「レオン先輩、植物好きなんですか?」
「意外?」
「ちょっと」
「だと思った」
レオンハルトは苦笑しながら歩き出した。
「正確には植物そのものより、ここが好きなんだ。小さい頃、王宮から抜け出した時に偶然見つけた」
「また逃げたんですか?」
「またって言わないで」
「この間も兄から逃げたって」
「十五歳の僕の印象がどんどん悪くなるな」
「今よりやんちゃだった?」
「かなりね。勉強も公務も嫌で、兄ばかり自由に見えてた」
「お兄さんは王太子ですよね?」
「そう。実際には僕よりずっと忙しかったんだけど、子どもの頃は分からなかった」
庭園の中には様々な植物が植えられていた。王都の喧騒は遠く、聞こえるのは鳥の声と葉が揺れる音くらいだ。
「ここへ来ると、誰も僕を王子として扱わなかったんだ」
「顔知られてなかった?」
「当時は今ほど外へ出ていなかったからね。庭師のおじいさんに普通に叱られたよ。花壇に入るなって」
「怒られたんだ」
「人生で初めて、王子だからという理由で手加減されずに怒られた」
「嬉しかった?」
「すごく」
「変なの」
「僕も今はそう思う」
レオンハルトが笑う。
リリアはその横顔を見た。
王子としての彼を嫌いなわけではない。人前で誰に対しても優しく振る舞い、期待される役割を完璧にこなす姿は素直に格好いいと思う。
でも、自分がもっと知りたいのは、今話してくれている方だった。
「レオン先輩」
「うん?」
「ここ、他の人も連れてきたことあります?」
「家族以外はないかな」
「女の人も?」
「ないよ」
少しだけ胸が軽くなる。
その変化に自分で気づいて、リリアは内心で納得した。
やっぱり嫉妬だったらしい。
「嬉しそうだね」
「嬉しいです」
「どうして?」
「初めてだから」
「僕が誰かをここへ連れてくるのが?」
「はい」
レオンハルトが歩く速度を少し落とした。
「……そういうことを素直に言われると、本当に困るな」
「嫌じゃないんですよね?」
「全然」
「ならいいです」
「君はいいだろうけど、僕の心臓にはあまりよくない」
「レオン先輩でもそうなるんだ」
「なるよ。特に最近は」
「最近?」
聞くと、レオンハルトは少しだけ笑って先へ歩いてしまった。
「教えてください」
「そのうちね」
「気になる」
「僕ばかり言わされるのは不公平だから」
「何を言えばいいですか?」
「それを僕が指定したら意味がないだろう?」
よく分からない。
でも、少し楽しそうなので追及するのはやめた。
*
植物園の奥には、小さな温室があった。
学院の温室より古く、天井まで伸びた蔓植物がガラスを覆っている。中へ入ると、外より少し暖かかった。
「これ」
レオンハルトが一つの花を指す。
淡い金色の花だった。
「綺麗」
「僕が小さい頃、一番好きだった花」
「名前は?」
「ソレイユ」
「太陽?」
「そう。夜になると閉じて、朝になると開く」
リリアは花を覗き込む。
「レオン先輩っぽい」
「僕?」
「金色だから」
「理由が単純だな」
「あと、外ではちゃんとしてるけど、誰もいないところだと少し違うから」
レオンハルトが目を瞬く。
「それと花がどう繋がるの?」
「開いたり閉じたりする」
「僕、閉じてる?」
「王子の時はちょっと」
リリアは彼を見る。
「今は開いてる感じ」
「……君の前では?」
「はい」
レオンハルトは少し黙ってから、花へ視線を戻した。
「それなら、悪くないな」
「私は今の方が好きです」
自然に出た言葉だった。
レオンハルトがこちらを見る。
「王子じゃない時の方?」
「どっちもレオン先輩だと思います。でも、今の方が近い感じがするから」
「近い方がいい?」
「うん」
返事をしてから、敬語が抜けたことに気づいた。
「あ」
「今、うんって言ったね」
「言いました」
「珍しい」
「戻した方がいいですか?」
「いや」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
「そのままがいい」
「じゃあ、たまに」
「たまにか」
「急には難しいです」
「十分だよ」
彼の笑顔を見ていると、胸の奥がゆっくり温かくなった。
好きになる途中。
そう思っていた。
でも最近は、その言葉が少しだけ言い訳に思えてきている。
*
植物園を出たあと、近くの小さな店で昼食を取った。
食後に出てきたのは、蜂蜜を使った焼き菓子だった。
「苺じゃない」
「不満?」
「美味しそうだから許します」
「よかった」
一口食べる。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
また自然に敬語が抜けた。
レオンハルトは気づいたらしいが、今度は何も言わなかった。ただ少しだけ嬉しそうにしている。
「レオン先輩」
「何?」
「王子辞めたいと思ったことあります?」
唐突な質問だったかもしれない。
けれど今日の話を聞いていて気になった。
「あるよ」
意外にも、答えは早かった。
「何度も」
「辞められない?」
「簡単にはね。僕が第二王子であることで成り立っていることもあるし、僕自身、全部が嫌なわけじゃない。できることも多いから」
「じゃあ続けたい?」
「今はそう思ってる」
「そっか」
「でも」
レオンハルトは少し考えてから続けた。
「王子であることが僕の全部になるのは嫌かな」
「ならないと思います」
「どうして?」
「私、レオン先輩の格好悪いところ探してるから」
レオンハルトが吹き出した。
「それまだ続いてたの?」
「はい」
「何か見つかった?」
「方向音痴じゃない」
「それは格好悪いところじゃないし、むしろ普通だよ」
「勉強さぼってた」
「昔ね」
「お兄さんから逃げた」
「それも昔」
「嫉妬する」
「……それは君もでしょ」
「お揃い」
「また言ってる」
二人で笑った。
王子だから好きなのではない。
完璧だからでもない。
むしろ。
完璧ではないところを見つけるたび、少し嬉しい。
もっと見たい。
もっと知りたい。
それはきっと。
もう答えにかなり近い。
*
帰る頃には、王都の中心部が混み始めていた。
人の波を避けながら歩いていると、前から大きな荷物を抱えた男性が来る。リリアが避けようとした瞬間、別の人と肩がぶつかった。
「わ」
身体が傾く。
すぐに腕を掴まれた。
「危ない」
レオンハルトだった。
「ありがとうございます」
「大丈夫?」
「うん」
腕を支えていた手が離れる。
その瞬間。
リリアは。
少し迷ってから、自分から手を伸ばした。
レオンハルトの手を取る。
彼が驚いた顔をした。
「リリア?」
「迷子防止」
「本当に?」
「半分」
「残り半分は?」
聞かれる。
誤魔化そうと思えばできた。
でも。
今日は。
正直に言いたかった。
「繋ぎたかったから」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、触れているだけだった手に指が重なる。
ゆっくり。
確かめるように握られた。
「僕も」
それだけだった。
でも十分だった。
人混みを歩く。
昨日より自然に。
昨日より近く。
手を繋いで。
*
帰りの馬車では、二人並んで座った。
朝から歩き回ったせいか、リリアは少し眠かった。窓の外を見ているうちに瞼が重くなり、気づけば頭がレオンハルトの肩へ傾いていた。
「……ごめんなさい」
慌てて離れようとすると。
「いいよ」
止められた。
「眠いんでしょ?」
「ちょっと」
「着いたら起こすから」
「重くない?」
「全然」
少し迷って。
もう一度、肩へ頭を預けた。
近い。
昨日までなら緊張したかもしれない。
今は。
少し緊張するのに。
それ以上に安心する。
「レオン先輩」
「うん?」
「今日楽しかった」
「僕も」
「連れてきてくれてありがとう」
「こちらこそ来てくれてありがとう」
「また行きたい」
「うん」
「次も?」
「次も」
目を閉じる。
しばらく馬車の音だけが聞こえた。
「リリア」
レオンハルトの声。
「何?」
「寝た?」
「まだ」
「じゃあ一つ聞いていい?」
「うん」
「前に、僕のことを好きになる途中かもしれないって言ったよね」
眠気が少し飛んだ。
「言った」
「今も途中?」
すぐには答えられなかった。
自分の気持ちを見る。
朝。
会えた時に嬉しかった。
服を褒められて照れた。
誰も連れてきたことがない場所へ、自分を連れてきてくれたことが嬉しかった。
王子ではない彼をもっと知りたいと思った。
手を繋ぎたくなった。
肩に寄りかかっている今も、離れたくない。
もし明日。
レオンハルトが他の誰かを好きになったら。
嫌だ。
かなり。
「……途中じゃないかも」
小さく答えた。
肩が僅かに動いた。
「それは」
「まだ言わない」
「……そこまで言って?」
「ちゃんと分かってから言いたい」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
「分かった」
「待てる?」
「待つよ」
「どれくらい?」
「君が分かるまで」
優しい答え。
だから。
少しだけ。
顔を上げる。
「レオン先輩は?」
「何?」
「まだ途中?」
今度は。
彼が答える番だった。
レオンハルトは窓の外へ目を向け、しばらく考えてからリリアを見る。
「僕も」
青い瞳が柔らかく細められる。
「もう、途中じゃないかもしれない」
心臓が速くなる。
でも。
どちらも。
その先は言わなかった。
今はまだ。
言葉にする一歩手前。
それが。
心地よかった。
*
学院へ戻り、正門の前で別れた。
今日は手を離すことが、昨日より惜しかった。
「じゃあ、また明日」
「はい」
「ちゃんと教室行くんだよ」
「行きます」
「迷わず?」
「たぶん」
「心配だな」
「レオン先輩が迎えに来てもいいですよ」
冗談のつもりだった。
でも。
「じゃあ行こうかな」
普通に返された。
「本当に?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「なら、明日の朝」
「……うん」
また敬語が抜けた。
今度は。
わざとだった。
レオンハルトは気づいた。
でも何も言わず。
ただ笑った。
「また明日、リリア」
「また明日、レオン先輩」
離れて。
寮へ向かう。
少し歩いたところで、リリアは振り返った。
レオンハルトも。
まだこちらを見ていた。
目が合う。
なんとなく。
手を振った。
向こうも振る。
それだけで。
また明日が。
少し楽しみになった。
*
その夜。
レオンハルトは夢を見なかった。
目を閉じても浮かんでくるのは、知らない王宮でも、泣いている過去のリリアでもなかった。
淡い青紫色のワンピース。
金色の花を覗き込む横顔。
蜂蜜の焼き菓子を食べて、美味しいと笑った顔。
自分から手を取って。
『繋ぎたかったから』
そう言った少女。
全部。
今日の記憶だった。
レオンハルトはベッドの中で目を開ける。
過去の自分が誰を愛していたのか。
まだ知らない。
知らなくても。
今夜。
眠る直前に会いたいと思った人は。
もう分かっていた。

