魔法より、君に恋をする。

その夜、レオンハルトは夢を見た。

 知らない部屋だった。

 豪奢な調度品が並び、大きな窓には重いカーテンが掛けられている。王宮の一室に似ている気はするが、少なくとも今の彼には見覚えがない。

 窓辺に、一人の少女が立っていた。

 銀白色の長い髪。振り返った瞳は、青みを帯びた紫色だった。

 リリア。

 そう思ったのに、名前を呼べなかった。

 彼女の顔が、今のリリアとは違って見えたからだ。

『外に出たい』

 少女が言った。

『今日は駄目だ』

 自分の声が返す。

『昨日もそう言った』

『危険なんだ』

『明日も?』

『……分からない』

『じゃあ、いつならいいの?』

 答えられない。

 少女は怒らなかった。ただ悲しそうに目を伏せた。

『レオンは、私を守りたいんだよね』

『もちろんだ』

『でも私は、ここにいたくない』

 その言葉に、胸が痛んだ。

 それでも夢の中の自分は扉を開けなかった。

 彼女を失うくらいなら、嫌われてもここに置く。

 そんな感情が、自分のもののように流れ込んでくる。

『ごめん』

 自分が言う。

『君を外には出せない』

 少女の瞳から涙が落ちた。

 そこで、レオンハルトは目を覚ました。

「……っ」

 勢いよく身体を起こした瞬間、呼吸が乱れた。額に汗が滲んでいる。

 部屋は暗い。見慣れた学院の宿舎だった。

 夢。

 そう思おうとした。

 けれど、胸の奥にはあまりにも生々しい感情が残っていた。

 彼女を守りたい。

 失いたくない。

 だから閉じ込める。

「……僕が?」

 そんなことをするはずがない、と否定したかった。

 けれど同時に、あれがただの夢ではないことも分かっていた。

 知らないはずなのに知っている。

 あの部屋も。

 泣いていた少女も。

 扉に鍵を掛けた自分の手も。

 レオンハルトは震える手で顔を覆った。

     *

 翌朝、リリアはレオンハルトを見つけるまでに、昨日より少し時間がかかった。

 昼休みになってもいつもの場所に来ない。

「レオン先輩、今日いないですね」

 何気なく言うと、向かいにいたアレンがパンを齧りながら眉を上げた。

「朝は見たぞ」

「どこで?」

「二年の教室」

「今は?」

「知らねえよ。俺をあいつの監視役だと思ってんのか」

「同じ学年だから知ってるかと」

「お前、最近あいつのことばっか聞くな」

 言われて、リリアは少し考えた。

「そうかも」

「否定しろよ」

「なんで?」

「……もういい」

 アレンが疲れたように目を逸らす。その隣でノアは何も言わず、飲み物の入ったカップを弄っていた。

 セシルがリリアを見る。

「探しに行く?」

「うん」

 立ち上がると、カイルが口を開いた。

「図書塔の上階」

「え?」

「さっき見た」

「ありがとうございます」

 リリアはそのまま歩き出した。

「迷うなよ」

 背後からアレンの声が飛んでくる。

「図書塔くらい分かります」

「昨日、第二講義棟行くのに三十分かかっただろ!」

「昨日は昨日です!」

 言い返してから角を曲がり、しばらく歩いたところで、リリアは足を止めた。

「……こっちだっけ」

 結局、図書塔へ辿り着くまで二十分かかった。

     *

 最上階近くの閲覧室は静かだった。

 窓際の席に、レオンハルトが一人で座っている。机には本が開かれているものの、読んでいる様子はない。

「レオン先輩」

 呼びかけると、肩が僅かに揺れた。

「リリア?」

「いました」

「僕を探してたの?」

「はい」

 その返事に、いつもなら少し嬉しそうに笑うはずだった。

 今日は違った。

「……どうして?」

「会いたかったから」

「昨日も会ったよ」

「昨日会ったら今日は会っちゃ駄目ですか?」

「そういう意味じゃない」

 レオンハルトは視線を落とした。

 明らかに様子がおかしい。

 リリアは向かいの椅子を引いて座った。

「何かありました?」

「何もないよ」

「嘘」

「即答だね」

「昨日までと違うから」

 レオンハルトが苦笑する。

「そんなに分かりやすい?」

「私には」

 言ってから、それが少し特別な言葉に聞こえた。

 レオンハルトもそう感じたのか、青い瞳が一瞬こちらへ向く。

「……困ったな」

「最近よく言いますね」

「君といると困ることが増えた」

「嫌ですか?」

「逆だよ」

 昨日と同じ答え。

 それでも、笑顔はすぐ消えた。

 リリアは少し待った。

 話したくないなら無理に聞くつもりはない。ただ、今ここから帰る気にもならなかった。

「ここにいていいですか?」

「授業は?」

「次、空きです」

「僕も」

「じゃあいます」

「僕が話さなくても?」

「はい」

「どうして?」

「一緒にいたいから」

 レオンハルトが黙った。

 リリアは鞄から教科書を取り出した。昨日出された課題が残っている。向かいにレオンハルトがいる状態で問題を解き始めると、数分後、小さな笑い声が聞こえた。

「何ですか?」

「いや。君は本当にそのままだなと思って」

「何が?」

「僕がこんな顔をしてるのに、隣で普通に課題を始めるところ」

「話したくなったら話すかなって」

「話さなかったら?」

「課題が終わります」

「合理的だね」

「大事です」

 ようやく、少しだけいつもの笑顔になった。

 それからしばらくして、レオンハルトが口を開いた。

「夢を見たんだ」

 リリアはペンを置いた。

「どんな?」

「君がいた」

「私?」

「たぶん、君じゃない」

 その言葉だけで、何の話か分かった。

「昔のリリア?」

「そうだと思う」

 レオンハルトは昨夜見た夢を話した。王宮らしい部屋。外へ出たいと言う少女。彼女を閉じ込めている自分。

 最後まで聞いてから、リリアは尋ねた。

「それ、本当にあったことだと思います?」

「分からない。でも、ただの夢とは思えない」

「ルシアン先輩に聞きます?」

「まだいい」

「なんで?」

 レオンハルトはしばらく黙っていた。

「怖いんだ」

 昨日と同じ言葉だった。

「もし本当に過去の記憶なら、僕は彼女を閉じ込めたことになる。守るためだと思っていた。でも、彼女は泣いていた」

「それで?」

「それで、僕はそんな人間だったのかと思って」

 リリアは眉を寄せた。

「昔のレオン先輩が?」

「うん」

「今のレオン先輩じゃなくて?」

 彼が顔を上げる。

「同じ僕かもしれない」

「でも覚えてない」

「それでも僕だ」

「難しい」

 リリアは率直に言った。

「私は昔のリリアと魂が違うって分かったから、別人だって言いやすいです。でもレオン先輩は、昔の自分と今の自分がどれくらい同じなのか分からない」

「そうなんだ」

「なら、分かるまで決めなくてよくないですか?」

「何を?」

「自分が嫌な人かどうか」

 レオンハルトが目を瞬いた。

「今のレオン先輩は私を閉じ込めてないです」

「今後するかもしれない」

「したら怒ります」

「……うん」

「逃げます」

「君、道分からないのに?」

「そこは頑張る」

 思わずレオンハルトが笑った。

「笑うところじゃないです」

「ごめん。でも想像したら」

「ちゃんと逃げます」

「分かった。僕も追わないようにする」

「最初から閉じ込めないでください」

「そうだった」

 笑ったあと、少しだけ空気が軽くなった。

 リリアは彼を見る。

「レオン先輩」

「うん?」

「昔のレオン先輩が何したかは、知った方がいいと思います」

「……そうだね」

「でも、それを知ってから今のレオン先輩がどうするかは、今のレオン先輩が決めればいい」

 自分自身にも向けた言葉だった。

 過去を知ることと、過去に従うことは違う。

 レオンハルトは長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「君と話せてよかった」

「私も探してよかった」

「二十分かかったけど?」

「なんで知ってるんですか」

「窓から見えてた」

「……最初から?」

「一度、下を通ったよね」

「呼んでくださいよ!」

「まさか僕を探してるとは思わなくて」

「次から呼んで」

「分かった」

 少し不満だった。

 けれど、それより気になることがある。

「あと」

「何?」

「さっき言ったこと」

「どれ?」

「今後、私を閉じ込めるかもしれないって」

「うん」

「しないと思います」

「どうして?」

「今のレオン先輩、私が嫌がることしたくなさそうだから」

 青い瞳がこちらを見る。

 リリアは続けた。

「昨日、私が好きになる途中かもしれないって言った時も、すぐ答えを欲しがらなかったし。手も、私が取るまで待ってた」

「……よく見てるね」

「レオン先輩のことだから」

 まただ。

 口にしてから気づく。

 最近、自分は彼のことをよく見ている。

 表情。

 声。

 手。

 少し疲れている時の目元。

 王子として笑う時と、普通に笑う時の違い。

 もっと知りたいと思っている。

「レオン先輩」

「何?」

「私、やっぱりレオン先輩のこと好きになるかも」

 彼が固まった。

「……今?」

「今思ったから」

「心の準備をさせてって、昨日言わなかった?」

「いつ言うか分からないのに?」

「確かにそうだけど」

 レオンハルトが片手で目元を覆う。

 その耳が赤い。

 以前なら面白いと思うだけだった。

 今は。

 可愛いと思った。

「レオン先輩」

「まだ何かある?」

「今、可愛いです」

「リリア」

「はい」

「少し黙って」

「はい」

 素直に課題へ戻ると、向かいから深い溜息が聞こえた。

 でも。

 そのあと、小さな笑い声も聞こえた。

     *

 放課後。

 二人はルシアンのところへ向かった。

 夢について話すと、ルシアンはしばらく黙った。

「おそらく、記憶だ」

 レオンハルトの表情が硬くなる。

「やっぱり」

「ただし、完全な記憶の回復ではない」

「どういうこと?」

 リリアが聞く。

「記録に近い。世界側に残っていた過去の情報へ、一時的に接続した可能性がある」

「じゃあ、レオン先輩自身が思い出したわけじゃない?」

「現段階ではそう考える方が自然だ」

 レオンハルトが僅かに息を吐いた。

「夢の内容は事実ですか?」

「おそらく、第七再構築世界だ」

 ルシアンの声が静かになる。

「あの世界で君はリリアを王宮へ匿った」

「匿った?」

「最初はね」

 その言葉で、意味が変わる。

「途中から、彼女が外へ出ることを許さなくなった」

 レオンハルトは目を伏せた。

「……どうして」

「外ではリリアを狙う者が増えていた。君は彼女を守るために王宮へ置いた。しかし状況が悪化するほど、君は彼女を失うことを恐れた」

「それで閉じ込めた」

「ああ」

「最後は?」

 ルシアンが一度だけリリアを見る。

「聞く?」

 レオンハルトは頷いた。

「お願いします」

「王都が襲撃された。リリアは王宮から出て、市民の避難を手伝った」

「僕は?」

「彼女を連れ戻そうとした」

「……」

「だが途中で考えを変えた」

 レオンハルトが顔を上げる。

「彼女が逃がそうとしていた人々を、君も守った」

「それで?」

「避難が完了するまで戦って、死んだ」

 静寂が落ちた。

 レオンハルトはしばらく何も言わなかった。

「彼女は?」

「生き残った。少なくとも、その時は」

 それ以上はルシアンも言わなかった。

「そっか」

 レオンハルトの声は小さい。

「最後には、外へ出したんだ」

「そうだね」

 少しだけ。

 彼の表情が緩んだ。

「なら、昔の僕も最後まで最低だったわけじゃないのかな」

「評価は僕がすることじゃない」

 ルシアンは答えた。

「君自身がどう受け止めるかだ」

「……うん」

 部屋を出たあと、二人はしばらく無言で歩いた。

 やがてレオンハルトが口を開く。

「聞いてよかった」

「怖くない?」

「怖いよ」

「じゃあ」

「でも、知らないまま想像する方が怖かった」

 リリアは頷く。

「それに」

 レオンハルトが立ち止まった。

「一つ分かった」

「何ですか?」

「昔の僕が君を――昔のリリアを、好きだった可能性は高い」

「はい」

「でも」

 青い瞳がリリアを見る。

「今日、君が僕を探して二十分も迷っていたのを見て嬉しかったのは、昔の僕じゃない」

「見てたなら早く呼んで」

「そこ?」

「大事です」

「ごめん。次は呼ぶ」

 笑ってから、レオンハルトは続けた。

「君が隣で課題を始めた時に安心したのも、昔の僕じゃない。君に『好きになるかも』って言われて嬉しかったのも、今の僕だ」

 リリアは何も言わず、彼を見つめた。

「まだ全部に自信があるわけじゃないけどね」

「うん」

「だから」

 少し迷ってから。

「もっと君を知りたい」

 その言葉に、胸がゆっくり熱くなる。

「昔のリリアじゃなくて?」

「今の君を」

「エリシアも?」

「もちろん」

「リリアも?」

「両方」

 リリアは笑った。

「じゃあ私も」

「僕を?」

「今のレオン先輩を、もっと知りたい」

 今度は彼も笑った。

「次の休日、覚えてる?」

「覚えてます」

「今度は僕から誘う約束」

「はい」

「行きたい場所が決まった」

「どこ?」

「まだ秘密」

「今知りたい」

「当日まで待って」

「嫌」

「珍しくわがままだね」

「気になるから」

「それでも秘密」

 教えてくれなかった。

 少し不満だったけれど。

 次の休日まで楽しみにできることが一つ増えた。

 それも悪くないと思った。

     *

 その夜、レオンハルトはまた夢を見た。

 同じ王宮。

 けれど、今度は扉が開いている。

 銀白色の髪の少女が振り返る。

『レオン』

 泣いていた。

 それでも。

 笑っていた。

『ありがとう』

 何に対する言葉なのか分からない。

 夢の中の自分は剣を握っている。

 背後には逃げていく人々。

 前方には黒い影。

『行って』

 自分が言う。

『でも』

『今度は、僕が君を閉じ込めるんじゃない』

 少女の背中を押す。

『君が行きたい方へ行って』

 そこで夢が途切れた。

 レオンハルトは暗い部屋で目を開けた。

 胸が痛かった。

 悲しい。

 懐かしい。

 それでも不思議と、昨日ほど怖くなかった。

 昔の自分が何をしたのか。

 それを知ることはできる。

 受け入れることも、反省することもできる。

 けれど。

 明日、自分が何をするかまで。

 過去に決めさせる必要はない。

 そして今、会いたいと思う少女は、夢の中にはいなかった。

 同じ顔でも。

 同じ名前でも。

 違う。

「……リリア」

 明日。

 会いたい。

 そう思った理由だけは。

 もう過去のせいにはしたくなかった。