翌朝、リリアは教室へ向かう途中で二度、二年生の校舎を見た。
一度目は偶然だった。二度目は、もしかしたらレオンハルトが通るかもしれないと思った。
三度目に見ようとしたところで、隣を歩いていたセシルに気づかれた。
「さっきから何見てるの?」
「二年生の校舎」
「うん。それは分かるけど」
セシルがリリアの視線の先を追う。
「誰かいる?」
「レオン先輩」
「今はいないね」
「うん」
「会いたい?」
「昨日会った」
「昨日会った人には今日は会いたくならない?」
言われて、リリアは考える。
「なる」
「じゃあ会いたいんだね」
「そっか」
納得すると、セシルが小さく笑った。
「リリアって、こういうところ素直だよね」
「何が?」
「自分の気持ちには鈍いのに、認めることにはあんまり抵抗がない」
「分からないものを分かったふりする方が嫌だから」
「なるほど」
セシルはそれ以上追及しなかった。
ただ教室へ向かって歩きながら、ほんの少しだけ遠くを見るような目をした。
「セシル」
「なに?」
「好きな人とはどう?」
セシルの足が一瞬止まる。
「……急だね」
「前に聞いたから」
「まだ何も変わってないよ」
「会いたい?」
「毎日会ってる」
「じゃあいいね」
「そうだね」
セシルは笑った。
「会えるだけでも、結構嬉しいよ」
その言葉を聞いて、リリアはもう一度だけ二年生の校舎を見た。
今度も、金色の髪は見つからなかった。
*
昼休みになって、ようやく会えた。
いつもの場所へ向かうと、すでにレオンハルトが座っていた。アレンと何か話していたが、リリアに気づいた瞬間、青い瞳がこちらへ向く。
「あ」
思わず声が出た。
「おはようございます」
「もう昼だけど」
「今日初めて会ったから」
「そういう意味?」
「はい」
レオンハルトが笑った。
「じゃあ、おはよう。リリア」
「おはようございます」
向かいへ座ろうとして、少し迷う。
隣が空いている。
昨日まではどこへ座るかなんて気にしたことがなかった。
今日は。
「ここいいですか?」
レオンハルトの隣を指した。
「もちろん」
座る。
それだけ。
なのに少し嬉しい。
「昨日、楽しかったです」
「僕も」
「また行きたい」
「昨日もう約束したよ」
「確認」
「そんなに?」
「忘れられたら嫌だから」
レオンハルトの手が止まった。
「忘れないよ」
思っていたより真剣な声だった。
リリアは彼を見る。
「……レオン先輩?」
「いや」
レオンハルトが少し笑う。
「何でもない」
けれど、その表情はどこか複雑だった。
忘れる。
その言葉は。
彼にとって、きっと自分とは違う意味を持つ。
過去の世界を覚えていない人。
他の四人が知っているものを、自分だけ知らない人。
「レオン先輩」
「うん?」
「忘れてても怒りませんよ」
「今の約束を?」
「違う」
リリアは少し考える。
「昔のこと」
青い瞳が静かになる。
「私も覚えてないから」
「……そうだね」
「同じ」
「君と僕が?」
「はい」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「それ、少し安心するな」
「何が?」
「僕だけじゃないと思えるから」
その時。
「何の話してんだ?」
アレンが割り込んだ。
「二人だけで妙な空気出すな」
「妙な空気?」
「お前は分からなくていい」
「アレン先輩、昨日から機嫌悪いですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「分からない」
「だろうな!」
向かいでノアが笑っている。
カイルは相変わらず静かに食事をしていて、ルシアンは本を読みながら器用に紅茶を飲んでいる。
いつもの昼休み。
ただ。
リリアは隣にいるレオンハルトを、昨日までより少し意識していた。
*
午後の実技授業は、学年合同だった。
二人一組で魔法障壁を展開し、別の組から飛んでくる攻撃魔法を防ぐ。単純な訓練だが、相手と呼吸を合わせる必要がある。
リリアの相手はセシルだった。
「右お願い」
「任せて」
リリアが正面の魔法を防ぎ、セシルが右側から飛んできた魔力弾を剣で弾く。二人は長く組んでいるわけではないのに、不思議と動きが合った。
「終わり」
最後の一撃を防ぐ。
「やっぱりリリアとはやりやすいね」
「私も」
次の組へ交代するため、訓練場の端へ下がる。
その時。
別の場所にいるレオンハルトが目に入った。
二年生の女子生徒と組んでいる。
当然だった。
授業なのだから。
レオンハルトは相手に何かを説明している。女子生徒が笑い、彼も笑った。
胸の奥に。
小さな違和感。
「……」
「リリア?」
「何?」
「今、すごい顔してたよ」
「どんな?」
「難しい魔法式を見てる時みたいな顔」
「魔法じゃない」
「何見てたの?」
セシルが視線を追う。
そして。
「ああ」
「何?」
「ううん」
「言って」
「レオン先輩見てた?」
「うん」
「相手の女の子も?」
「……うん」
セシルは少しだけ考えた。
「嫌だった?」
「分からない」
「じゃあ、もしあの子がレオン先輩の腕を掴んだら?」
想像する。
「嫌」
即答だった。
「手を繋いだら?」
「もっと嫌」
「二人で休日に出かけたら?」
「……かなり嫌」
セシルが苦笑した。
「分かりやすいね」
「何が?」
「嫉妬じゃないかな」
リリアはレオンハルトを見る。
「これが?」
「たぶん」
「面倒」
「感想がそれなんだ」
「だって、授業なのに」
「嫉妬って理屈で出るものじゃないからね」
「セシルもする?」
聞いた瞬間。
セシルの表情が僅かに止まった。
「……するよ」
「好きな人に?」
「うん」
「どうするの?」
「何もしない」
「言わない?」
「言える立場じゃないから」
その言葉が少し寂しく聞こえた。
「好きなら言えばいいのに」
「いつかね」
セシルは笑った。
「今はまだいいんだ」
*
授業が終わったあと。
リリアは着替えを済ませ、教室へ戻ろうとしていた。
「リリア」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
レオンハルト。
「レオン先輩」
「今帰り?」
「はい」
「少し時間ある?」
「あります」
答えが早かった。
レオンハルトが少し笑う。
「じゃあ付き合って」
「どこに?」
「昨日のお礼」
「お礼?」
「来て」
案内されたのは、学院の温室だった。
「ここ」
「私よく迷い込むところ」
「知ってる」
「なんで?」
「有名だから」
「そんなに?」
「少なくとも僕たちの間では」
「誰ですか、広めたの」
「たぶんノア」
「あとで言う」
「何を?」
「やめてって」
「それでやめるかな」
「……やめなそう」
温室の奥。
小さなテーブル。
そこに。
焼き菓子と紅茶が置かれていた。
「わ」
「昨日、君が誘ってくれたから」
「これ用意したんですか?」
「正確には頼んだ」
「王子っぽい」
「そこは自分で焼いた方がよかった?」
「焼けるんですか?」
「無理」
「じゃあ頼んで正解」
「容赦ないな」
二人で座る。
焼き菓子を一つ取る。
「美味しい」
「よかった」
「これ好き」
「覚えておく」
「なんで?」
「次も用意できるから」
自然な言葉だった。
でも。
リリアは手を止めた。
「次も?」
「……嫌?」
「違います」
嬉しい。
それだけなのに。
胸が変になる。
「嬉しい」
素直に言う。
レオンハルトの表情が柔らかくなる。
「ならよかった」
しばらく二人で話した。
授業のこと。
王都のこと。
レオンハルトの兄のこと。
リリアが入学初日に迷子になった話。
どうでもいい話ばかり。
それなのに。
時間が早い。
「レオン先輩」
「何?」
「さっきの授業」
「うん」
「一緒に組んでた人」
「ミレイユ?」
名前を聞いただけで。
少し嫌だった。
「仲いいんですか?」
「普通かな。同じ学年だから話すことはあるよ」
「ふうん」
「……どうしたの?」
「別に」
言ってから。
自分でも違うと思った。
「やっぱり別にじゃない」
「うん?」
「ちょっと嫌だった」
レオンハルトが目を瞬く。
「何が?」
「レオン先輩が、その人と楽しそうに話してるの」
言葉にすると。
思った以上に恥ずかしい。
「なんでかは、たぶん分かってます」
「……聞いても?」
「嫉妬らしいです」
沈黙。
「セシルが言ってた」
「……そう」
「はい」
レオンハルトが。
紅茶へ手を伸ばした。
飲む。
置く。
「レオン先輩」
「何?」
「顔赤い」
「今は言わなくていい」
「昨日も赤かった」
「君のせいだよ」
「私?」
「そう」
レオンハルトが困ったように笑った。
「そんなことを平然と言われたら、僕だって困る」
「嫌でした?」
「逆」
短い答えだった。
今度は。
リリアの方が黙った。
「……嬉しい?」
「かなり」
青い瞳が。
まっすぐ自分を見る。
「僕も、今日の授業で君を見てた」
「私?」
「セシルと組んでただろう?」
「はい」
「息が合ってた」
「セシル上手だから」
「そうだね」
そこで。
レオンハルトは少し視線を逸らした。
「楽しそうだった」
「楽しかったです」
「……そう」
声が。
少しだけ低い。
リリアは気づく。
「レオン先輩も?」
「何が?」
「嫉妬?」
「……」
「違う?」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから、諦めたように笑った。
「たぶんね」
胸が。
大きく鳴った。
「そっか」
「嬉しそうだね」
「ちょっと」
「僕は結構恥ずかしいんだけど」
「お揃いだから」
「嫉妬が?」
「はい」
「それをお揃いって言う人、初めて見たよ」
レオンハルトが笑う。
リリアも笑った。
*
温室を出る頃には、夕方になっていた。
並んで歩く。
昨日とは違って。
今日は手を繋いでいない。
でも。
近い。
肩が触れそうな距離。
「リリア」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「昨日、君は言ったよね」
――今のレオン先輩にも、好きになってもらえたら嬉しい。
「言いました」
「どういう意味だった?」
リリアは考える。
「そのままです」
「そのまま?」
「レオン先輩に好きになってもらえたら嬉しい」
「……友達として?」
聞かれて。
足が止まった。
以前なら。
分からなかった。
でも。
今は。
「たぶん」
リリアは。
レオンハルトを見る。
「違う方」
青い瞳が。
僅かに見開かれた。
「違う方って」
「恋愛の方」
言った。
胸が。
速い。
「まだ、私がレオン先輩を好きかは分からないです」
「……うん」
「でも」
正直に。
「他の女の人と仲良くしてるの嫌だったし、今日会えて嬉しかったし、次の休日も楽しみです」
「うん」
「だから」
少しだけ迷う。
「好きになる途中かもしれない」
レオンハルトは。
何も言わなかった。
ただ。
その表情が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「それは」
「はい」
「かなり嬉しいな」
「レオン先輩は?」
「僕?」
「私のこと」
聞く。
レオンハルトは。
少し考えた。
「僕も」
ゆっくり答える。
「たぶん、同じところにいる」
まだ。
好きとは言わない。
でも。
好きではないとも。
言えない。
「じゃあ」
リリアは少し笑った。
「一緒ですね」
「そうだね」
歩き出す。
今度は。
レオンハルトの手が。
ほんの少し。
リリアの手に触れた。
指先だけ。
それ以上は。
何もしなかった。
けれど。
二人とも。
少しだけ。
歩く速度が遅くなった。
*
その夜。
レオンハルトは自室で一人、机に向かっていた。
目の前には王家から届いた書類。
読まなければならない。
なのに。
全く頭に入らない。
『好きになる途中かもしれない』
何度目か分からないほど。
思い出す。
「……困ったな」
昨日も同じことを言った気がする。
でも。
本当に。
困っている。
嬉しい。
それ以上に。
怖い。
自分には。
知らない過去がある。
彼女との。
他の四人は知っている。
自分だけが。
知らない。
もし。
この気持ちが。
その過去から残った何かだったら。
「……違う」
声に出す。
今日。
リリアがセシルと笑っているのを見て。
面白くないと思った。
昨日。
彼女が自分を探して来てくれて。
嬉しかった。
焼き菓子を美味しいと言ってくれて。
次も用意したいと思った。
それを。
過去の自分が知るはずがない。
「これは」
今の。
自分の感情。
そう思いたい。
けれど。
胸の奥。
ずっと昔からあるような。
説明できない懐かしさが。
まだ。
消えていなかった。
一度目は偶然だった。二度目は、もしかしたらレオンハルトが通るかもしれないと思った。
三度目に見ようとしたところで、隣を歩いていたセシルに気づかれた。
「さっきから何見てるの?」
「二年生の校舎」
「うん。それは分かるけど」
セシルがリリアの視線の先を追う。
「誰かいる?」
「レオン先輩」
「今はいないね」
「うん」
「会いたい?」
「昨日会った」
「昨日会った人には今日は会いたくならない?」
言われて、リリアは考える。
「なる」
「じゃあ会いたいんだね」
「そっか」
納得すると、セシルが小さく笑った。
「リリアって、こういうところ素直だよね」
「何が?」
「自分の気持ちには鈍いのに、認めることにはあんまり抵抗がない」
「分からないものを分かったふりする方が嫌だから」
「なるほど」
セシルはそれ以上追及しなかった。
ただ教室へ向かって歩きながら、ほんの少しだけ遠くを見るような目をした。
「セシル」
「なに?」
「好きな人とはどう?」
セシルの足が一瞬止まる。
「……急だね」
「前に聞いたから」
「まだ何も変わってないよ」
「会いたい?」
「毎日会ってる」
「じゃあいいね」
「そうだね」
セシルは笑った。
「会えるだけでも、結構嬉しいよ」
その言葉を聞いて、リリアはもう一度だけ二年生の校舎を見た。
今度も、金色の髪は見つからなかった。
*
昼休みになって、ようやく会えた。
いつもの場所へ向かうと、すでにレオンハルトが座っていた。アレンと何か話していたが、リリアに気づいた瞬間、青い瞳がこちらへ向く。
「あ」
思わず声が出た。
「おはようございます」
「もう昼だけど」
「今日初めて会ったから」
「そういう意味?」
「はい」
レオンハルトが笑った。
「じゃあ、おはよう。リリア」
「おはようございます」
向かいへ座ろうとして、少し迷う。
隣が空いている。
昨日まではどこへ座るかなんて気にしたことがなかった。
今日は。
「ここいいですか?」
レオンハルトの隣を指した。
「もちろん」
座る。
それだけ。
なのに少し嬉しい。
「昨日、楽しかったです」
「僕も」
「また行きたい」
「昨日もう約束したよ」
「確認」
「そんなに?」
「忘れられたら嫌だから」
レオンハルトの手が止まった。
「忘れないよ」
思っていたより真剣な声だった。
リリアは彼を見る。
「……レオン先輩?」
「いや」
レオンハルトが少し笑う。
「何でもない」
けれど、その表情はどこか複雑だった。
忘れる。
その言葉は。
彼にとって、きっと自分とは違う意味を持つ。
過去の世界を覚えていない人。
他の四人が知っているものを、自分だけ知らない人。
「レオン先輩」
「うん?」
「忘れてても怒りませんよ」
「今の約束を?」
「違う」
リリアは少し考える。
「昔のこと」
青い瞳が静かになる。
「私も覚えてないから」
「……そうだね」
「同じ」
「君と僕が?」
「はい」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「それ、少し安心するな」
「何が?」
「僕だけじゃないと思えるから」
その時。
「何の話してんだ?」
アレンが割り込んだ。
「二人だけで妙な空気出すな」
「妙な空気?」
「お前は分からなくていい」
「アレン先輩、昨日から機嫌悪いですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「分からない」
「だろうな!」
向かいでノアが笑っている。
カイルは相変わらず静かに食事をしていて、ルシアンは本を読みながら器用に紅茶を飲んでいる。
いつもの昼休み。
ただ。
リリアは隣にいるレオンハルトを、昨日までより少し意識していた。
*
午後の実技授業は、学年合同だった。
二人一組で魔法障壁を展開し、別の組から飛んでくる攻撃魔法を防ぐ。単純な訓練だが、相手と呼吸を合わせる必要がある。
リリアの相手はセシルだった。
「右お願い」
「任せて」
リリアが正面の魔法を防ぎ、セシルが右側から飛んできた魔力弾を剣で弾く。二人は長く組んでいるわけではないのに、不思議と動きが合った。
「終わり」
最後の一撃を防ぐ。
「やっぱりリリアとはやりやすいね」
「私も」
次の組へ交代するため、訓練場の端へ下がる。
その時。
別の場所にいるレオンハルトが目に入った。
二年生の女子生徒と組んでいる。
当然だった。
授業なのだから。
レオンハルトは相手に何かを説明している。女子生徒が笑い、彼も笑った。
胸の奥に。
小さな違和感。
「……」
「リリア?」
「何?」
「今、すごい顔してたよ」
「どんな?」
「難しい魔法式を見てる時みたいな顔」
「魔法じゃない」
「何見てたの?」
セシルが視線を追う。
そして。
「ああ」
「何?」
「ううん」
「言って」
「レオン先輩見てた?」
「うん」
「相手の女の子も?」
「……うん」
セシルは少しだけ考えた。
「嫌だった?」
「分からない」
「じゃあ、もしあの子がレオン先輩の腕を掴んだら?」
想像する。
「嫌」
即答だった。
「手を繋いだら?」
「もっと嫌」
「二人で休日に出かけたら?」
「……かなり嫌」
セシルが苦笑した。
「分かりやすいね」
「何が?」
「嫉妬じゃないかな」
リリアはレオンハルトを見る。
「これが?」
「たぶん」
「面倒」
「感想がそれなんだ」
「だって、授業なのに」
「嫉妬って理屈で出るものじゃないからね」
「セシルもする?」
聞いた瞬間。
セシルの表情が僅かに止まった。
「……するよ」
「好きな人に?」
「うん」
「どうするの?」
「何もしない」
「言わない?」
「言える立場じゃないから」
その言葉が少し寂しく聞こえた。
「好きなら言えばいいのに」
「いつかね」
セシルは笑った。
「今はまだいいんだ」
*
授業が終わったあと。
リリアは着替えを済ませ、教室へ戻ろうとしていた。
「リリア」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
レオンハルト。
「レオン先輩」
「今帰り?」
「はい」
「少し時間ある?」
「あります」
答えが早かった。
レオンハルトが少し笑う。
「じゃあ付き合って」
「どこに?」
「昨日のお礼」
「お礼?」
「来て」
案内されたのは、学院の温室だった。
「ここ」
「私よく迷い込むところ」
「知ってる」
「なんで?」
「有名だから」
「そんなに?」
「少なくとも僕たちの間では」
「誰ですか、広めたの」
「たぶんノア」
「あとで言う」
「何を?」
「やめてって」
「それでやめるかな」
「……やめなそう」
温室の奥。
小さなテーブル。
そこに。
焼き菓子と紅茶が置かれていた。
「わ」
「昨日、君が誘ってくれたから」
「これ用意したんですか?」
「正確には頼んだ」
「王子っぽい」
「そこは自分で焼いた方がよかった?」
「焼けるんですか?」
「無理」
「じゃあ頼んで正解」
「容赦ないな」
二人で座る。
焼き菓子を一つ取る。
「美味しい」
「よかった」
「これ好き」
「覚えておく」
「なんで?」
「次も用意できるから」
自然な言葉だった。
でも。
リリアは手を止めた。
「次も?」
「……嫌?」
「違います」
嬉しい。
それだけなのに。
胸が変になる。
「嬉しい」
素直に言う。
レオンハルトの表情が柔らかくなる。
「ならよかった」
しばらく二人で話した。
授業のこと。
王都のこと。
レオンハルトの兄のこと。
リリアが入学初日に迷子になった話。
どうでもいい話ばかり。
それなのに。
時間が早い。
「レオン先輩」
「何?」
「さっきの授業」
「うん」
「一緒に組んでた人」
「ミレイユ?」
名前を聞いただけで。
少し嫌だった。
「仲いいんですか?」
「普通かな。同じ学年だから話すことはあるよ」
「ふうん」
「……どうしたの?」
「別に」
言ってから。
自分でも違うと思った。
「やっぱり別にじゃない」
「うん?」
「ちょっと嫌だった」
レオンハルトが目を瞬く。
「何が?」
「レオン先輩が、その人と楽しそうに話してるの」
言葉にすると。
思った以上に恥ずかしい。
「なんでかは、たぶん分かってます」
「……聞いても?」
「嫉妬らしいです」
沈黙。
「セシルが言ってた」
「……そう」
「はい」
レオンハルトが。
紅茶へ手を伸ばした。
飲む。
置く。
「レオン先輩」
「何?」
「顔赤い」
「今は言わなくていい」
「昨日も赤かった」
「君のせいだよ」
「私?」
「そう」
レオンハルトが困ったように笑った。
「そんなことを平然と言われたら、僕だって困る」
「嫌でした?」
「逆」
短い答えだった。
今度は。
リリアの方が黙った。
「……嬉しい?」
「かなり」
青い瞳が。
まっすぐ自分を見る。
「僕も、今日の授業で君を見てた」
「私?」
「セシルと組んでただろう?」
「はい」
「息が合ってた」
「セシル上手だから」
「そうだね」
そこで。
レオンハルトは少し視線を逸らした。
「楽しそうだった」
「楽しかったです」
「……そう」
声が。
少しだけ低い。
リリアは気づく。
「レオン先輩も?」
「何が?」
「嫉妬?」
「……」
「違う?」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから、諦めたように笑った。
「たぶんね」
胸が。
大きく鳴った。
「そっか」
「嬉しそうだね」
「ちょっと」
「僕は結構恥ずかしいんだけど」
「お揃いだから」
「嫉妬が?」
「はい」
「それをお揃いって言う人、初めて見たよ」
レオンハルトが笑う。
リリアも笑った。
*
温室を出る頃には、夕方になっていた。
並んで歩く。
昨日とは違って。
今日は手を繋いでいない。
でも。
近い。
肩が触れそうな距離。
「リリア」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「昨日、君は言ったよね」
――今のレオン先輩にも、好きになってもらえたら嬉しい。
「言いました」
「どういう意味だった?」
リリアは考える。
「そのままです」
「そのまま?」
「レオン先輩に好きになってもらえたら嬉しい」
「……友達として?」
聞かれて。
足が止まった。
以前なら。
分からなかった。
でも。
今は。
「たぶん」
リリアは。
レオンハルトを見る。
「違う方」
青い瞳が。
僅かに見開かれた。
「違う方って」
「恋愛の方」
言った。
胸が。
速い。
「まだ、私がレオン先輩を好きかは分からないです」
「……うん」
「でも」
正直に。
「他の女の人と仲良くしてるの嫌だったし、今日会えて嬉しかったし、次の休日も楽しみです」
「うん」
「だから」
少しだけ迷う。
「好きになる途中かもしれない」
レオンハルトは。
何も言わなかった。
ただ。
その表情が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「それは」
「はい」
「かなり嬉しいな」
「レオン先輩は?」
「僕?」
「私のこと」
聞く。
レオンハルトは。
少し考えた。
「僕も」
ゆっくり答える。
「たぶん、同じところにいる」
まだ。
好きとは言わない。
でも。
好きではないとも。
言えない。
「じゃあ」
リリアは少し笑った。
「一緒ですね」
「そうだね」
歩き出す。
今度は。
レオンハルトの手が。
ほんの少し。
リリアの手に触れた。
指先だけ。
それ以上は。
何もしなかった。
けれど。
二人とも。
少しだけ。
歩く速度が遅くなった。
*
その夜。
レオンハルトは自室で一人、机に向かっていた。
目の前には王家から届いた書類。
読まなければならない。
なのに。
全く頭に入らない。
『好きになる途中かもしれない』
何度目か分からないほど。
思い出す。
「……困ったな」
昨日も同じことを言った気がする。
でも。
本当に。
困っている。
嬉しい。
それ以上に。
怖い。
自分には。
知らない過去がある。
彼女との。
他の四人は知っている。
自分だけが。
知らない。
もし。
この気持ちが。
その過去から残った何かだったら。
「……違う」
声に出す。
今日。
リリアがセシルと笑っているのを見て。
面白くないと思った。
昨日。
彼女が自分を探して来てくれて。
嬉しかった。
焼き菓子を美味しいと言ってくれて。
次も用意したいと思った。
それを。
過去の自分が知るはずがない。
「これは」
今の。
自分の感情。
そう思いたい。
けれど。
胸の奥。
ずっと昔からあるような。
説明できない懐かしさが。
まだ。
消えていなかった。

