魔法より、君に恋をする。

翌朝、リリアは教室へ向かう途中で二度、二年生の校舎を見た。

 一度目は偶然だった。二度目は、もしかしたらレオンハルトが通るかもしれないと思った。

 三度目に見ようとしたところで、隣を歩いていたセシルに気づかれた。

「さっきから何見てるの?」

「二年生の校舎」

「うん。それは分かるけど」

 セシルがリリアの視線の先を追う。

「誰かいる?」

「レオン先輩」

「今はいないね」

「うん」

「会いたい?」

「昨日会った」

「昨日会った人には今日は会いたくならない?」

 言われて、リリアは考える。

「なる」

「じゃあ会いたいんだね」

「そっか」

 納得すると、セシルが小さく笑った。

「リリアって、こういうところ素直だよね」

「何が?」

「自分の気持ちには鈍いのに、認めることにはあんまり抵抗がない」

「分からないものを分かったふりする方が嫌だから」

「なるほど」

 セシルはそれ以上追及しなかった。

 ただ教室へ向かって歩きながら、ほんの少しだけ遠くを見るような目をした。

「セシル」

「なに?」

「好きな人とはどう?」

 セシルの足が一瞬止まる。

「……急だね」

「前に聞いたから」

「まだ何も変わってないよ」

「会いたい?」

「毎日会ってる」

「じゃあいいね」

「そうだね」

 セシルは笑った。

「会えるだけでも、結構嬉しいよ」

 その言葉を聞いて、リリアはもう一度だけ二年生の校舎を見た。

 今度も、金色の髪は見つからなかった。

     *

 昼休みになって、ようやく会えた。

 いつもの場所へ向かうと、すでにレオンハルトが座っていた。アレンと何か話していたが、リリアに気づいた瞬間、青い瞳がこちらへ向く。

「あ」

 思わず声が出た。

「おはようございます」

「もう昼だけど」

「今日初めて会ったから」

「そういう意味?」

「はい」

 レオンハルトが笑った。

「じゃあ、おはよう。リリア」

「おはようございます」

 向かいへ座ろうとして、少し迷う。

 隣が空いている。

 昨日まではどこへ座るかなんて気にしたことがなかった。

 今日は。

「ここいいですか?」

 レオンハルトの隣を指した。

「もちろん」

 座る。

 それだけ。

 なのに少し嬉しい。

「昨日、楽しかったです」

「僕も」

「また行きたい」

「昨日もう約束したよ」

「確認」

「そんなに?」

「忘れられたら嫌だから」

 レオンハルトの手が止まった。

「忘れないよ」

 思っていたより真剣な声だった。

 リリアは彼を見る。

「……レオン先輩?」

「いや」

 レオンハルトが少し笑う。

「何でもない」

 けれど、その表情はどこか複雑だった。

 忘れる。

 その言葉は。

 彼にとって、きっと自分とは違う意味を持つ。

 過去の世界を覚えていない人。

 他の四人が知っているものを、自分だけ知らない人。

「レオン先輩」

「うん?」

「忘れてても怒りませんよ」

「今の約束を?」

「違う」

 リリアは少し考える。

「昔のこと」

 青い瞳が静かになる。

「私も覚えてないから」

「……そうだね」

「同じ」

「君と僕が?」

「はい」

 レオンハルトはしばらく何も言わなかった。

 やがて、小さく息を吐く。

「それ、少し安心するな」

「何が?」

「僕だけじゃないと思えるから」

 その時。

「何の話してんだ?」

 アレンが割り込んだ。

「二人だけで妙な空気出すな」

「妙な空気?」

「お前は分からなくていい」

「アレン先輩、昨日から機嫌悪いですね」

「誰のせいだと思ってんだ」

「分からない」

「だろうな!」

 向かいでノアが笑っている。

 カイルは相変わらず静かに食事をしていて、ルシアンは本を読みながら器用に紅茶を飲んでいる。

 いつもの昼休み。

 ただ。

 リリアは隣にいるレオンハルトを、昨日までより少し意識していた。

     *

 午後の実技授業は、学年合同だった。

 二人一組で魔法障壁を展開し、別の組から飛んでくる攻撃魔法を防ぐ。単純な訓練だが、相手と呼吸を合わせる必要がある。

 リリアの相手はセシルだった。

「右お願い」

「任せて」

 リリアが正面の魔法を防ぎ、セシルが右側から飛んできた魔力弾を剣で弾く。二人は長く組んでいるわけではないのに、不思議と動きが合った。

「終わり」

 最後の一撃を防ぐ。

「やっぱりリリアとはやりやすいね」

「私も」

 次の組へ交代するため、訓練場の端へ下がる。

 その時。

 別の場所にいるレオンハルトが目に入った。

 二年生の女子生徒と組んでいる。

 当然だった。

 授業なのだから。

 レオンハルトは相手に何かを説明している。女子生徒が笑い、彼も笑った。

 胸の奥に。

 小さな違和感。

「……」

「リリア?」

「何?」

「今、すごい顔してたよ」

「どんな?」

「難しい魔法式を見てる時みたいな顔」

「魔法じゃない」

「何見てたの?」

 セシルが視線を追う。

 そして。

「ああ」

「何?」

「ううん」

「言って」

「レオン先輩見てた?」

「うん」

「相手の女の子も?」

「……うん」

 セシルは少しだけ考えた。

「嫌だった?」

「分からない」

「じゃあ、もしあの子がレオン先輩の腕を掴んだら?」

 想像する。

「嫌」

 即答だった。

「手を繋いだら?」

「もっと嫌」

「二人で休日に出かけたら?」

「……かなり嫌」

 セシルが苦笑した。

「分かりやすいね」

「何が?」

「嫉妬じゃないかな」

 リリアはレオンハルトを見る。

「これが?」

「たぶん」

「面倒」

「感想がそれなんだ」

「だって、授業なのに」

「嫉妬って理屈で出るものじゃないからね」

「セシルもする?」

 聞いた瞬間。

 セシルの表情が僅かに止まった。

「……するよ」

「好きな人に?」

「うん」

「どうするの?」

「何もしない」

「言わない?」

「言える立場じゃないから」

 その言葉が少し寂しく聞こえた。

「好きなら言えばいいのに」

「いつかね」

 セシルは笑った。

「今はまだいいんだ」

     *

 授業が終わったあと。

 リリアは着替えを済ませ、教室へ戻ろうとしていた。

「リリア」

 後ろから呼ばれる。

 振り返る。

 レオンハルト。

「レオン先輩」

「今帰り?」

「はい」

「少し時間ある?」

「あります」

 答えが早かった。

 レオンハルトが少し笑う。

「じゃあ付き合って」

「どこに?」

「昨日のお礼」

「お礼?」

「来て」

 案内されたのは、学院の温室だった。

「ここ」

「私よく迷い込むところ」

「知ってる」

「なんで?」

「有名だから」

「そんなに?」

「少なくとも僕たちの間では」

「誰ですか、広めたの」

「たぶんノア」

「あとで言う」

「何を?」

「やめてって」

「それでやめるかな」

「……やめなそう」

 温室の奥。

 小さなテーブル。

 そこに。

 焼き菓子と紅茶が置かれていた。

「わ」

「昨日、君が誘ってくれたから」

「これ用意したんですか?」

「正確には頼んだ」

「王子っぽい」

「そこは自分で焼いた方がよかった?」

「焼けるんですか?」

「無理」

「じゃあ頼んで正解」

「容赦ないな」

 二人で座る。

 焼き菓子を一つ取る。

「美味しい」

「よかった」

「これ好き」

「覚えておく」

「なんで?」

「次も用意できるから」

 自然な言葉だった。

 でも。

 リリアは手を止めた。

「次も?」

「……嫌?」

「違います」

 嬉しい。

 それだけなのに。

 胸が変になる。

「嬉しい」

 素直に言う。

 レオンハルトの表情が柔らかくなる。

「ならよかった」

 しばらく二人で話した。

 授業のこと。

 王都のこと。

 レオンハルトの兄のこと。

 リリアが入学初日に迷子になった話。

 どうでもいい話ばかり。

 それなのに。

 時間が早い。

「レオン先輩」

「何?」

「さっきの授業」

「うん」

「一緒に組んでた人」

「ミレイユ?」

 名前を聞いただけで。

 少し嫌だった。

「仲いいんですか?」

「普通かな。同じ学年だから話すことはあるよ」

「ふうん」

「……どうしたの?」

「別に」

 言ってから。

 自分でも違うと思った。

「やっぱり別にじゃない」

「うん?」

「ちょっと嫌だった」

 レオンハルトが目を瞬く。

「何が?」

「レオン先輩が、その人と楽しそうに話してるの」

 言葉にすると。

 思った以上に恥ずかしい。

「なんでかは、たぶん分かってます」

「……聞いても?」

「嫉妬らしいです」

 沈黙。

「セシルが言ってた」

「……そう」

「はい」

 レオンハルトが。

 紅茶へ手を伸ばした。

 飲む。

 置く。

「レオン先輩」

「何?」

「顔赤い」

「今は言わなくていい」

「昨日も赤かった」

「君のせいだよ」

「私?」

「そう」

 レオンハルトが困ったように笑った。

「そんなことを平然と言われたら、僕だって困る」

「嫌でした?」

「逆」

 短い答えだった。

 今度は。

 リリアの方が黙った。

「……嬉しい?」

「かなり」

 青い瞳が。

 まっすぐ自分を見る。

「僕も、今日の授業で君を見てた」

「私?」

「セシルと組んでただろう?」

「はい」

「息が合ってた」

「セシル上手だから」

「そうだね」

 そこで。

 レオンハルトは少し視線を逸らした。

「楽しそうだった」

「楽しかったです」

「……そう」

 声が。

 少しだけ低い。

 リリアは気づく。

「レオン先輩も?」

「何が?」

「嫉妬?」

「……」

「違う?」

 レオンハルトはしばらく黙っていた。

 それから、諦めたように笑った。

「たぶんね」

 胸が。

 大きく鳴った。

「そっか」

「嬉しそうだね」

「ちょっと」

「僕は結構恥ずかしいんだけど」

「お揃いだから」

「嫉妬が?」

「はい」

「それをお揃いって言う人、初めて見たよ」

 レオンハルトが笑う。

 リリアも笑った。

     *

 温室を出る頃には、夕方になっていた。

 並んで歩く。

 昨日とは違って。

 今日は手を繋いでいない。

 でも。

 近い。

 肩が触れそうな距離。

「リリア」

「はい」

「一つ聞いていい?」

「何ですか?」

「昨日、君は言ったよね」

 ――今のレオン先輩にも、好きになってもらえたら嬉しい。

「言いました」

「どういう意味だった?」

 リリアは考える。

「そのままです」

「そのまま?」

「レオン先輩に好きになってもらえたら嬉しい」

「……友達として?」

 聞かれて。

 足が止まった。

 以前なら。

 分からなかった。

 でも。

 今は。

「たぶん」

 リリアは。

 レオンハルトを見る。

「違う方」

 青い瞳が。

 僅かに見開かれた。

「違う方って」

「恋愛の方」

 言った。

 胸が。

 速い。

「まだ、私がレオン先輩を好きかは分からないです」

「……うん」

「でも」

 正直に。

「他の女の人と仲良くしてるの嫌だったし、今日会えて嬉しかったし、次の休日も楽しみです」

「うん」

「だから」

 少しだけ迷う。

「好きになる途中かもしれない」

 レオンハルトは。

 何も言わなかった。

 ただ。

 その表情が。

 ゆっくり。

 柔らかくなる。

「それは」

「はい」

「かなり嬉しいな」

「レオン先輩は?」

「僕?」

「私のこと」

 聞く。

 レオンハルトは。

 少し考えた。

「僕も」

 ゆっくり答える。

「たぶん、同じところにいる」

 まだ。

 好きとは言わない。

 でも。

 好きではないとも。

 言えない。

「じゃあ」

 リリアは少し笑った。

「一緒ですね」

「そうだね」

 歩き出す。

 今度は。

 レオンハルトの手が。

 ほんの少し。

 リリアの手に触れた。

 指先だけ。

 それ以上は。

 何もしなかった。

 けれど。

 二人とも。

 少しだけ。

 歩く速度が遅くなった。

     *

 その夜。

 レオンハルトは自室で一人、机に向かっていた。

 目の前には王家から届いた書類。

 読まなければならない。

 なのに。

 全く頭に入らない。

『好きになる途中かもしれない』

 何度目か分からないほど。

 思い出す。

「……困ったな」

 昨日も同じことを言った気がする。

 でも。

 本当に。

 困っている。

 嬉しい。

 それ以上に。

 怖い。

 自分には。

 知らない過去がある。

 彼女との。

 他の四人は知っている。

 自分だけが。

 知らない。

 もし。

 この気持ちが。

 その過去から残った何かだったら。

「……違う」

 声に出す。

 今日。

 リリアがセシルと笑っているのを見て。

 面白くないと思った。

 昨日。

 彼女が自分を探して来てくれて。

 嬉しかった。

 焼き菓子を美味しいと言ってくれて。

 次も用意したいと思った。

 それを。

 過去の自分が知るはずがない。

「これは」

 今の。

 自分の感情。

 そう思いたい。

 けれど。

 胸の奥。

 ずっと昔からあるような。

 説明できない懐かしさが。

 まだ。

 消えていなかった。