朝、目を覚ました時に最初に浮かんだ人がいた。
昨日、ルシアンから自分のもう一つの名前を知らされた。
エリシア。
過去のリリアとは魂の連続性を持たず、存在する目的すら決められていない、新しい自分の名前。
その事実を知った夜、リリアは六人の名前を紙へ書いた。
ノア。
レオンハルト。
アレン。
カイル。
ルシアン。
セシル。
六人とも大切だった。けれど、その気持ちが同じ形ではないことにも、もう気づいている。
だから眠る前、自分へ一つだけ問いかけた。
明日、授業も約束もなく、誰のところへ行ってもいいなら。
誰に会いたい?
そして朝になっても、答えは変わらなかった。
「……レオン先輩」
声にすると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
今日は休日だ。
以前、レオンハルトとは王都を一緒に歩こうと約束していた。しかし、日程までは決めていない。つまり今日会いに行く理由として、その約束を使うことはできるけれど、本当は少し違う。
約束があるから会いたいのではない。
会いたいから、約束を思い出した。
リリアはベッドから降りた。
*
第二王子の休日の予定を、一般生徒が簡単に知れるはずもない。
その当然の事実に気づいたのは、男子寮へ向かう途中だった。
「……どうしよう」
「何が?」
「レオン先輩に会いたいんだけど、どこにいるか分からない」
「へえ」
「知ってる?」
「知ってるけど」
そこまで答えられて、リリアはようやく顔を上げた。
目の前にいたのはノアだった。
「ノア」
「おはよう、リリア」
「おはよう」
ノアは笑っている。いつもの柔らかな笑顔だったけれど、ほんの僅かに目元が引きつっている気がする。
「それで、朝からレオン先輩を探してるんだ?」
「うん」
「どうして?」
聞かれて、リリアは少し迷った。
誤魔化す理由もない。
「会いたいから」
「……そっか」
ノアは一度だけ視線を逸らした。
その意味を、今のリリアは以前より少しだけ理解できる。
「ノア」
「ん?」
「嫌だった?」
「何が?」
「今の」
ノアはしばらく黙ったあと、困ったように笑った。
「ちょっとね」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。リリアが誰に会いたいかは、リリアが決めることだから」
その言葉が、妙に胸に残った。
「ありがとう」
「ただし」
「うん?」
「僕も諦めたわけじゃないからね」
いつもの調子に戻って、ノアは笑う。
「覚えておいて」
「何を?」
「僕もリリアが好きってこと」
「……うん」
「そこで照れるの反則じゃない?」
「最近、好きって言われる意味が前より分かるから」
「それ僕にとって希望ある?」
「分からない」
「正直だなあ」
ノアは苦笑して、それでもレオンハルトがいる場所を教えてくれた。
王族用の宿舎ではなく、学院の裏庭。
「朝はあそこにいること多いよ。人が少ないから」
「なんで知ってるの?」
「いろいろあるんだよ」
「仲良し?」
「それは本人に聞いて」
「分かった」
リリアが歩き出す。
「リリア」
呼び止められて振り返る。
「楽しんできて」
ノアは笑っていた。
今度は、少し寂しそうだった。
「うん」
それでもリリアは、レオンハルトのところへ向かった。
誰かを傷つけたくないからという理由で、自分の気持ちをなかったことにはしたくなかった。
*
学院の裏庭。
木々に囲まれた小さな東屋で、金色の髪が朝日に照らされていた。
レオンハルトは一人だった。
制服ではない。白いシャツに薄手の上着という簡素な服装で、机の上には数枚の書類と本が置かれている。
「レオン先輩」
声をかける。
青い瞳が上がった。
「……リリア?」
驚いている。
「おはようございます」
「おはよう。どうしたの?」
「会いに来ました」
「僕に?」
「はい」
レオンハルトは何も言わなかった。
その反応が意外で、リリアは首を傾げる。
「迷惑でした?」
「いや。まさか」
彼は慌てたように首を振った。
「むしろ、嬉しいよ。ただ……」
「ただ?」
「君は時々、心の準備をする時間をくれないね」
「必要でした?」
「今必要だと分かったところ」
レオンハルトが小さく笑う。
普段、大勢の前で見せる王子としての笑顔ではない。以前この場所で見た、少し力の抜けた顔だった。
リリアはその顔が好きだと思った。
そう思った瞬間、自分で驚いた。
「レオン先輩」
「何?」
「今日暇ですか?」
「午後までなら」
「王都行きません?」
今度こそ。
レオンハルトは完全に言葉を失った。
「……僕と?」
「はい」
「二人で?」
「嫌ならセシルも呼びます?」
「いや」
答えが早かった。
「二人で行こう」
「はい」
リリアは笑った。
その笑顔を見て、レオンハルトが少しだけ目を細めた。
*
王都へ出ると、問題が一つ発生した。
「目立ちますね」
「そうだね」
第二王子である。
学院内なら同じ生徒として扱われることも多いが、一歩外へ出れば事情が違う。道を歩くだけで視線が集まり、時折頭を下げる者までいる。
「レオン先輩」
「うん?」
「休日大変ですね」
「慣れてるよ」
「嫌じゃない?」
「……どうだろう」
レオンハルトは少し考えた。
「昔は何とも思わなかった。これが普通だったから。でも学院へ来てから、少し面倒だと思うようになったかな」
「じゃあ逃げます?」
「どこへ?」
「人いないところ」
「知ってる?」
「知らない」
「だと思った」
笑われた。
「なんで?」
「君に道案内を任せたら、王都から出そうだから」
「そこまでじゃないです」
「学院内で北棟から食堂へ行く途中に温室へ着いた人が?」
「近道しようとした」
「温室は反対方向だよ」
「結果的には着いた」
「誰かに連れてきてもらったんでしょ?」
「……セシルに」
「ほら」
笑いながら、レオンハルトが道を曲がる。
「こっち」
「どこ行くんですか?」
「人が少ない場所」
「知ってるんだ」
「王都育ちだからね」
案内されたのは、大通りから一本外れた小さな通りだった。
古い本屋や雑貨店、小さな食堂が並んでいる。華やかな王都の中心とは違い、観光客らしい人も少ない。
「ここなら平気?」
「たぶん」
「レオン先輩も来るんですか?」
「昔、一度だけ」
「一度?」
「兄から逃げて」
「何したんです?」
「勉強をさぼった」
リリアは足を止めた。
「レオン先輩が?」
「そんなに驚く?」
「はい」
「僕だってさぼるよ」
「想像できない」
「十五歳くらいの頃は結構ひどかったんだ」
「見たかった」
「絶対見せたくないな」
「なんで?」
「格好悪かったから」
「今も格好悪いところあります?」
レオンハルトがリリアを見る。
「探してる?」
「ちょっと」
「どうして?」
「完璧じゃない方が話しやすいから」
言うと、彼は一瞬だけ黙った。
「……君は本当に」
「何ですか?」
「いや」
レオンハルトが笑う。
「何でもない」
*
二人で昼食を取った。
王族が利用するような高級店ではなく、レオンハルトが選んだ小さな食堂だった。
「これ好き」
リリアが言う。
「よかった」
「レオン先輩もこういうの食べるんですね」
「僕を何だと思ってるの?」
「王子」
「間違ってないけど」
「毎日すごい料理食べてそう」
「学院では君たちと同じ食堂だよ」
「そうだった」
リリアはスープを飲む。
「レオン先輩」
「うん?」
「昨日の話、気になってます?」
青い瞳が僅かに揺れた。
昨日。
ルシアンから聞いた過去。
十二回の世界。
その中には、レオンハルトもいた。
ただし。
今の彼には記憶がない。
「気にならないと言えば嘘になるかな」
「思い出したい?」
少しの沈黙。
「分からない」
レオンハルトは正直に答えた。
「以前は、知りたいと思っていた。僕だけが何か大切なものを忘れているような感覚があったから」
「今は?」
「少し怖い」
「何が?」
「思い出したら、僕が僕ではなくなる気がする」
リリアはスプーンを置いた。
「そんなことあります?」
「例えば」
レオンハルトも手を止める。
「過去の僕が君を愛していたとして」
「はい」
「その記憶が戻ったら、今の僕は君を好きになるべきなのかな」
胸が。
小さく鳴る。
「べき、は嫌です」
即答した。
レオンハルトが目を上げる。
「私も、昔の私が誰を好きだったかで決められるの嫌だから」
「……そうだね」
「レオン先輩も同じじゃないですか?」
「同じ?」
「昔のレオン先輩が私を好きだったとしても、今のレオン先輩には関係ない」
言ってから。
少しだけ。
寂しいと思った。
それに気づいて、リリア自身が戸惑った。
「……でも」
「うん?」
「今のレオン先輩にも、好きになってもらえたら嬉しい」
言ってしまった。
レオンハルトが。
完全に止まった。
「……リリア」
「はい」
「それは」
いつも言葉に詰まらない人が。
困っている。
耳が。
少し赤い。
「レオン先輩」
「何?」
「赤い」
「言わなくていい」
「珍しい」
「見ないで」
「見たい」
「君、こういう時だけ容赦ないね」
レオンハルトが片手で顔を覆う。
リリアは少し笑った。
楽しい。
王子として完璧な彼ではなく。
こういう顔をする人と一緒にいるのが。
*
帰り道。
人通りの多い大通りへ戻ったところで、馬車が横を通った。
反射的に。
レオンハルトの手がリリアの腕を引く。
「危ない」
身体が近づく。
「……ありがとうございます」
「ごめん。強かった?」
「大丈夫」
腕から手が離れる。
少し。
残念だと思った。
それが何なのか考えていると、今度は人の波が来た。
「リリア」
「はい」
「迷子にならないでね」
「ならないです」
「信用していい?」
「たぶん」
「不安だな」
レオンハルトが笑う。
そして。
「じゃあ」
手を差し出した。
「これなら?」
リリアはその手を見る。
以前。
ノアとも。
セシルとも。
手を繋いだことがある。
それぞれ。
全然違った。
今。
目の前にある手を。
取りたいと思った。
「はい」
手を重ねる。
レオンハルトの指が。
ゆっくり握る。
恋人繋ぎではない。
ただの手。
でも。
妙に意識した。
「……レオン先輩」
「うん?」
「手、大きいですね」
「君が小さいんじゃない?」
「154あります」
「僕と約三十センチ違うからね」
「183でしたっけ」
「よく覚えてるね」
「みんなの知ってます」
「全員?」
「アレン先輩187、クロフォード先輩184、レオン先輩183、ルシアン先輩182、ノア176、セシル171」
「……なんで?」
「なんとなく」
「僕よりアレンが四センチ高いの、少し悔しいな」
「競ってるんですか?」
「今決めた」
「子どもっぽい」
「君が完璧じゃない方がいいって言ったから」
そう言って。
レオンハルトが笑う。
また。
胸が鳴った。
*
学院へ戻る頃には、空が夕焼けに染まっていた。
門の前。
手を離す。
それまで普通に繋いでいたのに、離れた瞬間の方が意識した。
「今日はありがとう」
レオンハルトが言う。
「私が誘ったのに?」
「誘ってくれたことに」
「楽しかったですか?」
「すごく」
「ならよかった」
「リリアは?」
「楽しかった」
それだけでは足りない気がした。
「あと」
「うん?」
「また行きたいです」
レオンハルトの表情が柔らかくなる。
「僕も」
「今度いつにします?」
「もう次を決める?」
「嫌ですか?」
「まさか」
レオンハルトは少し考える。
「次の休日」
「はい」
「今度は僕から誘っていい?」
「もちろん」
「じゃあ約束」
「約束」
リリアは頷いた。
そして。
寮へ向かおうとして。
「あ」
「どうしたの?」
「聞くの忘れてた」
「何を?」
振り返る。
「今日、私に会えて嬉しかったですか?」
レオンハルトが目を瞬く。
「……どうしてそれを?」
「私は朝、レオン先輩に会いたかったから」
だから。
相手もそうだったら。
嬉しい。
それだけ。
レオンハルトは少しの間、何も言わなかった。
やがて。
「嬉しかったよ」
静かに答えた。
「君が僕を探して来てくれたことも」
一歩。
近づく。
「今日、僕と一緒にいたいと思ってくれたことも」
青い瞳が。
まっすぐリリアを見る。
「思っていたより、ずっと嬉しかった」
胸の奥が。
また。
落ち着かなくなった。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ」
リリアは少しだけ笑った。
「また会いに来ます」
「待ってる」
今度こそ。
離れる。
歩きながら。
リリアは自分の手を見る。
さっきまで。
レオンハルトと繋いでいた手。
朝。
会いたいと思った。
会ったら嬉しかった。
一緒にいると楽しかった。
手を繋いだら。
離したくないと思った。
「……これ」
知っている。
最近。
少しずつ。
分かるようになってきた感情。
でも。
まだ名前をつけるには早い。
だから今日は。
これだけでいい。
明日も。
レオン先輩に会いたい。
*
リリアが見えなくなってからも、レオンハルトはしばらく門の前に立っていた。
右手を見る。
小さな手の感触が。
まだ残っている。
「……困ったな」
口ではそう言いながら。
少し。
笑っていた。
過去の自分が。
彼女をどう思っていたのか。
知らない。
どんな時間を過ごしたのか。
何を失ったのか。
何も覚えていない。
それでも。
今日。
彼女が自分を探して来た時。
嬉しかった。
自分の知らない一面を見つけて笑う彼女を、もっと見たいと思った。
人混みの中で。
手を離したくないと思った。
それは。
誰の記憶でもない。
「……今度は僕から、か」
次の休日。
どこへ連れて行こう。
何を見せれば喜ぶだろう。
何を食べたいと言うだろう。
そんなことを考えている自分に気づく。
過去ではなく。
次の休日を。
考えている。
それが。
今は。
何より嬉しかった。

