黒い月が王都の空を覆ったのは、日付が変わる少し前だった。
最初に鳴ったのは学院の警鐘だった。続いて王都の各区画から警戒を告げる鐘が響き、寮の窓に次々と明かりが灯る。眠っていた生徒たちは教師の指示で地下避難区画へ誘導され、上級生の一部は結界維持の補助へ回された。
リリアが女子寮を飛び出した時、学院の上空には見慣れた夜空がなかった。
星が消えている。
代わりに、巨大な黒い月があった。
「……趣味悪い」
思わず呟く。
「感想それ?」
声がして振り返ると、ノアが走ってきた。
「ノア」
「よかった」
目が合った瞬間、彼の表情から明らかに力が抜けた。リリアも同じだった。今夜何が起こるのか分からなくても、ひとまず目の前にノアがいる。それだけで呼吸がしやすくなる。
「怪我してない?」
「まだ何も始まってないよ」
「ならよかった」
「リリアは?」
「大丈夫」
ノアが手を差し出す。
リリアは迷わず取った。
「行こう」
「どこ?」
「生徒会室。ルシアン先輩から招集」
「分かった」
二人で走り出す。
手は離さなかった。
*
「十三個目が現れた」
生徒会室へ入るなり、ルシアンが言った。
机の上には学院地下の構造図が広げられている。すでにアレン、カイル、レオンハルト、セシルも揃っていた。
「地下封印区画。十二個の黒い石の中央だ」
「壊せばいい?」
リリアが聞く。
「待って」
ルシアンが止める。
「十三個目には文字がある」
「何て?」
「《最終選択》」
嫌な言葉だった。
「それから」
ルシアンがノアを見る。
「二人の名前が刻まれている」
ノアの表情が硬くなる。
「僕とリリア?」
「ああ」
「分かりやすい」
リリアが言うと、アレンが顔をしかめた。
「分かりやすいで済ますな。お前らのどっちか殺す気だろ」
「たぶん」
「落ち着きすぎだ!」
「騒いでも変わらないから」
「こういう時だけ肝据わってんな、お前……」
ルシアンが構造図の一点を指した。
「黒い月と十三個目の石は接続している。おそらく、そこが偽神の中枢へ入る入口だ」
「なら行く」
ノアが即答した。
「僕とリリアで」
「二人だけで行くつもり?」
セシルの声が少し低くなる。
「名前があるのは僕たちだから」
「だからって、二人で全部背負う理由にはならないでしょ」
「セシル」
「実戦祭の時に言ったよね。勝手にリリアを守ろうとして隊列を崩すなって」
ノアが言葉に詰まる。
「今度は二人揃って同じことするつもり?」
「……それは」
「私も行くよ」
セシルは当然のように言った。
「俺もだ」
アレンが続く。
「ここまで関わって今さら留守番する気はない」
カイル。
「僕も行くよ。記憶がないからといって、今いる世界と無関係なわけじゃない」
レオンハルトも。
最後にルシアンが眼鏡を押し上げた。
「というわけだ。諦めなさい」
リリアは六人を見る。
「みんな来る?」
「行く」
セシルが答えた。
「リリアがノアを選んだことと、私たちがあなたを大切に思っていることは別だからね」
胸の奥が温かくなる。
「ありがとう」
リリアは笑った。
「じゃあ七人で行こう」
*
地下封印区画には、以前とは比較にならないほど濃い魔力が満ちていた。
十二個の黒い石が巨大な円を描き、その中央に十三個目が浮いている。
リリアとノアが足を踏み入れた瞬間、石に刻まれた二つの名前が光った。
《LILIA》
《NOAH》
『来たか』
声が響く。
「来たよ」
リリアが答える。
『選べ』
「嫌」
即答した。
『まだ何も示していない』
「どうせ私かノアでしょ?」
沈黙。
「昨日聞いたから」
『ならば話は早い』
床が光る。
二人の前に、二つの円が現れた。
『世界の核は一つでなければならない』
左。
リリア。
右。
ノア。
『創世核を残せば、世界は完成する』
「私を残すってこと?」
『そうだ』
「ノアは?」
『消える』
「嫌」
『ならばノアを残せ』
「私は?」
『消える』
「それも嫌」
『どちらかを選べ』
「選ばない」
『世界が消えるぞ』
「それも嫌」
『全てを得ることはできない』
リリアは眉を寄せた。
「なんで?」
『何?』
「なんで全部欲しがっちゃ駄目なの?」
『世界には代償が必要だ』
「誰が決めたの?」
『世界の理だ』
「あなたでしょ?」
声が止まった。
「それ、あなたが決めたルールでしょ?」
黒い月が揺れる。
『十二の世界が証明した。何かを得るためには、何かを失わなければならない』
「十二回失敗したルールなのに?」
『――』
「十三回目も同じにする意味ある?」
隣でノアが小さく笑った。
「リリアらしいね」
「何が?」
「世界の神様に理屈で喧嘩売ってるところ」
「間違ってる?」
「全然」
ノアが一歩前へ出る。
「僕も選ばない」
『お前には選択権を与えている』
「いらない」
『リリアを生かせるぞ』
空間が揺れる。
ノアの前に、映像が現れた。
リリア。
笑っている。
学院を卒業する。
大人になる。
幸せそうに生きている。
ただし。
隣にノアはいない。
『お前が消えれば、彼女は生きる』
ノアはその未来を見つめた。
昔なら。
迷わなかった。
彼女が生きるなら、それでいい。
そう思っただろう。
『望んだ未来だろう』
「……昔はね」
ノアが答える。
『何?』
「僕はずっと、リリアが生きていればそれでいいと思ってた」
何度も。
自分より彼女を選んだ。
それを愛だと思った。
「でも今は、欲張りになったんだ」
ノアがリリアを見る。
「僕もそこにいたい」
リリアの胸が鳴った。
「卒業するところも見たい。大人になった君にも会いたい。たぶん君は大人になっても迷子になるから、そのたび迎えに行きたい」
「そこは治るかも」
「治る?」
「……たぶん」
「じゃあ一応期待しとく」
少しだけ笑う。
そしてノアは、もう一度黒い月を見た。
「君のために死ぬ未来じゃなくて」
リリアの手を取る。
「君と、生きる方を選ぶ」
十三本目の線が。
強く光った。
*
『ならば世界ごと消えろ』
声が変わった。
空間全体が激しく揺れ、十二個の黒い石から一斉に魔力が噴き出す。
「来る!」
ルシアンの声。
アレンとカイルが前へ出る。
「防げ!」
「言われなくても!」
二人の魔法が正面から黒い奔流を受け止める。
「レオン!」
「分かってる!」
金色の光が広がり、崩れ始めた空間を支える。
「セシル!」
「任せて」
魔力そのものを斬るように、セシルの剣が黒い線を断つ。
それでも。
多い。
十二個。
十二の世界。
積み重なった再構築の力。
「リリア!」
ルシアンが叫ぶ。
「十三本目を完成させろ!」
「どうやって!?」
「君の魔法だ!」
「可能性創造?」
「君自身が可能性から生まれたなら、その魔法は単なる魔法じゃない!」
リリアは自分の胸元へ手を置く。
十三本目。
あと少し。
最後の空白。
「何を作ればいいの?」
『何も作れない』
偽神の声。
『世界の法則は変えられない』
「うるさい」
『代償なく未来は得られない』
「うるさい!」
魔力が溢れる。
銀白色。
でも。
何を願えばいい。
世界を救いたい。
ノアを救いたい。
自分も生きたい。
みんなも。
学院も。
王都も。
全部。
「……多い」
思わず呟いた。
「リリア!」
ノアが隣へ来る。
「欲しいもの多すぎる!」
「いいじゃん!」
「魔法まとまらない!」
「じゃあ一個にして!」
「一個?」
「君が一番欲しい未来!」
一番。
何だろう。
ノアだけではない。
もちろん大切。
でも。
ノアだけが生きる世界は嫌だ。
自分だけも。
みんながいても、自分の意思がなければ嫌。
考える。
考えて。
気づく。
「……選べる未来」
「え?」
「明日も、自分で選べる世界がいい」
誰を愛するか。
どこへ行くか。
何になるか。
何を食べるか。
誰と笑うか。
失敗することさえ。
自分で選べる。
「それがいい」
リリアは両手を前へ伸ばした。
「誰かに正解を決められない世界」
魔力が集まる。
「間違えても、やり直すために全部消されない世界」
十三本目が伸びる。
「誰かを好きになっても、好きにならなくてもいい」
さらに。
「誰かのために死ぬことを、愛の正解にされない」
ノアが息を呑んだ。
「私は」
リリアは笑った。
「明日も選びたい」
魔法が。
完成する。
「《可能性創造》」
十三本目が。
新しい円へ繋がった。
*
音が消えた。
十三本の線。
十二本の円環。
その外側。
新しい円。
完全に。
閉じる。
『やめろ』
偽神の声が初めて怯えた。
『それを完成させれば、世界は――』
「あなたのものじゃなくなる?」
『やめろ!』
「嫌」
リリアは。
最後の魔力を流し込む。
「私たちの世界だから」
光が弾けた。
十二個の黒い石に。
一斉に亀裂が入る。
一つ。
二つ。
三つ。
砕けていく。
『私は人間の願いだ!』
声が叫ぶ。
『私がいなければ、人は失う! 間違える! 後悔する!』
「するよ」
リリアが答える。
『ならばなぜ拒む!』
「間違えたくないから生きるんじゃない」
リリアは。
ノアの手を握る。
「間違えても、そのあとどうするか選べるから生きるんでしょ」
黒い月に。
亀裂が入った。
『やめろ』
世界が震える。
『やめろ』
亀裂が広がる。
『私は――』
その声に。
別の声が重なった。
『もういいよ』
リリアが目を見開く。
知っている。
「……あなた」
白い空間で会った少女。
第一リリアの記録。
『もう、やり直さなくていい』
黒い月が止まった。
『お前は私だ』
『違うよ』
少女の声は。
穏やかだった。
『私は、私』
リリアは。
少し笑った。
同じことを。
彼女も選んだ。
『私も、誰かの正解になるために生まれたくない』
黒い月が。
崩れる。
『ならば、お前は何になる』
最後の問い。
少女は。
少しだけ考えて。
『分からない』
答えた。
『これから決める』
黒い月が。
砕けた。
*
眩しい。
何も見えない。
「リリア!」
声。
「ノア!」
手。
握っていたはず。
でも。
ない。
「ノア!」
光の中で探す。
見えない。
怖い。
また。
どちらか。
そんな考えが頭をよぎる。
「嫌」
手を伸ばす。
「ノア!」
何かに触れた。
指。
掴む。
「……いた」
「いるよ!」
声が近い。
手を引かれる。
身体がぶつかる。
ノア。
いる。
「ノア」
「うん」
「生きてる?」
「生きてる」
「私も?」
「生きてる!」
リリアは。
息を吐いた。
それから。
ノアの胸を一度叩いた。
「痛い」
「確認」
「手で?」
「うん」
「僕じゃなくて自分叩けばよかったんじゃない?」
「それは痛いから嫌」
「僕も痛いんだけど」
「ごめん」
笑った。
ノアも。
笑った。
その瞬間。
光が消えた。
*
地下封印区画。
十二個の黒い石は。
全部。
ただの白い石になっていた。
「……終わった?」
リリアが聞く。
ルシアンが周囲を見る。
「待って」
誰も動かない。
十秒。
二十秒。
一分。
何も起きない。
黒い月も。
声も。
ない。
やがて。
ルシアンが。
長く息を吐いた。
「世界座標が固定された」
「それは?」
レオンハルトが聞く。
「この世界は、もう再構築対象ではない」
誰も。
すぐには反応できなかった。
「……つまり?」
アレンが聞く。
「十三回目はない」
ルシアンが答える。
「ここが最初の独立世界だ」
リリアは。
ノアを見る。
「終わった?」
「……たぶん」
「明日ある?」
「あるよ」
「本当に?」
「うん」
ノアが笑う。
「明後日も」
「来週も?」
「ある」
「来年も?」
「あるよ」
リリアは。
繋いだ手を見る。
「卒業したあとも?」
ノアは。
もう迷わなかった。
「ある」
未来は。
決まっていない。
だから。
ある。
*
地上へ出ると。
夜明けだった。
黒い月はない。
東の空が。
ゆっくり明るくなる。
七人で。
しばらく。
何も言わずに見ていた。
セシルがリリアの隣へ来る。
「お疲れさま」
「セシルも」
「世界作っちゃったね」
「作ったのかな」
「たぶん」
「実感ない」
「そんなものかもね」
アレンが後ろから言う。
「俺はあるぞ。死ぬほど疲れた」
「死んでない」
「比喩だ!」
「よかった」
「お前なあ……」
レオンハルトが笑う。
カイルは朝日を見ている。
ルシアンは。
眼鏡を外して。
目を閉じた。
「ルシアン先輩」
「何だい?」
「終わりました?」
「ああ」
「本当に?」
「少なくとも」
紫の瞳が。
朝日を見る。
「僕が知る限り、世界は初めて未来を持った」
「そっか」
リリアは。
ノアを見る。
目が合う。
「帰ろ」
「うん」
「眠い」
「僕も」
「今日授業?」
「休校になるんじゃない?」
「なら寝る」
「その前に朝ご飯食べない?」
「食べる」
「何食べたい?」
「甘いの」
「世界救った直後でも変わらないね」
「変わる必要ある?」
「ない」
二人で歩き出す。
少しして。
リリアが手を伸ばした。
ノアが取る。
特別なことではない。
世界を救うためでも。
誰かを守るためでも。
ただ。
一緒に帰るため。
「ノア」
「ん?」
「明日、何する?」
その問いに。
ノアは。
少しだけ笑った。
「明日決めよう」
「今日決めないの?」
「うん」
「なんで?」
「明日が来るから」
リリアは。
少し考えて。
笑った。
「そっか」
「うん」
十二回。
明日を失った。
十三番目。
初めて。
明日を決めなくていい。
それが。
こんなにも。
嬉しかった。

