魔法より、君に恋をする。



 十三本目の線は、翌朝にはまた少し伸びていた。

 鏡の前で制服の襟元を少し開き、鎖骨の下に浮かぶ銀色の線を確認したリリアは、昨夜より確実に長くなっているそれを指先でなぞった。

「……選択」

 昨日、ルシアンが言っていた。

 自分が未来を選ぶたび、この世界は完成へ近づく。

 だとしたら、どこまで伸びれば完成するのだろう。世界が完成した瞬間、自分には何が起こるのか。偽神はそれまで待ってくれるのか。

 分からないことは多い。

 でも。

「ノアに聞こ」

 そう呟いたところで、リリアは少し笑った。

 前なら、分からないことがあればまず自分で考えていた。それでも分からなければセシルに相談するか、専門的なことならルシアンを探した。

 今は。

 最初にノアが浮かぶ。

「……彼氏って便利」

 本人が聞いたらまた怒りそうだと思いながら、リリアは部屋を出た。

     *

 教室へ入る。

 ノアはいない。

「あれ」

 昨日より遅い。

 席へ鞄を置き、それでも気になって廊下を見る。

 いない。

 一分。

 二分。

 三分。

「遅い」

「誰が?」

 後ろから声がした。

「ノア」

「僕?」

 振り返る。

 いた。

「遅い」

「まだ始業二十分前だけど」

「待ってた」

「……」

「何?」

「いや」

 ノアが笑う。

「毎朝これ言われたいなと思って」

「じゃあ早く来て」

「待っててほしいから少し遅く来ようかな」

「それなら待たない」

「難しいなあ」

 リリアはノアの手を取る。

「おはよう」

「おはよう」

「好き」

「好き」

「大好き」

「僕も大好き」

「あと」

「うん?」

 周囲を見る。

 まだ少ない。

「今日はセシルいない」

「……リリア」

「今ならできる」

「朝から?」

「昨日できなかった」

「根に持ってたんだ」

「ちょっと」

 ノアが笑いながら身を屈める。

 軽く唇が触れた。

 一度。

「終わり?」

「学校だからね」

「もう一回」

「リリア」

「一回だけ」

「その一回だけ、昨日何回聞いたかな」

「覚えてない」

「僕は覚えてるよ」

 それでも。

 もう一度。

 短くキスをする。

 離れた瞬間。

「……おはよう、二人とも」

 声。

 振り返る。

 セシル。

「……おはよう」

「おはようございます」

「今日は間に合わなかったね」

 セシルが笑う。

「何に?」

「邪魔するの」

「セシル!」

 ノアが真っ赤になる。

 リリアは少し考えて。

「明日はもっと早くする」

「そういう対策なんだ」

「うん」

「リリア、強いね」

「最近よく言われる」

 ノアが額を押さえていた。

     *

 放課後。

 生徒会室へ向かうと、すでにルシアン、カイル、レオンハルト、アレンが揃っていた。

「ノアとリリア遅えぞ」

「授業終わったばかりですよ」

「こいつらどうせ途中でいちゃついてたんだろ」

「してません」

「手繋いで来た」

「リリア!」

「ほら見ろ!」

「手くらいいいでしょ!」

「俺は何もよくねえ!」

 アレンが騒いでいる横で、ルシアンは机の上に広げた紙から顔を上げた。

「元気そうで何よりだ。こちらは徹夜だよ」

「寝た方がいいですよ」

「世界が滅びたら永遠に眠れる」

「縁起悪い」

「僕もそう思う」

「なら言わないでください」

 いつもの調子で返すと、ルシアンは少しだけ笑った。

「座ってくれ。かなり重要なものを見つけた」

 その一言で、空気が変わった。

 リリアとノアが並んで座る。机の下で、自然と手を繋いだ。

「昨日、十三本目が伸びる条件について《選択》だと言ったね」

「はい」

「あれはほぼ間違いない」

 ルシアンが一冊の記録を開く。

「ただし、単に何かを選べばいいわけではない」

「朝ご飯パンにするとか?」

「それで世界が完成するなら楽だったね」

「違うんだ」

「残念ながら」

 ルシアンは文字を指す。

「《既定因果から外れる自律選択》」

「……難しい」

「簡単に言えば」

 レオンハルトが先に口を開いた。

「過去に決められていない未来を、自分で選ぶこと?」

「正解だ」

「じゃあ」

 リリアは考える。

「ノアと付き合ったのは?」

「過去にも君とノアが恋人になった世界は存在する」

 胸が少しだけちくりとする。

「なら違う?」

「いや」

 ルシアンは首を振った。

「そこが重要なんだ。結果だけを見れば似ている。しかし、過程が違う」

「過程?」

「過去の君ではない魂が、過去を知らない状態で、現在のノアを知り、自分の意思で好きになった」

 ノアの手が少し強くなる。

「だから」

「既定因果ではない」

 ルシアンが頷く。

「偽神が用意した《リリアは六人のうち誰かを選ぶ》という構造に似ていても、君自身の選択である限り、それは別の未来だ」

「……よかった」

 思わず言った。

「何が?」

 ノアが聞く。

「ノア好きなの、決められてなくて」

 ノアが一瞬黙った。

「……うん」

「私が決めた」

「うん」

「だから好き」

「待って、今すごく嬉しい」

「よかった」

 アレンが机を叩いた。

「話進めろ!」

「アレン先輩、今日ずっと怒ってますね」

「お前らのせいだ!」

「半分くらいは元からじゃない?」

「ノア、お前も黙れ!」

 ルシアンが咳払いをする。

「続けても?」

「お願いします」

     *

「そして、もう一つ分かった」

 ルシアンの表情が真剣になる。

「今の世界がなぜ生まれたのか」

 リリアは姿勢を正した。

「それ知りたかった」

「ああ」

「誰が作ったんですか?」

「誰か一人ではない」

 ルシアンは答えた。

「十二回目の世界の終わりに、複数の選択が重なった」

「誰の?」

 ルシアンは。

 ノアを見る。

 アレンを見る。

 カイルを見る。

 そして。

 自分自身の胸元へ指を置いた。

「僕たちだ」

 記憶を持つ四人。

「……僕ら?」

 ノアが聞く。

「ああ」

「何したんですか」

「願ったんだ」

 ルシアンの声が静かになる。

「もう彼女を選ばせるな、と」

 ノアの表情が変わった。

「……」

「覚えているだろう?」

 長い沈黙。

「少し」

 ノアが答える。

「十二回目の最後」

 目を閉じる。

「世界が崩れて」

「うん」

「彼女が……」

 言葉が止まる。

 リリアは握っている手へ力を込めた。

「無理に言わなくていい」

「……ありがとう」

 ルシアンが続ける。

「十二回目の終わり、僕たちは初めて同じ結論に至った」

 カイルが低く言う。

「次があるなら、俺たちが決めるな」

 アレンも。

「選ばせるな。誰か一人のために死なせんな」

 ノアが。

 ゆっくり。

 続ける。

「……僕たちのことを、忘れていい」

 胸が。

 締めつけられる。

「ノア」

「僕、言った」

 青い瞳が。

 遠い過去を見る。

「次の世界があるなら、僕たちのことなんて全部忘れていいから」

 少し笑う。

「自分のために生きてって」

 リリアは。

 何も言えなかった。

「僕は」

 ルシアンが続ける。

「世界の管理者として、再構築命令を拒絶した」

「拒絶できたんですか?」

「本来ならできない」

「じゃあ?」

「壊した」

「何を?」

「僕自身を」

 ルシアンは平然と言った。

「管理権限の一部を破棄した。次の再構築で《リリア》を既定位置へ配置する命令を実行できないようにした」

「それで今の私が?」

「それだけではない」

 カイルが口を開く。

「俺は」

 拳を握る。

「次の彼女を守るな、と願った」

「……え?」

「俺から」

 カイルはリリアを見る。

「俺たちの記憶から。俺たちの後悔から。俺たちの勝手な愛情から」

 リリアは黙る。

「アレン先輩は?」

「俺は単純だ」

 アレンが椅子にもたれる。

「もう同じ女を作るなって願った」

「……」

「同じ顔で、同じ魂で、同じ運命背負わせて、また俺らの前に置くくらいなら」

 赤い瞳が細くなる。

「次は別の誰かにしろって」

「それが」

 リリアは。

 自分の胸へ手を置く。

「私?」

「たぶんな」

 そして。

 ノア。

「僕は」

 ノアが言う。

「自由にしてって願った」

 リリアを見る。

「僕を好きにならなくていい」

 胸が。

 少し痛む。

「会わなくてもいい。僕を知らなくてもいい。別の誰かを好きになってもいい」

「ノア」

「ただ」

 ノアが笑う。

「生きてほしかった」

 リリアの目の奥が。

 熱くなる。

「……なのに会ったね」

「会ったね」

「好きになった」

「……うん」

「ノアを」

「うん」

 リリアは手を握り直す。

「じゃあノアの願い、半分失敗」

「最高の失敗だよ」

 ノアが笑った。

     *

「四人の願いだけで、新しい魂は作れない」

 ルシアンが説明を続ける。

「だが、僕たちの拒絶によって十二回続いた構造に亀裂が入った。そして、その亀裂へ世界そのものが反応した」

「世界が?」

「十二回の中で生きた人間たちの選択だ」

 ルシアンは記録を見つめる。

「偽神は世界を何度も巻き戻した。だが、巻き戻しても完全には消えないものがあった」

「記憶?」

「違う」

 セシルが呟く。

「選んだこと?」

 ルシアンが彼女を見る。

「そうだ」

「人が自分で選んだこと」

「それだけは、世界に痕跡として残った」

 誰かを助けた。

 誰かを愛した。

 逃げた。

 戦った。

 間違えた。

 それでも。

 自分で選んだ。

「十二回分の《選択》が蓄積した結果、世界そのものが偽神の再構築から外れようとした」

 リリアは。

 少しずつ。

 理解する。

「それで新しい世界が生まれた」

「そう」

「私も?」

「ああ」

 ルシアンが頷く。

「君は誰か一人が作った存在ではない」

 静かな声。

「十二回の世界で、人々が自分で選んだ可能性。その集積から生まれた魂だ」

 リリアは。

 胸元を見る。

 十三本目。

「可能性創造」

 自分の魔法。

「……だから私の魔法」

 ルシアンが頷く。

「おそらくね」

「可能性を作る」

「君自身が」

 彼は少しだけ笑う。

「可能性から生まれたから」

 不思議だった。

 感動するべきなのかもしれない。

 泣くべきなのかもしれない。

 でも。

 リリアが最初に思ったのは。

「……じゃあ私、結構みんなの子?」

 全員が止まった。

「リリア」

 ノアが額を押さえる。

「何?」

「今の説明聞いて最初の感想それ?」

「違う?」

「概念としては……」

 ルシアンが真剣に考え始める。

「ルシアン先輩も考えないでください!」

 ノアが止めた。

 セシルが吹き出した。

 レオンハルトまで笑う。

 アレンは腹を抱えている。

「お前すげえな!」

「何が?」

「そういうとこだよ!」

 カイルだけが。

 ほんの少し。

 口元を緩めていた。

 リリアも笑った。

 自分が何から生まれたとしても。

 今。

 笑っている。

 それでいい。

     *

 その瞬間だった。

 窓が。

 黒く染まった。

 笑い声が止まる。

「来た」

 ノアが立ち上がる。

 空。

 黒い月。

 昨日より。

 近い。

『――なるほど』

 声。

『知ったか』

「知った」

 リリアが答える。

『自分が何であるかを』

「うん」

『ならば理解したはずだ』

「何を?」

『お前は、人間ではない』

 ノアが一歩前へ出る。

「黙れ」

 でも。

 リリアが腕を掴んだ。

「いい」

「リリア」

「私が話す」

 黒い月を見る。

「人間じゃないと駄目なの?」

『……』

「私、ご飯食べるし」

 アレンが小さく「そこかよ」と呟いた。

「眠いし。迷子になるし。ノア好きだし」

「最後だけ急に嬉しい」

「黙ってて」

「はい」

「セシルも好き。みんな大切。魔法使う。怪我したら痛い。死ぬの怖い」

 胸へ手を置く。

「十分じゃない?」

『お前は世界の機構だ』

「だから?」

『人ではない』

「私が人だと思ってるから人」

『――』

「それじゃ駄目?」

 声が。

 少し。

 歪んだ。

『選択』

 黒い月が脈打つ。

『また、選択』

「うん」

『それが世界を壊した』

「違う」

 ルシアンが言う。

「選択が、お前の世界を壊したんだ」

『黙れ、管理者』

「もう管理者ではないよ」

『お前が壊した』

「そうだね」

 ルシアンは笑った。

「誇りに思っている」

 黒い月が揺れる。

『ならば』

 声が。

 変わった。

『選ばせよう』

 空間が。

 歪む。

「リリア!」

 ノアが手を伸ばす。

 でも。

 届かなかった。

     *

 気づくと。

 リリアは。

 一人だった。

「……ノア?」

 白い場所。

 何もない。

 前を見る。

 誰かがいる。

 銀白色の髪。

 紫色の瞳。

 自分と。

 同じ顔。

「……誰?」

 少女が。

 笑う。

『はじめまして』

 優しい声。

『エリシア』

 胸が。

 鳴った。

「第一リリア?」

『そう呼ばれていたもの』

「本物?」

『違う』

 即答だった。

『私は記録』

 少女は。

 少し寂しそうに笑う。

『あなたたちが言う、第一リリアの再現情報』

「……偽神が作った?」

『そう』

「私を消すため?」

『そうなる』

「嫌?」

 少女が。

 目を見開く。

「あなたは嫌じゃないの?」

『私は記録だから』

「でも喋ってる」

『そう見えるように作られている』

「じゃあ聞く」

 リリアは一歩近づく。

「あなた、ノア好き?」

 少女の顔が。

 変わった。

『……』

「好きなんだ」

『記録にそうある』

「ルシアン先輩は?」

『愛していた』

「他のみんなは?」

『大切だった』

「じゃあ」

 リリアは。

 まっすぐ彼女を見る。

「私の身体欲しい?」

 長い。

 長い沈黙。

 そして。

『……欲しくない』

 初めて。

 記録ではないような声だった。

「なんで?」

『あなたを見たから』

「私?」

『あなたは』

 少女が笑う。

『私より、ずっと自由』

「そう?」

『うん』

「方向音痴だけど」

『知ってる』

「なんで知ってるの?」

『見ていたから』

「恥ずかしい」

『面白かった』

「第一リリアも笑うんだ」

『笑うよ』

 少し。

 似ている。

 でも。

 違う。

「ノアに会いたい?」

 聞く。

 少女は。

 しばらく黙った。

『会いたい』

「そっか」

『でも』

 紫の瞳が。

 リリアを見る。

『あなたを消してまで、会いたくない』

 胸が。

 少しだけ温かくなる。

「同じこと言ってた」

『誰が?』

「ノア」

 少女が。

 泣きそうな顔で。

 笑った。

『……そっか』

     *

 その頃。

 生徒会室。

「リリア!」

 ノアは。

 倒れたリリアを抱えていた。

 息はある。

 心臓も。

 動いている。

 でも。

 目を開けない。

「ルシアン!」

「待て」

「何を待つんですか!」

「意識だけが隔離されている」

「戻せる?」

「探している!」

 黒い月。

 声が。

 ノアへ囁く。

『ノア』

「黙れ」

『会いたくないか』

「黙れ」

『お前が愛したリリアに』

 腕の中。

 今のリリア。

 温かい。

『返してやる』

「いらない」

 即答した。

『……何?』

「彼女は死んだ」

 声が震える。

「会いたいよ」

 十二回。

 好きだった。

「今でも」

 忘れられない。

「でも」

 腕の中の少女を。

 抱きしめる。

「この子を殺してまで会ったら」

 青い瞳が。

 黒い月を見る。

「昔のリリアに、僕が殺される」

『……』

「絶対怒るよ」

 少し。

 笑った。

「そういう人だったから」

 黒い月が。

 大きく揺れた。

『ならば』

 声が。

 冷たくなる。

『選べ』

 ノアの前に。

 二つの光が現れる。

 一つ。

 過去。

 第一リリア。

 もう一つ。

 現在。

 腕の中のリリア。

『過去を捨てれば、今を残す』

 ノアが目を細める。

『過去の記憶を全て失え』

「……」

『十二の世界を忘れろ』

 声が笑う。

『それならば』

 黒い月が。

 告げる。

『今のリリアを返してやる』

 ノアの呼吸が。

 止まった。