翌朝、リリアが教室へ入ると、ノアはすでに席にいた。
昨日の夜、屋上で別れたのは消灯時間をとうに過ぎてからだった。女子寮へ戻るまでノアが送ってくれたものの、寮監に見つからないよう裏手から戻ったせいで、結局リリアは自分の部屋へ辿り着くまでに二度道を間違えた。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんと部屋戻れた?」
「戻れた」
「何分かかった?」
「……三十分」
「女子寮の敷地内で?」
「暗かったから」
「僕、入口まで送ったよね?」
「暗かったから」
「二回言った」
ノアが笑う。
その顔を見て、リリアは安心した。
昨日よりちゃんと笑っている。
「ノア」
「ん?」
「今日も会えた」
ノアが一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく笑った。
「うん。会えたね」
「約束一個達成」
「明日も達成しよう」
「うん」
リリアは周囲を見る。
まだ生徒は少ない。
「誰も見てない」
「何が?」
「おはようのキス」
「……するの?」
「恋人ってするんじゃないの?」
「誰から聞いたの?」
「なんとなく」
「その“なんとなく”強すぎない?」
そう言いながらも、ノアは嬉しそうだった。
「する?」
「したい」
リリアが少し背伸びをすると、ノアが身を屈める。唇が触れる寸前。
「おはよう、リリア」
背後から声がした。
二人とも止まった。
「……おはよう、セシル」
「おはようございます……」
セシルは二人の距離を見て、数秒黙った。
「邪魔した?」
「ちょっと」
「リリア!?」
「ごめんね」
「ううん」
セシルは笑いを堪えている。
「続けていいよ」
「いや無理でしょ!」
「ノアは恥ずかしがり屋だね」
「普通ですよ!」
リリアはノアを見る。
「じゃああとで」
「予約しないで」
「昨日もした」
「そうだけど!」
セシルがとうとう笑った。
こんな朝が。
ずっと続けばいい。
そう思った。
だからこそ。
その日の放課後に知らされたことは、リリアにも、ノアにも、簡単には受け入れられなかった。
*
「見つけた」
生徒会室へ入るなり、ルシアンはそう言った。
机の上には、何冊もの古い記録が積まれている。昨日からほとんど眠っていないのだろう。眼鏡の奥の目には、珍しく疲労が見えた。
集まっているのはいつもの七人。
「何をですか?」
リリアが聞く。
「《器》という言葉が使われている最古の記録だ」
ノアの表情が変わる。
昨日。
黒い月の声が言った。
――器が、世界を持った。
「読めるんですか?」
「ああ。ただし、一部欠損している」
ルシアンが記録を開く。
「これは第一リリアが生まれるより前の記録だ」
「第一リリアより?」
レオンハルトが聞き返す。
「つまり、世界が最初に壊れる前?」
「正確には、壊れ始めた頃だ」
ルシアンが指で文字を追う。
「当時、人間の願いや恐怖、絶望といった強い感情から生まれる魔力が、一箇所へ集中する現象が起きていた。それが後に《黒い月》と呼ばれるものになった」
「じゃあ月じゃない?」
リリアが聞く。
「そうだ。あれは天体ではない」
「魔力?」
「意思を持った魔力、と言った方が近い」
ルシアンは続ける。
「世界が滅びることを恐れた人々の願い。死にたくないという祈り。誰かを失った怒り。そして、自分だけでも生き残りたいという欲望。それらが長い時間をかけて混ざり、巨大な意思を持つようになった」
カイルが低く言う。
「偽神か」
「おそらく」
部屋が静かになる。
「じゃあ黒い月と偽神は同じ?」
リリアが聞く。
「完全に同一とは言い切れない。黒い月が本体で、偽神はそこから生じた意思、あるいは人格に近いものだと考えている」
「人格……」
「神を名乗ってはいるが、元は人間の願いの集合体だ」
アレンが顔をしかめる。
「願いから生まれたくせに、なんで世界ぶっ壊してんだよ」
「願いは必ずしも善意じゃない」
ルシアンが答える。
「死にたくない。失いたくない。やり直したい。あの時へ戻りたい。今度こそ正しい選択をしたい――それらが極端になれば、どうなると思う?」
ノアが。
小さく答えた。
「……何度でも、やり直す」
「そう」
ルシアンが頷く。
「偽神が求めているのは、幸福ではない。《正しい結末》だ」
「正しいって誰にとって?」
セシルが聞く。
「それが問題だ」
ルシアンの声が冷える。
「偽神自身だよ」
*
記録によれば、最初の世界が崩壊へ向かう中、人々は黒い月へ祈った。
世界を救ってほしい。
死者を返してほしい。
時間を戻してほしい。
愛する人を失わない世界にしてほしい。
あまりにも多くの願いを受け取った偽神は、一つの結論へ辿り着いた。
――世界が間違えるなら、正しい結果になるまで作り直せばいい。
「それが再構築?」
レオンハルトが聞く。
「ああ」
「じゃあ十二回の世界を作ったのは偽神なんですか?」
「基礎構造を作ったのは、そうだろう。ただし世界を維持するためには、中心になる存在が必要だった」
リリアは嫌な予感がした。
「それが」
「リリア」
ルシアンが答える。
「第一リリアだ」
ノアの手が僅かに動いた。
「第一リリアは人間を救いたいという願いから作られたんですよね?」
「そうだ。だが、正確にはそれだけではない」
ルシアンが別の頁を開く。
「第一リリアを作る際、人類側は偽神の力を利用した」
「人類側?」
「当時の魔術師たちだ。偽神を完全には信用していなかった。だから偽神が世界そのものを支配しないよう、世界の中心に人間側の意思を持つ存在を置こうとした」
「それが第一リリア」
「そう」
ルシアンの指が止まる。
「人々の生存への願い。そして、世界と強く共鳴できる魂の半分」
リリアはルシアンを見る。
以前聞いた。
第一リリアを作るために使われた。
若いルシアンの魂。
「僕だ」
ルシアンは静かに言った。
「正確には、当時の僕の原型となった人間の魂だが」
「半分使ったんですよね」
「ああ」
「残り半分は?」
「僕という管理者の原型になった」
ルシアンは淡々と答えた。
「だから第一リリアと僕は、世界構造に対して非常に近い性質を持っていた」
「それで第一リリアは世界の中心になった」
「そうだ」
そこで。
ノアが口を開いた。
「でも、それなら《器》は第一リリアのことじゃないんですか」
「本来はね」
「本来?」
「第一リリアは世界を維持する《器》として作られた」
ルシアンが眼鏡を外し、目元を押さえた。
「だが、彼女は器であることをやめた」
「どうやって?」
「自我を持った」
リリアは黙る。
「誰かに命令されて人類を救う存在ではなく、自分で考え、自分で愛し、自分で選ぶ人間になった。それが偽神にとって最初の誤算だった」
「……だから何度も作り直した?」
「その可能性が高い」
十二回。
選択。
恋。
死。
やり直し。
「偽神は第一リリアを元にした存在を世界の中心へ置き、何度も《正しい選択》をさせようとした」
セシルの眉が寄る。
「正しい選択って?」
「六人のうち、誰か一人を選ぶこと?」
リリアが聞く。
「それだけではないと思う」
ルシアンが首を振る。
「誰を選ぶか。誰を救うか。誰を捨てるか。誰が死ぬか。それら全てを含めて、偽神が望む形へ世界を収束させようとしていた」
「最低」
セシルが即座に言った。
「同感だ」
ルシアンが答える。
リリアもそう思う。
「でも」
レオンハルトが記録を見る。
「今のリリアは、その第一リリアとは別人なんですよね」
「ああ」
「なら、どうして偽神は彼女を器と呼ぶ?」
沈黙。
「それが昨日まで分からなかった」
ルシアンが一枚の紙を出す。
「これを見るまでは」
*
そこには。
十三本の線が描かれていた。
十二本は円。
十三本目だけが。
外へ伸びている。
その先に。
小さな円。
「昨日のと同じ」
リリアが言う。
「そうだ」
その下。
古い文字。
ルシアンが読む。
「《独立世界生成時、旧世界核の空席を新規魂が取得した場合――》」
止まる。
「続きは?」
ノアが聞く。
「《新規魂は器ではなく、創世核へ移行する》」
「創世核?」
「世界を支えるだけの器ではない」
ルシアンがリリアを見る。
「世界の行き先そのものを決められる存在だ」
「私が?」
「おそらく」
リリアは自分の胸元を見る。
昨日。
十三本の線が現れた場所。
「だから世界が私と一緒に生まれた?」
「逆かもしれない」
「逆?」
「君がこの世界を生んだ」
誰も。
すぐには言葉を出せなかった。
「……私そんなことした覚えない」
「意識的ではないだろう」
「寝てる間?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ分からない」
ルシアンが少し笑った。
「君らしいね」
でも。
その笑みはすぐ消えた。
「問題はここからだ」
「まだあるの?」
「ある」
「多い」
「世界の命運だから我慢してくれ」
「はい」
ルシアンが次の行を読む。
「《創世核の所有権が確定するまで、新世界は未確定状態に留まる》」
「所有権?」
リリアが眉を寄せる。
「私の世界じゃないの?」
「君はそう思っている。世界もおそらく君を選んでいる」
「じゃあ何と争ってるんですか」
ルシアンは。
窓の外を見る。
「偽神だ」
*
「偽神は、今の世界を十三回目の再構築世界に戻そうとしている」
ルシアンの説明は明快だった。
今の世界は、十二回続いた円環から偶然ではなく、何らかの選択によって外れた。
その中心にいたのが。
新しく生まれた魂。
エリシア。
「偽神にとっては、世界を制御するための《リリア》が必要だった」
「でも生まれたのが私」
「そう」
「別人」
「そうだ」
「だから昨日『違う、お前じゃない』って言った?」
「おそらく」
ノアが顔を上げる。
「じゃあ偽神が欲しいのは」
嫌な予感。
「第一リリア?」
「……そう考えるのが自然だ」
ノアの表情が。
消えた。
「どういうこと?」
リリアが聞く。
「今の君という創世核を《器》として利用し、第一リリアを再生成する」
ルシアンが言った。
「それが偽神の目的だと考えている」
静寂。
リリアは。
意味を理解するまで。
少し時間がかかった。
「私の中に、第一リリアを入れるってこと?」
「近い」
「そしたら私は?」
ルシアンが答えない。
「消える?」
「……可能性が高い」
隣で。
何かが割れた。
ノアの手元。
グラス。
「ノア」
「……ごめん」
血。
掌が切れている。
「手!」
「平気」
「平気じゃない」
リリアはすぐに手を取る。
「また怪我してる」
「これは事故」
「治す」
治癒魔法をかける。
傷が塞がる。
でも。
ノアの手は冷たい。
「ノア?」
「……第一リリアを」
ノアがルシアンを見る。
「戻せるんですか」
その瞬間。
胸が。
痛んだ。
ノア自身も。
言った直後に気づいたようだった。
「違う、リリア、今のは――」
「いいよ」
「よくない」
「聞きたいでしょ」
「……」
「私も聞きたい」
ルシアンを見る。
「戻せるんですか?」
「理論上は」
ノアの瞳が揺れる。
「ただし」
ルシアンは続ける。
「それは復活ではない」
「……どういう意味ですか」
「第一リリアはもういない」
はっきりと。
言った。
「魂も、自我も、存在としての連続性も終わっている。残っているのは記録、世界に刻まれた情報、そして彼女を覚えている者たちの記憶だ」
ノアは黙っている。
「偽神が作るものは、第一リリアの情報を再現した存在だ」
「偽物?」
リリアが聞く。
「その言葉が適切かは分からない。生まれたあと自我を持てば、その存在も一人の人間になるかもしれない」
「でも」
セシルが言う。
「昔のリリア本人が帰ってくるわけじゃない」
「そうだ」
ノアが。
目を閉じた。
十二の世界。
何度も。
好きだった人。
失った人。
もし。
戻ると言われたら。
どれほど。
望んだだろう。
リリアは。
ノアの横顔を見た。
「ノア」
「……うん」
「戻ってきてほしい?」
全員が。
息を止めたような気がした。
「リリア」
「聞きたい」
「そんなこと聞かなくていい」
「でも聞きたい」
ノアは。
長い間。
答えなかった。
やがて。
「……会いたいよ」
胸が。
痛む。
「うん」
「会えるなら、会いたい」
「うん」
「話したい。謝りたいこともある。聞きたいこともある。言えなかったことも」
「うん」
「いっぱいある」
リリアは。
手を握る。
「でも」
ノアが。
握り返す。
「君を消してまで会いたいとは思わない」
青い瞳が。
リリアを見る。
「絶対に」
「……本当?」
「本当」
「昔のリリア、大好きだったんでしょ?」
「大好きだった」
否定しない。
「今も?」
「大切だよ」
「うん」
「でも」
ノアが。
リリアの手を。
自分の胸へ当てた。
心臓。
速い。
「今ここにいる君を愛してる」
リリアの胸が。
強く鳴った。
「……愛してる?」
「あ」
「初めて言った」
「……言ったね」
「もう一回」
「今?」
「うん」
アレンが顔を覆った。
「お前ら場所考えろ」
「大事なところだから黙っててください」
「ノア、お前急に強くなったな!?」
少しだけ。
空気が緩む。
ノアは。
もう一度リリアを見る。
「愛してる」
今度は。
ちゃんと聞いた。
「……私も」
「何?」
「愛してる」
言ってみる。
好きより。
少し重い。
でも。
嫌ではない。
「たぶん」
「たぶん!?」
「初めてだから分からない」
「そこはリリアだね……」
「でも大好き」
「それで十分」
ノアが笑う。
今度は。
ちゃんと。
今のリリアを見ていた。
*
その日の調査は、日が沈むまで続いた。
分かったことは三つ。
一つ。
十三本目の線が完成すれば、この世界は十二回の再構築から完全に独立する。
二つ。
完成前に偽神がリリアの創世核を奪えば、今の世界は十三回目の再構築へ戻される。
そして。
三つ。
「完成条件が分からない」
アレンが机に突っ伏した。
「一番大事なとこじゃねえか!」
「記録が欠けているんだ」
ルシアンが答える。
「どこかにないの?」
「探している」
「いつ分かる?」
「明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない」
「その前に偽神が来たら?」
「困る」
「困るで済ますな!」
「僕に怒られても記録は生えないよ」
その時。
リリアの胸元が。
微かに光った。
「……あ」
十三本目。
昨日より。
長い。
「伸びてる」
ノアが立ち上がる。
「いつ?」
「分からない」
ルシアンが近づく。
「昨日から何か変わったことは?」
「ノアとキスした」
「リリア!」
「変わったこと聞かれたから」
「それは関係ないと思う!」
「三回」
「回数言わなくていい!」
「屋上で」
「場所も!」
ルシアンが眉間を押さえた。
「……一応記録しておこう」
「しなくていいです!」
セシルが笑っている。
レオンハルトまで口元を隠していた。
カイルは窓の外を見ている。
アレンは頭を抱えている。
「他には?」
ルシアンが聞く。
リリアは考える。
「昨日、ノアと約束した」
「何を?」
「ずっと一緒にいる」
十三本目の線が。
また。
微かに光った。
全員が止まった。
「……今」
セシルが言う。
「光ったね」
「うん」
リリアは胸元を見る。
「約束?」
ノアが呟く。
「いや」
ルシアンの目が。
鋭くなる。
「違う」
「何が?」
「約束そのものじゃない」
彼は。
古い記録を見る。
「選択だ」
「選択?」
「リリアが未来を選ぶたび」
十三本目。
円環の外へ。
伸びていく。
「この世界は完成へ近づいている」
*
夜。
ノアとリリアは女子寮の前にいた。
「今日はキスしてない」
リリアが言った。
「第一声それ?」
「朝できなかった」
「セシルが来たからね」
「昼もできなかった」
「みんないたからね」
「今できる」
「……そうだね」
リリアはノアの上着を掴む。
「して」
「今日は甘えん坊?」
「今日も」
「確かに」
ノアが笑って。
頬に触れる。
キス。
一度。
離れる。
「……もう一回」
「はいはい」
二度目。
今度は。
少し長い。
リリアは目を閉じたまま。
ノアの服を握る。
離れる。
「ノア」
「ん?」
「昔のリリアに会いたいって言ったの」
「……うん」
「ちょっと嫌だった」
「ごめん」
「でも」
リリアは顔を上げる。
「言ってくれてよかった」
「え?」
「嘘つかれる方が嫌」
「……」
「昔の人を大切にしててもいい」
少し。
嫉妬するけど。
「その代わり」
「うん」
「今は私が一番がいい」
ノアの表情が。
柔らかくなる。
「一番だよ」
「本当に?」
「今、僕が一緒に生きたいのは君だけ」
リリアは。
笑った。
「じゃあいい」
「それだけ?」
「うん」
「もっと嫉妬してくれてもいいよ?」
「嫌」
「なんで?」
「面倒だから」
「そこは現実的なんだ」
「でも」
リリアは。
ノアの首へ腕を回す。
「今日はいっぱいキスする」
「それ嫉妬?」
「たぶん」
「……最高だね」
「でしょ?」
もう一度。
唇が重なる。
十三本目の線が。
制服の下で。
淡く。
光った。
それは。
誰かに選ばされた答えではない。
過去に決められた恋でもない。
今の彼女が。
自分で選んだ未来。
そのたびに。
新しい世界は。
少しずつ。
形を得ていった。
ノアルート 第42章 終

