恋人になって最初の月曜日。
リリアは教室へ入るなり、迷うことなくノアの席へ向かった。
「おはよう」
「おはよう、リリア」
「手」
「朝の挨拶より先じゃなかっただけ成長したね」
「繋がない?」
「繋ぐ」
差し出された手を握る。休日のデートで覚えたばかりの恋人繋ぎにすると、ノアが少しだけ目を丸くした。
「……学校でもそれ?」
「駄目?」
「僕は最高だけど」
「じゃあいい」
「よくないかもしれない人が後ろにいるよ」
「え?」
振り返る。
アレンがいた。
「朝っぱらから何見せられてんだ、俺は」
「手繋いでるだけです」
「指絡めてんじゃねえか!」
「恋人だから」
「知ってるよ!」
「アレン先輩、声大きい」
「誰のせいだ!」
リリアは首を傾げる。ノアは隣で笑いを堪えていた。
「リリア、そろそろ席行かないと先生来るよ」
「うん」
手を離す。
けれど二歩進んで、リリアは戻った。
「ノア」
「ん?」
「好き」
「……っ」
「今日の分」
「朝から!?」
「昨日、毎日言うって約束した」
「したけど……」
「ノアは?」
ノアが少しだけ頬を赤くする。
「好き」
「うん」
「大好き」
今度はリリアが止まった。
「……二個言った」
「昨日の仕返し」
「ずるい」
「恋人だから許して」
「それ私のやつ」
笑いながら席へ戻る。
その途中でセシルと目が合った。
「おはよう、リリア」
「おはよう」
「朝から幸せそうだね」
「うん」
素直に頷くと、セシルは少しだけ困ったように笑った。
「それならよかった」
「セシルも好きな人とうまくいくといいね」
「……ありがとう」
その人が誰なのか、リリアはまだ知らない。
いつか教えてくれたらいいと思う。
今は。
自分の恋で精一杯だった。
*
昼休み。
いつもの七人で食事をしていると、ルシアンが突然口を開いた。
「ところで」
嫌な予感がした。
「何ですか、ルシアン先輩」
「君たち、付き合ったそうだね」
ノアがむせた。
「なんで知ってるんですか!?」
「学院というのは狭い場所だよ」
「誰から聞いたんですか」
「三人」
「誰!?」
「守秘義務がある」
「絶対ないでしょ!」
リリアはパンを食べながらルシアンを見る。
「付き合いました」
「君は隠す気がないんだね」
「なんで隠すんですか?」
「いや。悪いことではない」
ルシアンが笑う。
「おめでとう、リリア。ノア」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
ノアは少し照れている。
レオンハルトも微笑んだ。
「僕からも。おめでとう」
「ありがとうございます、レオン先輩」
「幸せそうだね」
「はい」
そう答えた瞬間。
ほんの少し。
レオンハルトの青い瞳が寂しそうに見えた。
アレンは露骨に不機嫌だった。
「俺はまだ祝ってねえからな」
「祝ってください」
「嫌だ」
「なんで?」
「なんでもだ!」
「でも付き合いました」
「知ってる!」
カイルは静かに食事を続けている。
けれど。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「祝ってくれます?」
「……幸せなら、それでいい」
「はい。幸せです」
カイルの手が、一瞬だけ止まった。
「そうか」
それだけ。
でも。
優しい声だった。
リリアは少しだけ胸が痛くなった。
六人とも大切。
けれど。
選んだ。
だから。
曖昧にはしたくない。
リリアは隣に座るノアの袖を摘んだ。
「何?」
「何でもない」
「くっつきたくなった?」
「うん」
「素直だね」
ノアが嬉しそうに笑う。
その顔を見て。
やっぱり。
選んでよかったと思った。
その時だった。
「……リリア」
ルシアンの声が変わった。
「何ですか?」
「その首元」
「え?」
全員の視線が集まる。
リリアは自分の胸元を見る。
制服の下。
何かが。
光っている。
「何これ」
服の上から触れる。
熱くない。
痛くもない。
でも。
確かに光っている。
「保健室――いや、生徒会室へ来てくれるかい」
ルシアンが立ち上がる。
ノアもすぐに立った。
「僕も行きます」
「当然だ」
「私も」
セシルが言う。
アレンも。
カイルも。
レオンハルトも。
「全員来る気?」
ルシアンが少し呆れた顔をする。
「駄目ですか?」
リリアが聞く。
「……いや」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「ここまで来たなら、今さら一人ずつ追い返す意味もないか」
*
生徒会室。
リリアは首元のリボンを少し緩めた。
「見える?」
胸元。
鎖骨の少し下。
そこに。
淡い銀色の線が浮かんでいる。
「これ……」
ノアの顔から笑みが消える。
一本。
二本。
三本。
円を描くように。
線が増えていく。
ルシアンが古い記録を机へ広げた。
「十二本」
かつて何度も見た構造。
世界を閉じる線。
再構築を示す円環。
そして。
「来る」
カイルが低く言った。
十三本目。
それは。
十二本の輪の外へ向かって伸びた。
リリアの胸元から。
一本の光が。
円を突き破るように。
外へ。
「……十三本目」
レオンハルトが呟く。
「今までと違う」
セシルが言う。
「今までは途中で消えていた」
ルシアンが答える。
「だが今回は」
十三本目の線が。
止まらない。
伸びる。
さらに。
その先で。
小さな円を描いた。
「……何?」
リリアが聞く。
ルシアンは答えなかった。
顔色が変わっている。
「ルシアン先輩?」
「これは」
彼の指が。
古い記録の一箇所を辿る。
「……世界座標だ」
部屋が静かになった。
「世界?」
「正確には、世界を一つの独立した存在として固定するための印だ」
ノアが記録を見る。
「じゃあ」
「十三本目は」
ルシアンがリリアを見る。
「出口ではない」
「え?」
「出口であると同時に」
一度。
息を吐く。
「新しい世界を作るための線だ」
リリアは胸元を見る。
十三本目。
その先にある。
小さな円。
「じゃあ今いるここは?」
「まだ完成していない」
その言葉に。
ノアの手が動いた。
リリアの手を握る。
「どういう意味ですか」
声が低い。
「十三回目の世界じゃないんですか」
「そこが、僕たちの認識違いだった可能性が高い」
ルシアンが古い記録をめくる。
「第一の世界が壊れ、その後、十二回の再構築が行われた。僕たちは便宜上、今を十三回目と呼んでいた」
「違うの?」
リリアが聞く。
「ああ」
ルシアンは首を横に振った。
「ここは十三回目の再構築世界ではない」
沈黙。
「十二回目の世界が終わったあと、本来なら再び同じ構造で十三回目が始まるはずだった。しかし、それが起きなかった」
「じゃあ」
セシルが聞く。
「今ここにある世界は何なんです?」
ルシアンの紫の瞳が。
リリアを見る。
「彼女と同じだ」
「私?」
「独立個体」
胸が。
鳴った。
「誰かに完成させられたものではない。過去の世界の複製でもない。十二回の再構築から外れて、自発的に発生した新しい世界」
「……だから」
ノアが呟く。
「今までなかったことが起きてる?」
「おそらく」
ルシアンが頷く。
「レオンに記憶がないこと。セシルがアルカディアを選んだこと。リリアが過去のリリアと魂を共有していないこと。そして十三本目の線」
全部。
今までと違う。
「じゃあ、いいことじゃない?」
リリアが言う。
「新しい世界なんでしょ?」
「完成すればね」
ルシアンの声が。
重くなる。
「完成しなかったら?」
「消える」
ノアの手に。
力が入った。
「……いつ」
「分からない」
「どうすれば完成するんですか」
「それも――」
突然。
窓が。
黒く染まった。
*
昼だった。
さっきまで。
確かに。
昼だった。
なのに。
窓の外。
空に。
黒い月が浮かんでいる。
「……あれ」
アレンが立ち上がる。
「前と同じじゃねえか」
「違う」
カイルが言った。
「何が?」
「大きすぎる」
黒い月。
空の半分を覆うほど。
巨大。
そして。
リリアの胸元の線が。
熱を持った。
「痛っ」
「リリア!」
ノアが支える。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「ちょっと熱いだけ」
「見せて」
十三本目の線。
その先の円。
そこへ。
黒い染みが広がっている。
「ルシアン」
カイルの声。
「これは何だ」
「……干渉だ」
「誰の?」
ルシアンが答える前に。
声がした。
『――見つけた』
全員。
聞いた。
今度は。
リリアだけではない。
『やっと』
どこからともなく。
男とも。
女とも。
人間とも言えない声。
『器が、世界を持った』
ノアがリリアを自分の後ろへ庇う。
「出てこい」
『ノア』
声が。
名前を呼んだ。
ノアの身体が固まる。
『まだ、その器を守るのか』
「……黙れ」
『十二回』
リリアは。
ノアの手が。
震えたのを感じた。
『十二回も』
「黙れ」
『お前は守れなかった』
「黙れ!」
魔力が弾ける。
「ノア!」
リリアが腕を掴む。
ノアが振り返る。
「私ここにいる」
「……」
「見て」
青い瞳。
「私」
呼吸が。
少しずつ戻る。
「……うん」
声が笑った。
『それは、リリアではない』
「知ってる」
リリアが答えた。
部屋が静かになる。
『……何?』
「私は昔のリリアじゃない」
胸元。
十三本目の線へ触れる。
「エリシア」
自分で。
その名を言う。
「でもリリアでもある。私がそう決めた」
『違う』
「何が?」
『その名は』
黒い月が。
揺れる。
『お前に与えたものではない』
「誰が?」
声が。
一瞬。
止まった。
「誰が私に名前をつけたの?」
答えない。
「誰が私を作ったの?」
『――』
「誰がこの世界を作ったの?」
沈黙。
「私じゃないの?」
胸元の線が。
光った。
黒い染みを。
押し返す。
『……やめろ』
「なんで?」
『その世界は完成してはいけない』
ルシアンの表情が変わる。
「なるほど」
「何が分かったんですか?」
「こいつの目的だ」
ルシアンが黒い月を見る。
「世界を壊すことじゃない」
『黙れ』
「十三番目の世界を」
ルシアンは続けた。
「独立させたくないんだ」
黒い月が。
大きく脈打った。
*
その直後。
空は戻った。
青空。
昼。
何事もなかったように。
「……消えた?」
レオンハルトが窓へ近づく。
「一時的にね」
ルシアンが答える。
「また来る」
ノアは。
まだリリアの手を握っている。
強い。
「ノア」
「うん」
「痛い」
「あ、ごめん」
すぐに緩む。
「離さなくていい」
「……うん」
今度は。
優しく握る。
「ルシアン先輩」
リリアが聞く。
「私たち、何すればいいですか?」
「調べる」
「それだけ?」
「まずはね。敵の正体、十三本目の完成条件、そして――」
ルシアンが。
リリアの胸元を見る。
「なぜ君が、この世界の核になっているのか」
「核?」
「おそらく」
嫌な言葉だった。
「私が死んだら?」
隣で。
ノアの身体が固まった。
「リリア」
「聞かないと」
ルシアンを見る。
「私が死んだら、この世界も消えますか?」
長い沈黙。
「……可能性はある」
ノアの手が。
また強くなる。
でも。
リリアは。
握り返した。
「ノア」
「……うん」
「約束」
「分かってる」
「私を助けるために死ばない」
「分かってる」
「一緒に生きる方」
ノアが。
リリアを見る。
怖そうだった。
でも。
逃げなかった。
「……探す」
「うん」
「絶対に」
今度は。
ノアから。
指を絡めた。
*
その夜。
ノアは一人で。
学院の屋上にいた。
空を見る。
月は。
普通の白い月。
「十二回守れなかった」
あの声。
間違ってはいない。
何度も。
失った。
だから。
身体が知っている。
危険が来たら。
彼女を後ろへ。
自分が前へ。
彼女が生きるなら。
自分は。
「……違う」
声にする。
今日。
リリアに言われた。
約束。
『一緒に生きる方』
「分かってる」
でも。
もし。
最後に。
彼女か。
自分か。
どちらかしか。
生きられないとしたら。
その時。
自分は。
本当に。
彼女と交わした約束を守れるのだろうか。
「ノア」
後ろから声がした。
振り返る。
「……リリア?」
「いた」
「なんでここに」
「探した」
「女子寮は?」
「抜けてきた」
「駄目でしょ」
「ノアがいなかったから」
リリアが歩いてくる。
「どうしてここだって?」
「分からなかったからいっぱい探した」
「それ絶対迷っただけだよね?」
「ちょっと」
「ちょっとじゃないでしょ」
いつもの会話。
それだけで。
胸が緩む。
リリアが目の前まで来る。
「ノア」
「ん?」
「怖い?」
誤魔化せなかった。
「……うん」
「私も」
「リリアも?」
「世界消えるかもしれないんでしょ?」
「……うん」
「怖いよ」
リリアは。
ノアの服を掴んだ。
「だから」
抱きつく。
ノアが息を呑む。
「一人で怖がらないで」
「……」
「恋人でしょ」
ノアの腕が。
ゆっくり。
背中へ回る。
「こういう時にも使うんだ、その言葉」
「便利」
「便利扱いしないで」
「好き」
「……ずるい」
「ノアは?」
「大好き」
「うん」
抱きしめる。
白い月の下。
黒い月ではない。
今は。
まだ。
「リリア」
「何?」
「キスしていい?」
「うん」
短く。
唇が触れる。
離れる。
リリアは。
もう一度。
自分から触れた。
「二回」
「怖い時は二回?」
「三回でもいい」
「じゃあ」
三回目。
今度は。
少しだけ長く。
唇を離したあと。
額を合わせる。
「ノア」
「うん」
「明日も会おうね」
胸が。
痛んだ。
でも。
ノアは笑った。
「うん」
明日。
その言葉を。
約束にする。
「明後日も」
「うん」
「来週も」
「うん」
「来年も」
「うん」
「卒業したあとも」
ノアは。
少しだけ目を閉じた。
「……うん」
「ずっと?」
十二回。
言えなかった。
願って。
失って。
諦めて。
それでも。
今度は。
「ずっと」
答えた。
リリアが笑う。
「約束」
「約束」
十三本目の線は。
その時。
二人の知らないところで。
ほんの少しだけ。
先へ伸びた。

