付き合い始めて最初の休日。
待ち合わせは、前と同じ学院の正門だった。
リリアが到着した時、ノアはすでにそこにいた。今日は淡い色のシャツに紺色の上着。青みを帯びた銀髪は休日の柔らかな日差しを受けて、制服姿の時より少し明るく見える。
前回も見た服装だった。
それなのに、今日は違って見えた。
彼氏だから。
その言葉を頭の中で使っただけで、自然と頬が緩む。
「ノア」
呼ぶ。
振り返る。
「おはよ――」
ノアの声が途中で止まった。
「おはよう」
「……おはよう」
「どうしたの?」
「いや」
ノアはリリアを上から下まで見て、それから目を逸らした。
「今日も可愛いなと思って」
「ありがとう」
「前より素直に受け取るね」
「彼氏に言われると嬉しいから」
「……朝一番からそれ?」
「何が?」
「彼氏」
「違うの?」
「違わない。むしろもっと言って」
「ノアは彼氏」
「うん」
「私の彼氏」
「……」
ノアが口元を押さえる。
「何?」
「ちょっと待って」
「また待つの?」
「君、付き合ってから強すぎない?」
「何が?」
「全部」
リリアはよく分からなかった。
ただ、好きだと分かった以上、好きな人には好きなように接していいのだと思っている。
「行こ」
「うん」
ノアが歩き出そうとする。
リリアはその手を掴んだ。
「……」
「何?」
「いや」
ノアが繋がれた手を見る。
「今日は最初からなんだなって」
「恋人だから」
「その理屈、最高だね」
「ノアも繋ぎたい?」
「もちろん」
指が絡む。
前より深く。
恋人繋ぎ。
リリアは少し驚いて、二人の手を見る。
「これ初めて」
「嫌?」
「ううん」
指と指の間まで触れている。
普通に手を握るより近い。
「好き」
「……手の繋ぎ方が?」
「うん」
「そっちかあ」
「ノアも好き」
「はい、今日もう帰ってもいいくらい幸せ」
「まだ出発してない」
「知ってる」
リリアは笑って、繋いだ手を少し揺らした。
*
今日の目的地は、学院から少し離れた植物園だった。
魔力を含む珍しい植物が育てられている場所で、温室の中には季節に関係なく花が咲いているらしい。
「ノアが決めたの?」
「うん。デートっぽいかなと思って」
「デートっぽいって何?」
「綺麗な場所に行くとか」
「前はお菓子食べた」
「あれもデート」
「ノート買った」
「あれも」
「何してもデート?」
「恋人同士ならね」
リリアは少し考える。
「じゃあ図書館でも?」
「デート」
「食堂」
「二人ならデートにできる」
「授業」
「それは授業」
「駄目なんだ」
「さすがにね」
そんな話をしているうちに植物園へ着いた。
大きなガラス張りの温室へ入ると、暖かな空気と甘い花の香りに包まれる。
「すごい」
リリアはすぐにノアの手を引いた。
「見て」
「見てる」
「青い花」
「珍しいね」
「ノアみたい」
「僕?」
「髪」
「銀なんだけど」
「青入ってる」
「じゃあリリアはあっち」
ノアが指差す。
白い花。
花弁の中心だけが淡い紫色だった。
「髪と目?」
「うん」
「じゃあ隣に植える?」
「僕らを?」
「花を」
「分かってるよ」
「一緒に咲いてたら可愛い」
ノアが少し黙る。
「……リリア」
「何?」
「そういうの無意識?」
「何が?」
「いや、いい」
手を引かれる。
「こっちも見よう」
「うん」
*
温室の奥には、小さな池があった。
水面には白い花が浮かび、天井から差し込む光が揺れている。
「綺麗」
「うん」
リリアは池を見ていた。
ノアは。
リリアを見ていた。
「ノア」
「何?」
「見てない」
「見てるよ」
「池」
「ああ」
「私見てたでしょ」
「ばれた?」
「分かる」
「綺麗だったから」
「池が?」
「リリアが」
「……」
胸が鳴る。
まだ。
こういう言葉には慣れない。
「ノア」
「ん?」
「好き」
「急だね」
「言いたくなった」
「……もう一回」
「好き」
「もう一回」
「昨日もそれやった」
「何回でも聞きたい」
「じゃあノアも言って」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「……いいね、これ」
「でしょ?」
二人で笑う。
馬鹿みたいだと思う。
でも。
楽しい。
「リリア」
「何?」
「こっち向いて」
「なんで?」
「いいから」
振り向く。
ノアが手を伸ばす。
髪に触れた。
「花びら」
銀白色の髪から、小さな白い花びらを取る。
「ついてた?」
「うん」
「ありがとう」
ノアの手が離れる。
その瞬間。
リリアは少し物足りないと思った。
「……ノア」
「ん?」
「もう一回」
「花びらないよ?」
「違う」
リリアは自分の髪を指す。
「触って」
ノアが固まる。
「……髪?」
「うん」
「なんで?」
「さっき触られたの好きだった」
「リリア」
「何?」
「僕、そんなに安全じゃないよ」
「危ないの?」
「君に対してはね」
「襲う?」
「その言い方やめようか」
「じゃあ何?」
「……キスしたくなる」
言われて。
リリアは思い出す。
前回の約束。
「今日するって言ってた」
「覚えてたんだ」
「うん」
「……僕だけ意識してたらどうしようかと思ってた」
「私もしてたよ」
「本当に?」
「朝から」
「朝から!?」
「今日かなって」
ノアが額を押さえた。
「言わないでよ……」
「なんで?」
「緊張するから」
「ノアも?」
「するよ」
「私は初めて」
「僕も、君とは初めて」
その言葉に。
少し引っかかった。
「……君とは?」
「あ」
「ノア、キスしたことあるの?」
ノアが止まる。
「今の人生ではないよ」
意味を理解する。
過去の世界。
「昔のリリア?」
「……うん」
胸の奥が。
ちくりとした。
「何回?」
「え」
「キス」
「リリア」
「いっぱい?」
「……」
「いっぱいなんだ」
「世界によるというか」
「世界による」
「その復唱怖いな」
「何回付き合ったの?」
「それは……」
「ノア」
「はい」
「私、嫉妬してる」
「……うん」
「昔の私じゃない人に」
「うん」
「変?」
「全然」
ノアが少しだけ笑った。
「むしろ嬉しい」
「私は嬉しくない」
「ごめん」
「ノアが悪いわけじゃない」
「うん」
「でも嫌」
「うん」
「私の初めてなのに、ノアは初めてじゃない」
言ってから。
少し恥ずかしくなった。
「……面倒?」
「まさか」
ノアの声が優しくなる。
「じゃあ、一個だけ言っていい?」
「何?」
「僕にとっても今日が初めてだよ」
「でもしたことあるんでしょ?」
「ある」
「じゃあ違う」
「今の僕が、今の君にするキスは初めて」
「……」
「過去の続きにしたくない」
ノアがリリアの手を取る。
「昔の僕が誰を好きだったかも、何をしたかも消えない。でも、君とすることを全部その続きにはしたくないんだ」
「ノア」
「君と初めて手を繋いだ日も、初めてデートした日も、初めて恋人になった日も、僕はちゃんと覚えておきたい」
青い瞳。
まっすぐ。
「だから」
ノアが少し笑う。
「今日のキスも、僕にとって初めてにしていい?」
胸が。
さっきより大きく鳴った。
「……うん」
*
でも。
その場ではしなかった。
「なんで?」
植物園を出て十分後。
リリアは不満だった。
「人いたから」
「少なかったよ」
「いたよ」
「気にする?」
「初めてくらい二人がいい」
「どこでするの?」
「それを聞く?」
「だって今日するって言った」
「リリア、意外とキスに積極的だね」
「したことないから気になる」
「その理由、ちょっと複雑」
「ノアはしたくない?」
「死ぬほどしたい」
「死なないで」
「比喩だよ」
「ならいい」
ノアが笑う。
「帰りにいい場所あるから」
「本当?」
「うん」
「予約?」
「キスの予約って言わないで」
「でも予約した」
「……したね」
*
昼食は小さなカフェに入った。
向かい合わせの席。
リリアはクリームの乗ったパンケーキを食べていた。
「美味しい」
「よかった」
「ノア食べる?」
「もらう」
リリアは一口分切る。
前回はノアの皿へ置いた。
今日は。
フォークをそのまま差し出す。
「はい」
「……」
「何?」
「それ僕に食べろって?」
「うん」
「リリアが使ったフォーク?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
ノアが食べる。
「美味しい?」
「味分かんない」
「なんで?」
「緊張して」
「大げさ」
「君、本当にこういうの気にしないね」
「恋人だからいいかなって」
「恋人って言えば何でも許されると思ってない?」
「駄目?」
「……僕には効く」
リリアが笑う。
「ノアも」
「え?」
「食べさせて」
「……」
「私だけ?」
「やる」
ノアが自分のケーキを切る。
フォークを差し出す。
リリアは普通に食べた。
「美味しい」
「……可愛い」
「何が?」
「もういい」
「ノアも食べる?」
「まだくれるの?」
「うん」
「じゃあ」
その後。
半分くらい。
二人で交換しながら食べた。
*
夕方。
ノアが連れてきたのは、学院へ戻る道から少し外れた小高い丘だった。
街が見える。
夕焼け。
人はいない。
「ここ?」
「うん」
「綺麗」
「前に見つけたんだ」
「誰と?」
「一人」
「よかった」
「嫉妬?」
「うん」
「素直になったね」
「ノアにだけ」
ノアが黙る。
「……またそういうこと言う」
「好き?」
「好き」
「じゃあいい」
並んで座る。
肩が触れる。
リリアは少しだけ寄った。
ノアの肩へ頭を乗せる。
「リリア?」
「恋人っぽい」
「どこで覚えたの?」
「なんとなく」
「そのなんとなくで僕の心臓壊さないで」
「聞こえる」
「何が?」
「心臓」
「君のせい」
「私も速い」
「本当?」
「触る?」
ノアがむせた。
「何でそうなるの!?」
「聞こえないでしょ」
「触らない!」
「嫌?」
「嫌じゃなくて!」
リリアは笑う。
「ノア面白い」
「僕、君に遊ばれてる?」
「ちょっと」
「いつからそんな子になったの」
「彼氏できてから」
「僕のせいか」
「うん」
夕日が沈んでいく。
少しずつ。
空が赤から紫へ変わる。
静かだった。
「リリア」
「ん?」
「今日楽しかった?」
「うん」
「また来たい?」
「ノアとなら」
「……うん」
「次どこ行く?」
「もう次?」
「行かない?」
「行く。絶対行く」
「じゃあ考えて」
「任せて」
顔を上げる。
近い。
さっきまで。
あんなに喋っていたのに。
二人とも。
急に黙った。
分かる。
たぶん。
今。
「……ノア」
「うん」
「する?」
「その確認の仕方、色気ないなあ」
「じゃあどうするの?」
「聞かないで」
ノアが笑う。
でも。
少し緊張している。
「リリア」
「うん」
「キスしていい?」
「うん」
即答した。
「……早い」
「駄目?」
「嬉しい」
ノアの手が。
リリアの頬へ触れる。
温かい。
親指が。
ほんの少し頬を撫でた。
「目、閉じて」
「なんで?」
「普通閉じるから」
「見ちゃ駄目?」
「僕が恥ずかしい」
「じゃあ閉じる」
目を閉じる。
見えなくなると。
急に緊張した。
「……ノア」
「いるよ」
「うん」
頬に触れる手。
すぐ近くの気配。
そして。
唇に。
柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬。
離れる。
「……」
目を開ける。
ノアがいる。
顔が赤い。
「終わり?」
「……うん」
「短い」
「初めてだから!」
「もう一回」
「え?」
「したい」
「リリア」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあ」
今度は。
リリアから近づいた。
でも。
直前で。
「どうやるの?」
「そこで聞く?」
「分からない」
ノアが笑った。
近すぎる距離で。
「そのままでいいよ」
「こう?」
「うん」
もう一度。
唇が触れる。
今度は。
少し長い。
一秒。
二秒。
離れる。
リリアは。
自分の唇へ指を当てた。
「……変な感じ」
「嫌だった?」
「ううん」
ノアを見る。
「好き」
「……キスが?」
「ノアとするのが」
ノアが完全に黙った。
「ノア?」
「今日何回僕を殺す気?」
「死なない約束」
「そうだった」
「忘れないで」
「頑張る」
リリアは少し笑う。
「もう一回する?」
「……いいの?」
「うん」
「リリア」
「何?」
「僕からしていい?」
「いいよ」
三回目。
今度は。
ノアが少しだけ近く引き寄せた。
唇が重なる。
さっきより。
少しだけ長い。
でも。
優しい。
離れたあとも。
額が触れる距離。
「……好き」
ノアが言う。
「うん」
「リリアは?」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「好き」
リリアは笑う。
「何回聞くの?」
「足りない」
「じゃあ毎日言う」
「……毎日?」
「うん」
「約束?」
「約束」
ノアが笑った。
「僕も毎日言う」
「じゃあ忘れた方が負け」
「何の勝負?」
「知らない」
二人で笑う。
そのまま。
もう一度。
今度は。
どちらからともなく。
キスをした。
*
帰り道。
リリアはずっとノアの腕にくっついていた。
「歩きにくくない?」
「ちょっと」
「離れる?」
「嫌」
「じゃあこのままで」
「うん」
「リリア、付き合う前より甘えん坊になった?」
「ノアにだけ」
「……」
「また止まった」
「君が悪い」
「好き?」
「大好き」
初めて。
大好き。
と言われた。
リリアは少しだけ顔を上げる。
「私も」
「……大好き?」
「うん」
「本当に?」
「大好き」
ノアが笑う。
嬉しそうに。
幸せそうに。
それを見て。
リリアも笑った。
*
女子寮の前。
いつもの別れ際。
「また明日」
「うん」
「リリア」
「何?」
「今日の分」
「何が?」
「好き」
「……私も好き」
「大好き」
「私も大好き」
「じゃあ」
ノアが少しだけ身を屈める。
「おやすみのキスは?」
「する」
リリアは。
今度は迷わなかった。
唇を重ねる。
短く。
でも。
もう初めてではない。
「おやすみ」
「おやすみ」
離れる。
三歩。
リリアは振り返る。
「ノア」
「ん?」
「もう一回」
「……帰れなくなるよ?」
「一回だけ」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
ノアが戻ってくる。
もう一度。
キス。
「じゃあ本当におやすみ」
「うん」
五歩。
振り返る。
「……リリア」
「何?」
「もう一回って言う?」
「言おうと思った」
「やっぱり」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
ノアが笑う。
「明日の分に取っておこう」
「明日もする?」
「したい?」
「うん」
「僕も」
今度こそ。
別れる。
寮へ入る直前。
リリアは唇に触れた。
今日。
何度も。
ここにノアが触れた。
それを思い出すだけで。
胸が温かい。
「……恋人って」
思っていたより。
ずっと楽しい。
*
その夜。
ノアはベッドに仰向けになり、天井を見ていた。
眠れない。
嫌な夢が怖いからではない。
今日を。
忘れたくないから。
植物園。
繋いだ手。
カフェ。
夕焼け。
キス。
大好き。
全部。
今日の彼女と。
今日の自分のもの。
過去にはない。
新しい記憶。
「……幸せだな」
呟いて。
少しだけ怖くなる。
幸せになるほど。
失うことが怖くなる。
十二の世界で。
嫌というほど知った。
でも。
今日のリリアなら。
きっと怒る。
失うのが怖いから幸せにならないなんて言ったら。
『じゃあ一緒に生きる方を探して』
そう言うだろう。
「……うん」
ノアは目を閉じた。
明日も。
会える。
明日も。
好きだと言える。
明日も。
彼女に触れられる。
そんな未来を。
今度こそ。
怖がらずに欲しがってみようと思った。
ノアルート 第40章 終
待ち合わせは、前と同じ学院の正門だった。
リリアが到着した時、ノアはすでにそこにいた。今日は淡い色のシャツに紺色の上着。青みを帯びた銀髪は休日の柔らかな日差しを受けて、制服姿の時より少し明るく見える。
前回も見た服装だった。
それなのに、今日は違って見えた。
彼氏だから。
その言葉を頭の中で使っただけで、自然と頬が緩む。
「ノア」
呼ぶ。
振り返る。
「おはよ――」
ノアの声が途中で止まった。
「おはよう」
「……おはよう」
「どうしたの?」
「いや」
ノアはリリアを上から下まで見て、それから目を逸らした。
「今日も可愛いなと思って」
「ありがとう」
「前より素直に受け取るね」
「彼氏に言われると嬉しいから」
「……朝一番からそれ?」
「何が?」
「彼氏」
「違うの?」
「違わない。むしろもっと言って」
「ノアは彼氏」
「うん」
「私の彼氏」
「……」
ノアが口元を押さえる。
「何?」
「ちょっと待って」
「また待つの?」
「君、付き合ってから強すぎない?」
「何が?」
「全部」
リリアはよく分からなかった。
ただ、好きだと分かった以上、好きな人には好きなように接していいのだと思っている。
「行こ」
「うん」
ノアが歩き出そうとする。
リリアはその手を掴んだ。
「……」
「何?」
「いや」
ノアが繋がれた手を見る。
「今日は最初からなんだなって」
「恋人だから」
「その理屈、最高だね」
「ノアも繋ぎたい?」
「もちろん」
指が絡む。
前より深く。
恋人繋ぎ。
リリアは少し驚いて、二人の手を見る。
「これ初めて」
「嫌?」
「ううん」
指と指の間まで触れている。
普通に手を握るより近い。
「好き」
「……手の繋ぎ方が?」
「うん」
「そっちかあ」
「ノアも好き」
「はい、今日もう帰ってもいいくらい幸せ」
「まだ出発してない」
「知ってる」
リリアは笑って、繋いだ手を少し揺らした。
*
今日の目的地は、学院から少し離れた植物園だった。
魔力を含む珍しい植物が育てられている場所で、温室の中には季節に関係なく花が咲いているらしい。
「ノアが決めたの?」
「うん。デートっぽいかなと思って」
「デートっぽいって何?」
「綺麗な場所に行くとか」
「前はお菓子食べた」
「あれもデート」
「ノート買った」
「あれも」
「何してもデート?」
「恋人同士ならね」
リリアは少し考える。
「じゃあ図書館でも?」
「デート」
「食堂」
「二人ならデートにできる」
「授業」
「それは授業」
「駄目なんだ」
「さすがにね」
そんな話をしているうちに植物園へ着いた。
大きなガラス張りの温室へ入ると、暖かな空気と甘い花の香りに包まれる。
「すごい」
リリアはすぐにノアの手を引いた。
「見て」
「見てる」
「青い花」
「珍しいね」
「ノアみたい」
「僕?」
「髪」
「銀なんだけど」
「青入ってる」
「じゃあリリアはあっち」
ノアが指差す。
白い花。
花弁の中心だけが淡い紫色だった。
「髪と目?」
「うん」
「じゃあ隣に植える?」
「僕らを?」
「花を」
「分かってるよ」
「一緒に咲いてたら可愛い」
ノアが少し黙る。
「……リリア」
「何?」
「そういうの無意識?」
「何が?」
「いや、いい」
手を引かれる。
「こっちも見よう」
「うん」
*
温室の奥には、小さな池があった。
水面には白い花が浮かび、天井から差し込む光が揺れている。
「綺麗」
「うん」
リリアは池を見ていた。
ノアは。
リリアを見ていた。
「ノア」
「何?」
「見てない」
「見てるよ」
「池」
「ああ」
「私見てたでしょ」
「ばれた?」
「分かる」
「綺麗だったから」
「池が?」
「リリアが」
「……」
胸が鳴る。
まだ。
こういう言葉には慣れない。
「ノア」
「ん?」
「好き」
「急だね」
「言いたくなった」
「……もう一回」
「好き」
「もう一回」
「昨日もそれやった」
「何回でも聞きたい」
「じゃあノアも言って」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「……いいね、これ」
「でしょ?」
二人で笑う。
馬鹿みたいだと思う。
でも。
楽しい。
「リリア」
「何?」
「こっち向いて」
「なんで?」
「いいから」
振り向く。
ノアが手を伸ばす。
髪に触れた。
「花びら」
銀白色の髪から、小さな白い花びらを取る。
「ついてた?」
「うん」
「ありがとう」
ノアの手が離れる。
その瞬間。
リリアは少し物足りないと思った。
「……ノア」
「ん?」
「もう一回」
「花びらないよ?」
「違う」
リリアは自分の髪を指す。
「触って」
ノアが固まる。
「……髪?」
「うん」
「なんで?」
「さっき触られたの好きだった」
「リリア」
「何?」
「僕、そんなに安全じゃないよ」
「危ないの?」
「君に対してはね」
「襲う?」
「その言い方やめようか」
「じゃあ何?」
「……キスしたくなる」
言われて。
リリアは思い出す。
前回の約束。
「今日するって言ってた」
「覚えてたんだ」
「うん」
「……僕だけ意識してたらどうしようかと思ってた」
「私もしてたよ」
「本当に?」
「朝から」
「朝から!?」
「今日かなって」
ノアが額を押さえた。
「言わないでよ……」
「なんで?」
「緊張するから」
「ノアも?」
「するよ」
「私は初めて」
「僕も、君とは初めて」
その言葉に。
少し引っかかった。
「……君とは?」
「あ」
「ノア、キスしたことあるの?」
ノアが止まる。
「今の人生ではないよ」
意味を理解する。
過去の世界。
「昔のリリア?」
「……うん」
胸の奥が。
ちくりとした。
「何回?」
「え」
「キス」
「リリア」
「いっぱい?」
「……」
「いっぱいなんだ」
「世界によるというか」
「世界による」
「その復唱怖いな」
「何回付き合ったの?」
「それは……」
「ノア」
「はい」
「私、嫉妬してる」
「……うん」
「昔の私じゃない人に」
「うん」
「変?」
「全然」
ノアが少しだけ笑った。
「むしろ嬉しい」
「私は嬉しくない」
「ごめん」
「ノアが悪いわけじゃない」
「うん」
「でも嫌」
「うん」
「私の初めてなのに、ノアは初めてじゃない」
言ってから。
少し恥ずかしくなった。
「……面倒?」
「まさか」
ノアの声が優しくなる。
「じゃあ、一個だけ言っていい?」
「何?」
「僕にとっても今日が初めてだよ」
「でもしたことあるんでしょ?」
「ある」
「じゃあ違う」
「今の僕が、今の君にするキスは初めて」
「……」
「過去の続きにしたくない」
ノアがリリアの手を取る。
「昔の僕が誰を好きだったかも、何をしたかも消えない。でも、君とすることを全部その続きにはしたくないんだ」
「ノア」
「君と初めて手を繋いだ日も、初めてデートした日も、初めて恋人になった日も、僕はちゃんと覚えておきたい」
青い瞳。
まっすぐ。
「だから」
ノアが少し笑う。
「今日のキスも、僕にとって初めてにしていい?」
胸が。
さっきより大きく鳴った。
「……うん」
*
でも。
その場ではしなかった。
「なんで?」
植物園を出て十分後。
リリアは不満だった。
「人いたから」
「少なかったよ」
「いたよ」
「気にする?」
「初めてくらい二人がいい」
「どこでするの?」
「それを聞く?」
「だって今日するって言った」
「リリア、意外とキスに積極的だね」
「したことないから気になる」
「その理由、ちょっと複雑」
「ノアはしたくない?」
「死ぬほどしたい」
「死なないで」
「比喩だよ」
「ならいい」
ノアが笑う。
「帰りにいい場所あるから」
「本当?」
「うん」
「予約?」
「キスの予約って言わないで」
「でも予約した」
「……したね」
*
昼食は小さなカフェに入った。
向かい合わせの席。
リリアはクリームの乗ったパンケーキを食べていた。
「美味しい」
「よかった」
「ノア食べる?」
「もらう」
リリアは一口分切る。
前回はノアの皿へ置いた。
今日は。
フォークをそのまま差し出す。
「はい」
「……」
「何?」
「それ僕に食べろって?」
「うん」
「リリアが使ったフォーク?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
ノアが食べる。
「美味しい?」
「味分かんない」
「なんで?」
「緊張して」
「大げさ」
「君、本当にこういうの気にしないね」
「恋人だからいいかなって」
「恋人って言えば何でも許されると思ってない?」
「駄目?」
「……僕には効く」
リリアが笑う。
「ノアも」
「え?」
「食べさせて」
「……」
「私だけ?」
「やる」
ノアが自分のケーキを切る。
フォークを差し出す。
リリアは普通に食べた。
「美味しい」
「……可愛い」
「何が?」
「もういい」
「ノアも食べる?」
「まだくれるの?」
「うん」
「じゃあ」
その後。
半分くらい。
二人で交換しながら食べた。
*
夕方。
ノアが連れてきたのは、学院へ戻る道から少し外れた小高い丘だった。
街が見える。
夕焼け。
人はいない。
「ここ?」
「うん」
「綺麗」
「前に見つけたんだ」
「誰と?」
「一人」
「よかった」
「嫉妬?」
「うん」
「素直になったね」
「ノアにだけ」
ノアが黙る。
「……またそういうこと言う」
「好き?」
「好き」
「じゃあいい」
並んで座る。
肩が触れる。
リリアは少しだけ寄った。
ノアの肩へ頭を乗せる。
「リリア?」
「恋人っぽい」
「どこで覚えたの?」
「なんとなく」
「そのなんとなくで僕の心臓壊さないで」
「聞こえる」
「何が?」
「心臓」
「君のせい」
「私も速い」
「本当?」
「触る?」
ノアがむせた。
「何でそうなるの!?」
「聞こえないでしょ」
「触らない!」
「嫌?」
「嫌じゃなくて!」
リリアは笑う。
「ノア面白い」
「僕、君に遊ばれてる?」
「ちょっと」
「いつからそんな子になったの」
「彼氏できてから」
「僕のせいか」
「うん」
夕日が沈んでいく。
少しずつ。
空が赤から紫へ変わる。
静かだった。
「リリア」
「ん?」
「今日楽しかった?」
「うん」
「また来たい?」
「ノアとなら」
「……うん」
「次どこ行く?」
「もう次?」
「行かない?」
「行く。絶対行く」
「じゃあ考えて」
「任せて」
顔を上げる。
近い。
さっきまで。
あんなに喋っていたのに。
二人とも。
急に黙った。
分かる。
たぶん。
今。
「……ノア」
「うん」
「する?」
「その確認の仕方、色気ないなあ」
「じゃあどうするの?」
「聞かないで」
ノアが笑う。
でも。
少し緊張している。
「リリア」
「うん」
「キスしていい?」
「うん」
即答した。
「……早い」
「駄目?」
「嬉しい」
ノアの手が。
リリアの頬へ触れる。
温かい。
親指が。
ほんの少し頬を撫でた。
「目、閉じて」
「なんで?」
「普通閉じるから」
「見ちゃ駄目?」
「僕が恥ずかしい」
「じゃあ閉じる」
目を閉じる。
見えなくなると。
急に緊張した。
「……ノア」
「いるよ」
「うん」
頬に触れる手。
すぐ近くの気配。
そして。
唇に。
柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬。
離れる。
「……」
目を開ける。
ノアがいる。
顔が赤い。
「終わり?」
「……うん」
「短い」
「初めてだから!」
「もう一回」
「え?」
「したい」
「リリア」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあ」
今度は。
リリアから近づいた。
でも。
直前で。
「どうやるの?」
「そこで聞く?」
「分からない」
ノアが笑った。
近すぎる距離で。
「そのままでいいよ」
「こう?」
「うん」
もう一度。
唇が触れる。
今度は。
少し長い。
一秒。
二秒。
離れる。
リリアは。
自分の唇へ指を当てた。
「……変な感じ」
「嫌だった?」
「ううん」
ノアを見る。
「好き」
「……キスが?」
「ノアとするのが」
ノアが完全に黙った。
「ノア?」
「今日何回僕を殺す気?」
「死なない約束」
「そうだった」
「忘れないで」
「頑張る」
リリアは少し笑う。
「もう一回する?」
「……いいの?」
「うん」
「リリア」
「何?」
「僕からしていい?」
「いいよ」
三回目。
今度は。
ノアが少しだけ近く引き寄せた。
唇が重なる。
さっきより。
少しだけ長い。
でも。
優しい。
離れたあとも。
額が触れる距離。
「……好き」
ノアが言う。
「うん」
「リリアは?」
「好き」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「好き」
リリアは笑う。
「何回聞くの?」
「足りない」
「じゃあ毎日言う」
「……毎日?」
「うん」
「約束?」
「約束」
ノアが笑った。
「僕も毎日言う」
「じゃあ忘れた方が負け」
「何の勝負?」
「知らない」
二人で笑う。
そのまま。
もう一度。
今度は。
どちらからともなく。
キスをした。
*
帰り道。
リリアはずっとノアの腕にくっついていた。
「歩きにくくない?」
「ちょっと」
「離れる?」
「嫌」
「じゃあこのままで」
「うん」
「リリア、付き合う前より甘えん坊になった?」
「ノアにだけ」
「……」
「また止まった」
「君が悪い」
「好き?」
「大好き」
初めて。
大好き。
と言われた。
リリアは少しだけ顔を上げる。
「私も」
「……大好き?」
「うん」
「本当に?」
「大好き」
ノアが笑う。
嬉しそうに。
幸せそうに。
それを見て。
リリアも笑った。
*
女子寮の前。
いつもの別れ際。
「また明日」
「うん」
「リリア」
「何?」
「今日の分」
「何が?」
「好き」
「……私も好き」
「大好き」
「私も大好き」
「じゃあ」
ノアが少しだけ身を屈める。
「おやすみのキスは?」
「する」
リリアは。
今度は迷わなかった。
唇を重ねる。
短く。
でも。
もう初めてではない。
「おやすみ」
「おやすみ」
離れる。
三歩。
リリアは振り返る。
「ノア」
「ん?」
「もう一回」
「……帰れなくなるよ?」
「一回だけ」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
ノアが戻ってくる。
もう一度。
キス。
「じゃあ本当におやすみ」
「うん」
五歩。
振り返る。
「……リリア」
「何?」
「もう一回って言う?」
「言おうと思った」
「やっぱり」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
ノアが笑う。
「明日の分に取っておこう」
「明日もする?」
「したい?」
「うん」
「僕も」
今度こそ。
別れる。
寮へ入る直前。
リリアは唇に触れた。
今日。
何度も。
ここにノアが触れた。
それを思い出すだけで。
胸が温かい。
「……恋人って」
思っていたより。
ずっと楽しい。
*
その夜。
ノアはベッドに仰向けになり、天井を見ていた。
眠れない。
嫌な夢が怖いからではない。
今日を。
忘れたくないから。
植物園。
繋いだ手。
カフェ。
夕焼け。
キス。
大好き。
全部。
今日の彼女と。
今日の自分のもの。
過去にはない。
新しい記憶。
「……幸せだな」
呟いて。
少しだけ怖くなる。
幸せになるほど。
失うことが怖くなる。
十二の世界で。
嫌というほど知った。
でも。
今日のリリアなら。
きっと怒る。
失うのが怖いから幸せにならないなんて言ったら。
『じゃあ一緒に生きる方を探して』
そう言うだろう。
「……うん」
ノアは目を閉じた。
明日も。
会える。
明日も。
好きだと言える。
明日も。
彼女に触れられる。
そんな未来を。
今度こそ。
怖がらずに欲しがってみようと思った。
ノアルート 第40章 終

