魔法より、君に恋をする。



 翌朝、リリアはいつもより少し早く教室へ向かった。

 昨夜、ベッドの中で何度も考えた。ノアに会いたい。手を繋ぎたい。笑っていてほしい。他の女の子と親しそうにしていると少し嫌で、卒業したあとも隣にいる未来を想像しても嫌ではない。むしろ、その未来が少し楽しみだった。

 それを恋と呼ぶのなら。

 たぶん、自分はもうノアが好きだ。

 そう思ったところで、教室の扉を開ける。

 まだ生徒は少なかった。

 窓際。

 いつもの席。

 ノアはまだ来ていない。

「……早すぎた」

 自分の席へ鞄を置く。教科書を出してみる。開いてみる。三行読んで、何も頭に入っていないことに気づいた。

 廊下で足音がするたび、顔を上げる。

 違う。

 また違う。

「……遅い」

 時計を見る。

 別に遅くない。むしろ普段より十分以上早い。

 それでも落ち着かない。

 五分ほど経った頃。

「おはよ――」

 聞き慣れた声。

 顔を上げる。

 青みを帯びた銀髪。青い瞳。白銀のネクタイ。昨日と同じ、何度も見てきたノアだった。

 なのに。

 見つけた瞬間。

 嬉しかった。

「あ」

 声が出た。

 ノアがこちらを見る。

「リリア?」

 笑う。

「おはよう」

 胸が鳴る。

 昨日より。

 はっきりと。

「……おはよう」

「今日早いね」

「ノア待ってた」

「え?」

 ノアの足が止まった。

「どうしたの?」

「いや、今……」

「ノア待ってたって言った」

「聞こえてた。聞こえてたけど、もう一回聞きたかった」

「変なの」

「朝からすごいなと思って」

 ノアがこちらへ来る。

 近づくほど。

 嬉しい。

 ああ。

 やっぱり。

 リリアは自分の胸へ手を当てた。

「ノア」

「ん?」

「分かった」

「何が?」

「昨日の続き」

 ノアが目を瞬く。

「……秘密って言ってたやつ?」

「うん」

「もう分かったの?」

「今」

「今?」

「ノア見たら分かった」

 青い瞳が少しずつ大きくなる。

「何が?」

 聞かれた。

 リリアは答えようとして。

 止まる。

「……まだ言わない」

「ええ?」

「放課後」

「なんで!?」

「今言ったら授業できない気がする」

「僕はもう気になって授業できないよ!」

「頑張って」

「理不尽!」

 ノアが頭を抱える。

 それがおかしくて、リリアは笑った。

 そして、その顔を見ながら改めて思う。

 好きだ。

 今度は。

 迷わなかった。

     *

「今日のリリア、機嫌いいね」

 昼休み、セシルに言われた。

「分かる?」

「分かるよ」

「なんで?」

「ずっとノア見てるから」

「え」

 リリアは自分の視線の先を見る。

 ノア。

 アレンと言い合いながらパンを食べている。

「……本当だ」

「無意識だったんだ」

「うん」

 セシルが少し笑う。

「分かった?」

「何が?」

「前に言ってたこと」

 ――ノアの隣は、落ち着くのに落ち着かない。

「あ」

 リリアは頷く。

「分かった」

「そっか」

「恋だった」

 セシルが一瞬だけ黙った。

「……そっか」

「うん」

「ノアには?」

「まだ」

「言うの?」

「今日」

 セシルは少しだけ目を伏せ、それからいつもの柔らかな笑顔を見せた。

「頑張って」

「告白って頑張るもの?」

「リリアなら普通に言いそうだね」

「好きって言えばいいんでしょ?」

「そうなんだけど」

「じゃあ言える」

「……本当に強いなあ」

「セシルも好きな人に言えばいいのに」

 セシルが止まった。

「……そうだね」

「応援する」

「ありがとう」

 その声が少しだけ寂しく聞こえた気がしたけれど、アレンの声が飛んできた。

「おいノア! それ俺の肉!」

「名前書いてませんでしたよ」

「俺の皿にあっただろ!」

「共有かと思って」

「思うか!」

「ノア」

 リリアが呼ぶ。

「ん?」

「私のあげる」

「え、いいの?」

「うん」

「待て!」

 アレンが叫ぶ。

「何?」

「なんでそいつだけ補充されんだよ!」

「ノアが食べたいから」

「俺も食いてえ!」

「自分のあったじゃん」

「そいつに取られたんだよ!」

「じゃあノア、返して」

「リリア、僕の味方じゃなかったの?」

「アレン先輩可哀想」

「そこは僕を選んでよ」

 その言葉に。

 リリアは少しだけ笑った。

「今日は選ぶよ」

「……え?」

「放課後」

 ノアが固まった。

「何の話だ?」

 アレンが眉を寄せる。

「秘密」

「絶対なんかあるだろ!」

 ノアは。

 それから昼休みが終わるまで。

 明らかに落ち着かなかった。

     *

 放課後。

「リリア」

「うん」

「どこ行く?」

「中庭」

「分かった」

 ノアの返事が妙に素直だった。

 二人で歩く。

 いつもなら何か話すのに、今日はノアが静かだ。

「緊張してる?」

「してる」

「ノアでも?」

「君、僕を何だと思ってるの?」

「余裕ある人」

「君の前ではほとんどないよ」

「そうなの?」

「最近特にね」

 中庭。

 授業が終わったばかりだから、人は少ない。

 春の花が咲いている。

 二人で木の下まで歩く。

 リリアは振り返った。

「ノア」

「うん」

 緊張している。

 自分も。

 胸が速い。

 でも。

 嫌ではない。

「手、出して」

「手?」

「うん」

 ノアが右手を出す。

 リリアはそれを握った。

「……まず手?」

「落ち着くから」

「僕は逆に緊張するんだけど」

「我慢して」

「はい」

 温かい。

 これが好き。

「昨日、ノアに好きってどんな感じか聞いたでしょ?」

「うん」

「会いたいとか、触りたいとか、笑っててほしいとか」

「うん」

「明日も一緒にいたいとか」

「……うん」

「考えた」

 ノアの手が少しだけ強くなる。

「私、ノアに会いたい」

「うん」

「手繋ぎたい」

「うん」

「笑ってると嬉しい」

「……うん」

「他の女の子といると、ちょっと嫌」

「それは嬉しい」

「あと」

 一度。

 息を吸う。

「明日も会いたい」

 ノアが何も言わない。

「明後日も」

 青い瞳を見る。

「来週も」

 もう。

 怖くない。

「卒業したあとも、ノアが隣にいたらいいなって思った」

「リリア」

「だから」

 言う。

「私、ノアが好き」

 風が吹いた。

 銀白色の髪が揺れる。

 ノアは。

 何も言わなかった。

「……ノア?」

「待って」

「また?」

「ちょっと本当に待って」

「なんで?」

「想像してなかった」

「昨日から結構分かりやすかったと思う」

「そうだけど!」

 ノアが繋いでいない方の手で顔を覆う。

「そんなすぐ言ってくれると思わないじゃん……」

「なんで?」

「もっと待つと思ってた」

「待つの得意って言ってたもんね」

「得意になっただけ」

 その声に。

 ほんの少し。

 昔の時間が滲んだ。

「ノア」

「うん」

「今は待たなくていいよ」

 手を引く。

 ノアが顔を上げる。

「私も好きだから」

 青い瞳が揺れた。

 そして。

 笑った。

 今まで何度も見てきた笑顔なのに。

 今までで一番。

 綺麗だと思った。

「……もう一回言って」

「好き」

「もう一回」

「好き」

「もう一回」

「多い」

「十二回くらい聞きたい」

「なんで十二回?」

「……何でもない」

 ノアが笑う。

 リリアは首を傾げたけれど。

「じゃあ三回まで」

「もう二回使った」

「あと一回」

「大事に取っておこうかな」

「好き」

「あ!」

「使い切った」

「ずるい!」

「ノアが欲しそうだったから」

「欲しいよ。何回でも」

「じゃあこれから言えばいいじゃん」

「これから?」

「うん」

「……これからも?」

「付き合ったら言うでしょ?」

 ノアが固まった。

「……付き合う?」

「違うの?」

「いや、違わない! 全然違わない!」

「じゃあ付き合う?」

「待って、なんで告白された僕よりリリアの方が進行してるの?」

「時間かかる?」

「かからない」

「じゃあ」

 ノアが。

 急に真面目な顔になった。

「リリア」

「うん」

 繋いでいた手を。

 両手で包まれる。

「僕と付き合ってください」

「うん」

「……本当に?」

「うん」

「今のリリアが?」

「他に誰がいるの?」

 ノアが息を呑む。

「今の私が、今のノアを好きになった」

 その瞬間。

 ノアの顔が歪んだ。

「……泣く?」

「泣かない」

「目、濡れてる」

「泣かない」

「泣いてもいいよ」

「格好悪い」

「別に」

「初めて付き合った日に泣く彼氏、嫌じゃない?」

 彼氏。

 その言葉が。

 胸の中で跳ねる。

「ノア、彼氏?」

「……そうなるね」

「私、彼女?」

「そうなるね」

「変な感じ」

「嫌?」

「ううん」

 リリアは笑った。

「嬉しい」

 ノアは結局。

 少し泣いた。

     *

「ねえ」

「何?」

「恋人って何するの?」

 付き合い始めて十分。

 中庭のベンチに並んで座ったリリアが聞いた。

「……それ僕に聞く?」

「彼氏だから」

「その言葉、まだ心臓に悪い」

「彼氏」

「やめて」

「ノア彼氏」

「リリア」

「何?」

「楽しんでるでしょ」

「ちょっと」

 ノアが笑う。

「手繋いだり」

「もうしてる」

「デートしたり」

「した」

「もっとする」

「うん」

「抱きしめたり」

「……」

 リリアが止まる。

「嫌ならしないよ」

「したことない」

「うん」

「ノアとは?」

「ないね」

「してみたい」

 ノアが固まった。

「……今?」

「駄目?」

「駄目じゃないけど」

「じゃあする」

「待って待って」

「なんで?」

「僕にも心の準備がある」

「さっきから待ってばっかり」

「今日の君が速すぎるんだよ!」

 リリアは笑う。

「じゃあ準備して」

「……した」

「早い」

「しない方がいい?」

「する」

 ノアが立つ。

 リリアも立つ。

 向かい合う。

「どうするの?」

「おいで」

 言われる。

 リリアは一歩近づいた。

 ノアの腕が。

 ゆっくり。

 背中へ回る。

 抱きしめられる。

「……」

 近い。

 想像していたより。

 ずっと。

 耳を澄まさなくても。

 ノアの心臓が聞こえる。

「速い」

「誰のせいだと思ってるの?」

「私?」

「君」

 リリアも。

 ノアの背中へ腕を回してみる。

 ぎゅっと。

 抱きしめる。

「……リリア」

「何?」

「それ反則」

「抱きしめるんでしょ?」

「そうだけど」

「嫌?」

「もっとして」

「いいの?」

「うん」

 だから。

 もう少し強く抱きしめる。

「ノア」

「ん?」

「これ好き」

「……僕も」

「手より好きかも」

「それは嬉しい」

「温かい」

「うん」

「生きてる」

 その言葉に。

 ノアの腕が少し強くなる。

「生きてるよ」

「よかった」

「うん」

 昨日。

 血を見た時。

 怖かった。

 今。

 腕の中にいる。

 温かい。

「ノア」

「何?」

「私より先に死ばないでね」

「死なない努力をする」

「一緒に生きる方」

「探す」

「うん」

「約束したからね」

「忘れないで」

「忘れない」

 しばらく。

 離れなかった。

     *

 女子寮へ帰る頃には、もう夕方だった。

 いつもの場所。

 いつもの別れ道。

 でも今日は。

 恋人。

「じゃあまた明日」

 ノアが言う。

「うん」

 手を離す。

 ……。

 リリアは動かない。

「リリア?」

「もう一回」

「何を?」

「ぎゅってする」

 ノアが笑った。

「おいで」

 今度は。

 リリアから近づく。

 抱きしめられる。

「……毎日する?」

「したい?」

「うん」

「じゃあ毎日」

「朝も?」

「人いなかったら」

「昼」

「みんなの前?」

「駄目?」

「僕はいいけど、アレン先輩が死ぬと思う」

「じゃあやめとく」

「アレン先輩のために?」

「うん」

「優しいね」

 笑いながら。

 離れる。

 でも。

 近い。

 顔を上げる。

 ノアの顔。

 青い瞳。

 視線が。

 一瞬だけ。

 リリアの唇へ落ちた。

 気づいた。

 胸が。

 跳ねる。

「……ノア」

「うん」

「今どこ見た?」

「言わない」

「唇?」

「言わない」

「キスしたい?」

「リリア」

「何?」

「そういうの、本人に聞かないで」

「なんで?」

「したくなるから」

「今は?」

「……したいよ」

 正直だった。

 リリアの胸が。

 また鳴る。

「する?」

 ノアの目が大きくなる。

 でも。

 少しして。

 ノアは首を横に振った。

「今日はしない」

「なんで?」

「初めてだから」

「うん」

「僕が勢いで貰いたくない」

「私がいいって言っても?」

「うん」

「変なの」

「次のデートで」

「予約?」

「嫌?」

「……嫌じゃない」

 ノアが笑う。

「じゃあ約束」

「うん」

 リリアは少し考えて。

「でも」

「何?」

 背伸びする。

 ノアの頬へ。

 唇を触れさせた。

 ほんの一瞬。

 離れる。

「……」

 ノアが固まった。

「これは?」

「……リリア」

「キスじゃない?」

「キスだよ!」

「唇じゃない」

「そういう問題じゃない!」

「嫌だった?」

「そんなわけないでしょ!」

「よかった」

「ちょっと待って、本当に……」

 ノアが頬を押さえる。

 真っ赤だった。

「可愛い」

「誰のせい!?」

「私」

「分かってるなら!」

 リリアは笑った。

「おやすみ、ノア」

「……おやすみ」

「また明日」

「うん」

 数歩進む。

 振り返る。

 ノアはまだ頬を押さえていた。

「ノア」

「何!?」

「好き」

「……!」

「今日三回使ったから、これは明日の分」

「そういう制度なの!?」

「またね」

「リリア!」

 笑いながら女子寮へ入る。

 胸が。

 ずっと。

 温かい。

 好きだと分かる前より。

 分かったあとの方が。

 ずっと楽しかった。

     *

 一人残されたノアは、しばらく動けなかった。

 頬に。

 まだ。

 柔らかな感触が残っている気がする。

「……好きって」

 言ってくれた。

 今の彼女が。

 自分を。

 何度も待った。

 何度も願った。

 けれど。

 今日のこれは。

 そのどれとも違う。

 過去の続きではない。

 新しい恋だった。

「……明日も会える」

 声にしてみる。

 明日。

 彼女は生きている。

 自分も生きている。

 会える。

 その当たり前が。

 今は何より嬉しい。

 ノアは頬を押さえたまま、小さく笑った。

「次のデート、どうしよう」

 考えることが。

 死に方ではなく。

 彼女と過ごす休日のことになっている。

 その変化に。

 ノア自身は。

 まだ気づいていなかった。