魔法より、君に恋をする。

翌日の昼休み、リリアはノアの左腕を見ていた。

 正確には、制服の袖に隠れている昨日の傷を見ている。

「リリア」

「何?」

「穴開きそう」

「袖に?」

「僕の腕に」

「もう開いてる」

「治りかけてるよ」

「見せて」

「ここで?」

「うん」

「脱げってこと?」

「袖まくるだけでしょ」

「分かってるけど、ちょっと言ってみた」

「じゃあいい」

「ごめんごめん、見せるから」

 ノアが笑いながら左袖を捲る。昨日巻かれていた包帯は細くなっていて、治癒魔法のおかげか傷はもう薄い赤色の線になっていた。

 リリアはそれをじっと見る。

「痛い?」

「ほとんど」

「本当?」

「本当」

「触っていい?」

「……傷を?」

「うん」

「いいけど」

 指先で傷の少し横へ触れる。

「痛い?」

「傷は痛くない」

「じゃあ何?」

「君が近い」

「それは痛くないでしょ」

「心臓に悪い」

「病気?」

「恋」

「……」

 リリアは無言で手を離した。

「あ、逃げた」

「治ってるならいい」

「今ちょっと照れたでしょ」

「照れてない」

「耳赤いよ」

「暑い」

「便利だね、その言い訳」

 向かいで食事をしていたアレンが、とうとう耐えられなくなったようにフォークを置いた。

「お前ら最近ずっとそれやってんな」

「それって?」

 リリアが聞く。

「それだよ!」

「分からない」

「距離!」

 アレンが二人を指差す。

「近え!」

 リリアは隣を見る。

 ノアがいる。

 確かに近い。

「前から近かったよ?」

「今は種類が違う!」

「種類?」

「説明させんな!」

「アレン先輩、最近よく怒りますね」

「誰のせいだと思ってんだ!」

 ノアは楽しそうだ。

 レオンハルトが苦笑しながら紅茶を飲み、カイルは露骨にこちらを見ないようにしている。ルシアンは本を開いているが、さっきから同じ頁のままだ。

 セシルだけが、少し笑っていた。

「リリア」

「何?」

「ノアの隣、落ち着く?」

 突然聞かれて、リリアは考える。

「うん」

「そっか」

「セシルの隣も落ち着くよ」

「ありがとう」

「でも違う」

 セシルの目が少しだけ細くなった。

「どう違う?」

「分からない」

「またそれ?」

 ノアが笑う。

「分からないものは分からない」

 リリアは少し考えてから、ノアの袖を摘んだ。

「でも、ノアの隣だと最近ちょっと変」

「……どう変?」

「落ち着くのに、落ち着かない」

「どっち?」

「両方」

 ノアが黙る。

 アレンが額を押さえた。

「もう告白しろよ」

「アレン」

 ルシアンが本から顔を上げる。

「それを決めるのは君じゃない」

「分かってるよ!」

「なら黙って食べなさい」

「なんでお前が保護者みたいになってんだよ」

「君よりは向いていると思う」

「喧嘩売ってんのか!」

 いつもの昼食。

 いつもの声。

 でもリリアは、摘んでいたノアの袖をしばらく離さなかった。

     *

 放課後。

「ノア、今日暇?」

 帰り支度をしていたノアの手が止まった。

「……暇」

「今の間何?」

「嬉しかった」

「まだ何も言ってない」

「君から僕の予定聞いてくれたから」

「そんなに?」

「そんなに」

「じゃあ暇?」

「世界が滅びそうでも暇にする」

「それは世界を優先して」

「はい」

 リリアは鞄を肩に掛けた。

「街行かない?」

「今日?」

「うん」

「二人で?」

「うん」

「デート?」

「……たぶん」

 ノアの口元が緩む。

「行く」

「即答」

「断る理由ないからね」

「私、買いたいものあるだけだよ」

「何?」

「ノート」

「色気ないなあ」

「あとお菓子」

「ちょっと出た」

「何が?」

「デート感」

「お菓子で?」

「君となら何でも」

「またそういうこと言う」

「嫌?」

「……嫌じゃない」

 ノアが一瞬黙る。

「最近、本当に強いね」

「何が?」

「こっちの話」

     *

 街へ着いて最初に入ったのは文具店だった。

 リリアは棚いっぱいに並んだノートを前に、真剣な顔で悩んでいる。

「白と青、どっちがいいと思う?」

「白」

「なんで?」

「リリアっぽい」

「髪?」

「それもあるけど、何でも書けそうだから」

「ノートは全部何でも書けるよ」

「そういう話じゃないんだけどな」

「じゃあ青」

「僕の意見どこ行ったの?」

「聞いただけ」

「採用するとは言ってないってやつ?」

「うん」

 結局、リリアは白いノートを買った。

「白じゃん」

「見てたらこっちがよくなった」

「僕の意見は?」

「関係ない」

「悲しい」

「でもノアが白って言ったから、もう一回見た」

「……それならいい」

 店を出たあと、次は焼き菓子の店へ入った。

 リリアは小さなクッキーの袋を二つ買う。

「二つ食べるの?」

「一個ノア」

「僕に?」

「昨日怪我したから」

「お見舞い?」

「うん」

「もう治ってるけど」

「じゃあいらない?」

「いる」

 即答だった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 店を出る。

 少し歩いたところで、ノアが袋を眺めながら笑った。

「何?」

「嬉しいなと思って」

「クッキーで?」

「リリアが僕のために選んでくれたから」

「同じ味だけど」

「それでも」

 そんなことで喜ぶのか。

 リリアは不思議に思う。

 でも。

 自分がしたことでノアが嬉しそうなのは、嫌いじゃない。

「次は違う味にする」

「次もくれるの?」

「あ」

「約束ね」

「勝手に約束にした」

「駄目?」

「……いいよ」

 またノアが笑う。

 その顔を見ると。

 リリアも少し嬉しくなる。

     *

 帰り道。

 夕方の街は人が多かった。

 露店が並ぶ通りへ入ると、買い物帰りの人々や学院の生徒たちで道が狭くなる。

 ノアが自然にリリアの少し前を歩いた。

 その背中を見る。

 昨日なら。

 たぶんそのまま歩いていた。

 今日は。

 リリアは手を伸ばした。

 ノアの手を掴む。

「……」

 ノアが振り返る。

「迷子防止」

 リリアが言う。

「どっちの?」

「私」

「認めた」

「今日は人多いから」

「はいはい」

 ノアが手を握り直す。

 前より自然だった。

 でも。

 胸はまだ鳴る。

「ノア」

「ん?」

「私、手繋ぐの好きかも」

「……誰とでも?」

「知らない」

「そこ重要なんだけど」

「セシルとはよく繋いでた」

「知ってる」

「でも今はちょっと違う」

「どう違う?」

「ノアと繋ぐと、手を意識する」

「手を?」

「温かいとか、大きいとか」

「うん」

「離したくないなとか」

 ノアの足が止まった。

 後ろから歩いてきた人にぶつかりそうになり、リリアが手を引く。

「止まったら危ない」

「誰のせいだと思ってるの?」

「ノア」

「君だよ」

「私?」

「離したくないとか急に言うから」

「思ったから」

「思ったこと全部言うのやめない?」

「嫌」

「どうして?」

「ノアが嬉しそうだから」

 今度こそ。

 ノアは完全に黙った。

「……ほら」

「何?」

「嬉しそう」

「顔見てないのに?」

「手」

「手?」

「強くなった」

 握る力が。

 少しだけ。

「……参ったな」

「何が?」

「本当に好きだなと思って」

「私を?」

「うん」

 前なら。

 好きだと言われるたび、どう返せばいいのか分からなかった。

 今は。

「そっか」

 それだけなのに。

 嬉しい。

     *

 帰り道の途中、小さな公園があった。

「ちょっと休む?」

「うん」

 二人でベンチに座る。

 手は。

 まだ繋いでいる。

「ノア」

「ん?」

「好きってどんな感じ?」

「難しい質問するね」

「ノアは分かるでしょ?」

「分かってるつもり」

「教えて」

 ノアは少し考える。

「会いたいとか」

「うん」

「触れたいとか」

「うん」

「笑っててほしいとか」

「うん」

「他の人に取られたくないとか」

「それも?」

「僕はね」

「他には?」

「明日も一緒にいたい」

 リリアはノアを見る。

「明日?」

「うん。今日だけじゃ足りない」

「明後日は?」

「いたい」

「来週」

「いたい」

「来年」

「いたい」

「卒業したら?」

「いたい」

「ずっと?」

 ノアは。

 そこで少しだけ黙った。

「……ずっと」

 声が柔らかかった。

「それが好き?」

「僕にとってはね」

 リリアは考える。

 会いたい。

 昨日も思った。

 触れたい。

 今、自分から手を繋いだ。

 笑っていてほしい。

 それも思う。

 他の女の子といると少し嫌。

 明日も。

「……明日」

「うん?」

「私もノアに会いたい」

 ノアの瞳が揺れる。

「明後日もたぶん」

「うん」

「来週も」

「……うん」

「卒業したあとは分からない」

「そこは正直だね」

「まだ一年生だし」

「そうだね」

「でも」

 リリアは繋いだ手を見る。

「分からないけど、嫌じゃない」

「何が?」

「卒業したあともノアがいるの」

 ノアは何も言わなかった。

「ノア?」

「ちょっと待って」

「また?」

「今日は多い」

「何が?」

「嬉しいこと」

 ノアは俯いて笑う。

「処理が追いつかない」

「変なの」

「君のせいだよ」

 リリアは少し笑った。

 そして。

 思った。

 好きになるというのは。

 突然何かが変わることだと思っていた。

 胸が大きく鳴って。

 世界が変わって。

 その瞬間に分かるものだと。

 でも。

 違うのかもしれない。

 昨日より今日。

 今日より明日。

 会いたいと思う回数が増えて。

 触れたいと思う距離が近くなって。

 その人が笑うと自分も嬉しくなって。

 少しずつ。

 気づいた時には。

 戻れないところまで歩いている。

「ノア」

「何?」

「私、たぶん」

 言いかける。

 でも。

 まだ。

 言葉にするには少しだけ怖かった。

「……やっぱりいい」

「ええ?」

「まだ秘密」

「気になる」

「教えない」

「昨日まで何でも言ってたのに」

「これはまだ私も分からないから」

「そっか」

 ノアは追及しなかった。

「じゃあ分かったら教えて」

「うん」

「待ってる」

「待てる?」

「得意だよ」

 笑って言った。

 でも。

 その言葉だけ。

 なぜか。

 とても寂しく聞こえた。

     *

 女子寮の前。

「今日はありがとう」

 ノアが言う。

「私が誘ったのに?」

「だから」

「楽しかった?」

「すごく」

「私も」

 手を離す。

 今日は。

 いつも以上に名残惜しい。

「……ノア」

「ん?」

 リリアは一歩近づいた。

「腕」

「もう大丈夫だよ」

「違う」

「え?」

「ちょっと屈んで」

 ノアが怪訝そうな顔をしながら、少し身体を屈める。

 リリアは。

 その頭へ。

 手を置いた。

「……何してるの?」

「よしよし」

「なんで!?」

「昨日怪我したから」

「僕、子どもじゃないよ?」

「知ってる」

「じゃあ何で」

「したかった」

 青銀色の髪。

 思っていたより柔らかい。

 リリアは二度、三度と撫でる。

 ノアは完全に固まっていた。

「嫌?」

「……嫌じゃない」

「じゃあいい」

「でもこれ、かなり恥ずかしい」

「誰も見てない」

「そういう問題かな」

「ノア」

「ん?」

「髪柔らかい」

「今知った?」

「うん」

「もっと触る?」

「いいの?」

「リリアなら」

 だから。

 もう少し撫でた。

「……リリア」

「何?」

「そろそろ限界」

「何の?」

「理性」

「理性?」

 ノアが顔を上げる。

 近い。

 思った以上に。

 青い瞳が。

 すぐそこにある。

 リリアの手は。

 まだノアの髪に触れている。

 二人とも。

 動かなかった。

「……ノア?」

「うん」

「近い」

「君が近づいたんだよ」

「そうだった」

「離れる?」

 聞かれる。

 リリアは。

 すぐに答えられなかった。

 離れた方がいい。

 たぶん。

 でも。

 離れたいとは。

 思わない。

「……もうちょっと」

 ノアの目が見開かれる。

「このまま?」

「うん」

 数秒。

 ただ。

 近くにいる。

 それだけ。

 ノアは触れなかった。

 キスもしなかった。

 ただ、リリアが離れるまで待っていた。

 やがてリリアが一歩下がる。

「……おやすみ」

「おやすみ」

「また明日」

「うん」

 少し歩いて。

 リリアは振り返った。

 ノアはまだそこにいた。

「ノア」

「何?」

「明日も会いたい」

 今度は。

 ちゃんと言えた。

 ノアが笑う。

「僕も」

 部屋へ戻ってから。

 リリアはベッドに座り、自分の胸へ手を当てた。

 まだ速い。

 好き。

 その言葉を。

 頭の中で。

 ノアの名前の隣へ置いてみる。

 ノアが好き。

「……」

 嫌ではない。

 むしろ。

 しっくりきた。

 リリアは枕へ顔を埋めた。

「……これかも」

 誰にも聞かれない声で呟く。

 明日。

 顔を見たら。

 もっと分かる気がした。