翌朝、リリアが教室へ入ると、ノアはもう席についていた。
昨日と同じ窓際で頬杖をつき、開いた教科書をぼんやり眺めている。けれど頁はしばらく捲られていないらしく、いつもの彼より少しだけ反応が鈍かった。
「ノア、おはよう」
声をかけると、ノアは一瞬遅れて顔を上げた。
「……おはよう、リリア」
「眠い?」
「ちょっとね」
「夜更かし?」
「そんなところ」
笑っている。
いつもの笑顔に見えるのに、何かが違う。リリアはノアの机の前で立ち止まり、その顔をじっと見た。
「何?」
「顔色悪い」
「そう?」
「うん」
「リリアが心配してくれるなら、もう少し悪くてもよかったかも」
「保健室行く?」
「冗談だよ」
「じゃあ寝る?」
「一限始まるけど」
「私が起こす」
「魅力的だけど先生に怒られるなあ」
軽口はいつも通りだった。
けれど、やっぱり気になる。
リリアはしばらく考えてから、ノアの横へ手を差し出した。
「はい」
「……何?」
「手」
「それは見れば分かるけど」
「昨日、ノアが待ってるって言ったから」
ノアが目を見開く。
昨日、女子寮の前で交わした約束。今日は自分から来てほしいと言われた。
「繋がないの?」
「……繋ぐ」
ノアの手が重なる。
指が絡むほど深くはない。ただ手のひらを合わせて、軽く握るだけ。それでも昨日より自然にできた。
「どう?」
リリアが聞く。
「朝から幸せすぎて怖い」
「大げさ」
「本気だよ」
「じゃあ元気になった?」
「かなり」
「便利」
「リリアの手、薬扱い?」
「効いたんでしょ?」
「効いた」
ノアが笑う。
今度の笑顔は、少しだけ本物に近く見えた。
「でも、授業始まるから離すね」
「え」
「え?」
「もうちょっと」
「ノア」
「あと十秒」
「子ども?」
「今日だけ」
仕方なく待つ。
「十、九、八――」
「リリアが数えるの?」
「早く終わるから」
「ひどいなあ」
それでもノアは笑っていた。
十秒後、手を離す。
その瞬間に少し寂しいと思ったことは、言わなかった。
*
三限目の終わり、学院全体に緊急演習の鐘が鳴った。
教師の説明によれば、実戦祭で見つかった結界の不具合を受けて、全学年を対象にした避難訓練を行うらしい。生徒たちは指定された班に分かれ、校舎から訓練場まで移動する。
リリア、ノア、セシルは同じ一年生の班だった。
「本当に訓練?」
廊下を歩きながらリリアが聞く。
「たぶんね」
ノアが答える。
「その言い方、不安」
「実戦祭のあとだから警戒してるだけ」
「何かあったら?」
「僕が――」
そこでノアが言葉を止めた。
「何?」
「……みんなで対処しよう」
「うん」
少し不自然だった。
けれど、リリアは何も言わなかった。
前を歩いていたセシルが一度だけ振り返り、ノアを見た。
*
訓練は順調だった。
少なくとも、途中までは。
校舎を出て北側訓練場へ向かう途中、足元が揺れた。大きな地震ではない。けれど魔力を扱う人間ならすぐ分かる種類の振動だった。
「魔力?」
リリアが立ち止まる。
次の瞬間、地面に描かれていた避難誘導用の術式が青白く光った。
「下がって!」
セシルの声。
光が弾ける。
本来なら進行方向を示すだけの術式が暴走し、周囲へ魔力の刃を撒き散らした。
リリアは反射的に障壁を展開した。正面から飛んできた刃を受け止め、後ろにいた生徒たちを守る。
「全員離れて!」
教師の指示が飛ぶ。
セシルが近くの生徒を誘導する。
ノアはリリアの横にいた。
「リリア、右!」
「見えてる!」
二枚目の障壁。
防ぐ。
さらに左。
今度はノアが風魔法で軌道を逸らした。
「これ、訓練じゃないよね」
「たぶん違う!」
「だと思った!」
暴走した術式の中心を探す。
地面。
魔力線。
どこか一箇所を切れば止められる。
「あそこ」
リリアが見つけた。
少し先の石畳。その下に、異常な魔力が集中している。
「私が止める」
「待って」
「大丈夫」
「僕が行く」
「なんで?」
「僕の方が速いから」
「でも術式分からないでしょ」
「壊せばいい」
「雑」
「君に言われたくない」
普段なら笑うところだった。
でも。
ノアの顔は笑っていなかった。
「ノア?」
「ここにいて」
その声に、リリアは違和感を覚えた。
「一緒に行く」
「駄目」
「なんで?」
「危ないから」
「ノアも危ない」
「僕は平気」
「何で?」
「慣れてるから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「何に?」
ノアが答えない。
「危ないことに?」
「リリア、今は――」
「私よりノアが怪我する方がいいってこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ一緒に行く」
「駄目だ!」
強い声だった。
リリアは驚いて黙る。
ノア自身も、自分の声に驚いたようだった。
「……ごめん」
でも。
次の瞬間。
また魔力が弾けた。
大きい。
さっきまでとは比べものにならない。
「リリア!」
ノアに突き飛ばされた。
身体が地面へ倒れる。
直後。
魔力の刃が走った。
「ノア!」
血が飛んだ。
*
ほんの一瞬だった。
ノアの左腕。
制服が裂け、赤い線が走っている。
深くはない。
立っている。
意識もある。
それでも、リリアの頭から音が消えた。
「ノア」
「大丈夫。これくらい――」
「下がって」
「リリア?」
「下がって!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
リリアは立ち上がると、暴走した術式を見る。
怒っていた。
術式に。
状況に。
そして。
ノアに。
「そこ」
魔力を一点へ集中させる。
壊すのではない。
流れを変える。
暴走していた魔力線を掴むような感覚で、リリアは術式そのものを書き換えた。
「リリア、それ――」
誰かの声。
無視する。
魔力線が一度大きく光り、次の瞬間には完全に沈黙した。
静かになった。
「……止まった」
セシルの声が聞こえる。
教師たちが走ってくる。
でも。
リリアはノアしか見ていなかった。
「腕」
「浅いよ」
「見せて」
「本当に大丈夫だから」
「見せて」
ノアが諦めて腕を差し出す。
切れている。
血。
それを見た途端、胸が痛くなった。
「リリア?」
「……嫌」
「え?」
「これ嫌」
「怪我?」
「違う」
リリアは顔を上げた。
「私の代わりに怪我するのが嫌」
ノアの表情が止まった。
「でも、君が怪我するより――」
「それ」
「……」
「それが嫌」
リリアは自分でも驚くほど腹が立っていた。
「なんでノアが決めるの?」
「リリア」
「私が怪我するかもしれないから、ノアが代わりに怪我するって、なんでノアが決めるの?」
「君を守りたかった」
「頼んでない」
ノアが黙る。
少し言いすぎたかもしれない。
でも。
止めたくなかった。
「守ってくれるのは嬉しい。でも、代わりに怪我してほしいとは言ってない」
「……うん」
「私、強いよ」
「知ってる」
「じゃあ信じて」
ノアの青い瞳が揺れた。
「一緒に行けばよかったじゃん。ノアが速くて、私が術式止められるなら、それでよかった」
「……そうだね」
「なんで一人で行くの?」
ノアは答えなかった。
リリアは、その沈黙の理由を全部は知らない。
でも。
少しだけ分かる。
「ノア」
「うん」
「私のためなら怪我してもいいって思ってる?」
長い沈黙。
「……少し」
「少し?」
「かなり」
正直だった。
だから余計に腹が立った。
「やめて」
「簡単には――」
「簡単じゃなくても」
リリアはノアの無傷な方の手を掴んだ。
「やめてほしい」
握る。
「私、ノアが怪我するの嫌だった」
「……」
「血見た時、すごく怖かった」
言葉にした途端。
本当に怖かったのだと分かった。
ノアが傷ついた瞬間。
心臓が止まりそうだった。
「これも恋?」
思わず聞く。
「今それ聞く?」
ノアが少しだけ笑った。
「分からないから」
「……たぶん、恋だけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「大切だからじゃないかな」
「ノアが?」
「僕が」
リリアは握っている手を見る。
「うん」
認める。
「大切」
ノアの指が震えた。
「だから勝手に怪我しないで」
「勝手に怪我したわけじゃないんだけどな」
「勝手に庇った」
「それはそう」
「次は一緒に避ける」
「うん」
「一緒に戦う」
「うん」
「私より先に死なない」
ノアの顔から。
笑みが消えた。
リリアは知らない。
その言葉が。
彼にとって、どれほど重いのか。
「……それは」
「約束して」
「リリア」
「できない?」
ノアはすぐに答えなかった。
その沈黙が。
リリアには怖かった。
「なんで?」
「未来のことだから」
「そんなの全部そうじゃん」
「そうだけど」
「絶対死なないって意味じゃない」
リリアは少し考えながら言葉を探した。
「私を守るために、自分から死ぶ方を選ばないでって言ってる」
ノアの瞳が大きくなる。
「私を助ける方法が、自分が死ぬことと一緒に生きることの二つあるなら、一緒に生きる方を探して」
ノアは何も言わなかった。
リリアは待つ。
やがて。
「……難しいな」
小さな声。
「なんで?」
「僕、それがすごく下手だから」
「じゃあ練習して」
「練習?」
「今日から」
「何を?」
「一緒に生きる方を探す練習」
ノアは目を伏せた。
少しして。
笑った。
「君って、本当にすごいことを簡単に言うよね」
「難しく言った方がいい?」
「そのままでいい」
ノアは繋いだ手を握り返した。
「約束する」
「本当?」
「努力するって約束」
「死なない約束は?」
「それはできない」
「なんで」
「君にもできないでしょ?」
「……できない」
「だから」
ノアはまっすぐリリアを見る。
「君を守るために死ぬことを、最初から選択肢にしない。それなら約束できる」
リリアは少し考えた。
「うん」
「合格?」
「合格」
ノアが笑った。
「厳しいなあ」
「ノアが悪い」
「はい」
*
保健室で傷を治療してもらったあと、二人は廊下の長椅子に座っていた。
セシルは教師への状況説明に呼ばれている。
ノアの左腕には白い包帯が巻かれていた。
「痛い?」
「ちょっと」
「さっき大丈夫って言った」
「格好つけた」
「なんで?」
「好きな子の前だから」
「……」
「あ」
「何?」
「今のは効いた?」
「ちょっと」
「顔赤い」
「うるさい」
ノアが笑う。
リリアは包帯を見る。
「ノア」
「うん?」
「手」
「また?」
「今日は私から」
右手を出す。
ノアが重ねる。
昨日までは。
手を繋ぐと胸が鳴ることばかり気にしていた。
今日は。
ちゃんと温かいことが嬉しい。
「生きてる」
口にすると。
ノアの手が止まった。
「……うん」
「当たり前だけど」
「当たり前にしたいね」
「して」
「一緒に?」
「一緒に」
ノアは。
今度は笑わなかった。
「うん」
ただ。
とても大切なものを受け取ったように。
静かに頷いた。
*
その夜。
ノアはまた夢を見た。
燃える街。
崩れた城。
冷たくなった少女。
何度も見た。
何度も。
でも。
今日は。
夢の中で。
誰かが手を掴んだ。
『ノア』
振り返る。
銀白色の髪。
紫に青を溶かしたような瞳。
今の彼女。
『そっちじゃない』
彼女が言う。
『一緒に生きる方』
ノアは目を覚ました。
暗い部屋。
息は。
昨日ほど乱れていなかった。
右手を見る。
今日。
彼女が握ってくれた手。
「……難しいよ」
小さく笑う。
十二の世界で覚えたことを。
たった一人の少女が。
少しずつ。
壊していく。
でも。
不思議と。
嫌ではなかった。
ノアは目を閉じる。
明日も。
彼女に会いたい。
今は。
それだけでよかった。
昨日と同じ窓際で頬杖をつき、開いた教科書をぼんやり眺めている。けれど頁はしばらく捲られていないらしく、いつもの彼より少しだけ反応が鈍かった。
「ノア、おはよう」
声をかけると、ノアは一瞬遅れて顔を上げた。
「……おはよう、リリア」
「眠い?」
「ちょっとね」
「夜更かし?」
「そんなところ」
笑っている。
いつもの笑顔に見えるのに、何かが違う。リリアはノアの机の前で立ち止まり、その顔をじっと見た。
「何?」
「顔色悪い」
「そう?」
「うん」
「リリアが心配してくれるなら、もう少し悪くてもよかったかも」
「保健室行く?」
「冗談だよ」
「じゃあ寝る?」
「一限始まるけど」
「私が起こす」
「魅力的だけど先生に怒られるなあ」
軽口はいつも通りだった。
けれど、やっぱり気になる。
リリアはしばらく考えてから、ノアの横へ手を差し出した。
「はい」
「……何?」
「手」
「それは見れば分かるけど」
「昨日、ノアが待ってるって言ったから」
ノアが目を見開く。
昨日、女子寮の前で交わした約束。今日は自分から来てほしいと言われた。
「繋がないの?」
「……繋ぐ」
ノアの手が重なる。
指が絡むほど深くはない。ただ手のひらを合わせて、軽く握るだけ。それでも昨日より自然にできた。
「どう?」
リリアが聞く。
「朝から幸せすぎて怖い」
「大げさ」
「本気だよ」
「じゃあ元気になった?」
「かなり」
「便利」
「リリアの手、薬扱い?」
「効いたんでしょ?」
「効いた」
ノアが笑う。
今度の笑顔は、少しだけ本物に近く見えた。
「でも、授業始まるから離すね」
「え」
「え?」
「もうちょっと」
「ノア」
「あと十秒」
「子ども?」
「今日だけ」
仕方なく待つ。
「十、九、八――」
「リリアが数えるの?」
「早く終わるから」
「ひどいなあ」
それでもノアは笑っていた。
十秒後、手を離す。
その瞬間に少し寂しいと思ったことは、言わなかった。
*
三限目の終わり、学院全体に緊急演習の鐘が鳴った。
教師の説明によれば、実戦祭で見つかった結界の不具合を受けて、全学年を対象にした避難訓練を行うらしい。生徒たちは指定された班に分かれ、校舎から訓練場まで移動する。
リリア、ノア、セシルは同じ一年生の班だった。
「本当に訓練?」
廊下を歩きながらリリアが聞く。
「たぶんね」
ノアが答える。
「その言い方、不安」
「実戦祭のあとだから警戒してるだけ」
「何かあったら?」
「僕が――」
そこでノアが言葉を止めた。
「何?」
「……みんなで対処しよう」
「うん」
少し不自然だった。
けれど、リリアは何も言わなかった。
前を歩いていたセシルが一度だけ振り返り、ノアを見た。
*
訓練は順調だった。
少なくとも、途中までは。
校舎を出て北側訓練場へ向かう途中、足元が揺れた。大きな地震ではない。けれど魔力を扱う人間ならすぐ分かる種類の振動だった。
「魔力?」
リリアが立ち止まる。
次の瞬間、地面に描かれていた避難誘導用の術式が青白く光った。
「下がって!」
セシルの声。
光が弾ける。
本来なら進行方向を示すだけの術式が暴走し、周囲へ魔力の刃を撒き散らした。
リリアは反射的に障壁を展開した。正面から飛んできた刃を受け止め、後ろにいた生徒たちを守る。
「全員離れて!」
教師の指示が飛ぶ。
セシルが近くの生徒を誘導する。
ノアはリリアの横にいた。
「リリア、右!」
「見えてる!」
二枚目の障壁。
防ぐ。
さらに左。
今度はノアが風魔法で軌道を逸らした。
「これ、訓練じゃないよね」
「たぶん違う!」
「だと思った!」
暴走した術式の中心を探す。
地面。
魔力線。
どこか一箇所を切れば止められる。
「あそこ」
リリアが見つけた。
少し先の石畳。その下に、異常な魔力が集中している。
「私が止める」
「待って」
「大丈夫」
「僕が行く」
「なんで?」
「僕の方が速いから」
「でも術式分からないでしょ」
「壊せばいい」
「雑」
「君に言われたくない」
普段なら笑うところだった。
でも。
ノアの顔は笑っていなかった。
「ノア?」
「ここにいて」
その声に、リリアは違和感を覚えた。
「一緒に行く」
「駄目」
「なんで?」
「危ないから」
「ノアも危ない」
「僕は平気」
「何で?」
「慣れてるから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「何に?」
ノアが答えない。
「危ないことに?」
「リリア、今は――」
「私よりノアが怪我する方がいいってこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ一緒に行く」
「駄目だ!」
強い声だった。
リリアは驚いて黙る。
ノア自身も、自分の声に驚いたようだった。
「……ごめん」
でも。
次の瞬間。
また魔力が弾けた。
大きい。
さっきまでとは比べものにならない。
「リリア!」
ノアに突き飛ばされた。
身体が地面へ倒れる。
直後。
魔力の刃が走った。
「ノア!」
血が飛んだ。
*
ほんの一瞬だった。
ノアの左腕。
制服が裂け、赤い線が走っている。
深くはない。
立っている。
意識もある。
それでも、リリアの頭から音が消えた。
「ノア」
「大丈夫。これくらい――」
「下がって」
「リリア?」
「下がって!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
リリアは立ち上がると、暴走した術式を見る。
怒っていた。
術式に。
状況に。
そして。
ノアに。
「そこ」
魔力を一点へ集中させる。
壊すのではない。
流れを変える。
暴走していた魔力線を掴むような感覚で、リリアは術式そのものを書き換えた。
「リリア、それ――」
誰かの声。
無視する。
魔力線が一度大きく光り、次の瞬間には完全に沈黙した。
静かになった。
「……止まった」
セシルの声が聞こえる。
教師たちが走ってくる。
でも。
リリアはノアしか見ていなかった。
「腕」
「浅いよ」
「見せて」
「本当に大丈夫だから」
「見せて」
ノアが諦めて腕を差し出す。
切れている。
血。
それを見た途端、胸が痛くなった。
「リリア?」
「……嫌」
「え?」
「これ嫌」
「怪我?」
「違う」
リリアは顔を上げた。
「私の代わりに怪我するのが嫌」
ノアの表情が止まった。
「でも、君が怪我するより――」
「それ」
「……」
「それが嫌」
リリアは自分でも驚くほど腹が立っていた。
「なんでノアが決めるの?」
「リリア」
「私が怪我するかもしれないから、ノアが代わりに怪我するって、なんでノアが決めるの?」
「君を守りたかった」
「頼んでない」
ノアが黙る。
少し言いすぎたかもしれない。
でも。
止めたくなかった。
「守ってくれるのは嬉しい。でも、代わりに怪我してほしいとは言ってない」
「……うん」
「私、強いよ」
「知ってる」
「じゃあ信じて」
ノアの青い瞳が揺れた。
「一緒に行けばよかったじゃん。ノアが速くて、私が術式止められるなら、それでよかった」
「……そうだね」
「なんで一人で行くの?」
ノアは答えなかった。
リリアは、その沈黙の理由を全部は知らない。
でも。
少しだけ分かる。
「ノア」
「うん」
「私のためなら怪我してもいいって思ってる?」
長い沈黙。
「……少し」
「少し?」
「かなり」
正直だった。
だから余計に腹が立った。
「やめて」
「簡単には――」
「簡単じゃなくても」
リリアはノアの無傷な方の手を掴んだ。
「やめてほしい」
握る。
「私、ノアが怪我するの嫌だった」
「……」
「血見た時、すごく怖かった」
言葉にした途端。
本当に怖かったのだと分かった。
ノアが傷ついた瞬間。
心臓が止まりそうだった。
「これも恋?」
思わず聞く。
「今それ聞く?」
ノアが少しだけ笑った。
「分からないから」
「……たぶん、恋だけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「大切だからじゃないかな」
「ノアが?」
「僕が」
リリアは握っている手を見る。
「うん」
認める。
「大切」
ノアの指が震えた。
「だから勝手に怪我しないで」
「勝手に怪我したわけじゃないんだけどな」
「勝手に庇った」
「それはそう」
「次は一緒に避ける」
「うん」
「一緒に戦う」
「うん」
「私より先に死なない」
ノアの顔から。
笑みが消えた。
リリアは知らない。
その言葉が。
彼にとって、どれほど重いのか。
「……それは」
「約束して」
「リリア」
「できない?」
ノアはすぐに答えなかった。
その沈黙が。
リリアには怖かった。
「なんで?」
「未来のことだから」
「そんなの全部そうじゃん」
「そうだけど」
「絶対死なないって意味じゃない」
リリアは少し考えながら言葉を探した。
「私を守るために、自分から死ぶ方を選ばないでって言ってる」
ノアの瞳が大きくなる。
「私を助ける方法が、自分が死ぬことと一緒に生きることの二つあるなら、一緒に生きる方を探して」
ノアは何も言わなかった。
リリアは待つ。
やがて。
「……難しいな」
小さな声。
「なんで?」
「僕、それがすごく下手だから」
「じゃあ練習して」
「練習?」
「今日から」
「何を?」
「一緒に生きる方を探す練習」
ノアは目を伏せた。
少しして。
笑った。
「君って、本当にすごいことを簡単に言うよね」
「難しく言った方がいい?」
「そのままでいい」
ノアは繋いだ手を握り返した。
「約束する」
「本当?」
「努力するって約束」
「死なない約束は?」
「それはできない」
「なんで」
「君にもできないでしょ?」
「……できない」
「だから」
ノアはまっすぐリリアを見る。
「君を守るために死ぬことを、最初から選択肢にしない。それなら約束できる」
リリアは少し考えた。
「うん」
「合格?」
「合格」
ノアが笑った。
「厳しいなあ」
「ノアが悪い」
「はい」
*
保健室で傷を治療してもらったあと、二人は廊下の長椅子に座っていた。
セシルは教師への状況説明に呼ばれている。
ノアの左腕には白い包帯が巻かれていた。
「痛い?」
「ちょっと」
「さっき大丈夫って言った」
「格好つけた」
「なんで?」
「好きな子の前だから」
「……」
「あ」
「何?」
「今のは効いた?」
「ちょっと」
「顔赤い」
「うるさい」
ノアが笑う。
リリアは包帯を見る。
「ノア」
「うん?」
「手」
「また?」
「今日は私から」
右手を出す。
ノアが重ねる。
昨日までは。
手を繋ぐと胸が鳴ることばかり気にしていた。
今日は。
ちゃんと温かいことが嬉しい。
「生きてる」
口にすると。
ノアの手が止まった。
「……うん」
「当たり前だけど」
「当たり前にしたいね」
「して」
「一緒に?」
「一緒に」
ノアは。
今度は笑わなかった。
「うん」
ただ。
とても大切なものを受け取ったように。
静かに頷いた。
*
その夜。
ノアはまた夢を見た。
燃える街。
崩れた城。
冷たくなった少女。
何度も見た。
何度も。
でも。
今日は。
夢の中で。
誰かが手を掴んだ。
『ノア』
振り返る。
銀白色の髪。
紫に青を溶かしたような瞳。
今の彼女。
『そっちじゃない』
彼女が言う。
『一緒に生きる方』
ノアは目を覚ました。
暗い部屋。
息は。
昨日ほど乱れていなかった。
右手を見る。
今日。
彼女が握ってくれた手。
「……難しいよ」
小さく笑う。
十二の世界で覚えたことを。
たった一人の少女が。
少しずつ。
壊していく。
でも。
不思議と。
嫌ではなかった。
ノアは目を閉じる。
明日も。
彼女に会いたい。
今は。
それだけでよかった。

