魔法より、君に恋をする。

休日の朝、リリアはいつもより少し早く目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨日の夜に考えていたことを思い出す。授業も約束も何もなくて、誰のところへ行ってもいいなら、自分は誰に会いたいのか。

 答えを出さないまま眠ったはずだった。

 けれど、目を覚ました瞬間に思い浮かんだ顔があった。

「……ノア」

 名前を口にしてから、そういえば今日は約束していたことを思い出した。

 二人で出かける。

 それなら最初から決まっていたのではないかとも思ったけれど、少し違う。約束があるから会うのではなく、約束がなくても今日はノアに会いたかった。

 その違いが何なのかは、まだよく分からない。

 リリアはベッドから起き上がると、クローゼットを開けた。制服ではない服を選ぶだけなのに、いつもより時間がかかった。白いブラウスを出して、戻す。淡い青のワンピースを出して、それも一度戻した。

「……何でもいいのに」

 そう呟きながら、結局もう一度青いワンピースを手に取った。

     *

 待ち合わせ場所は学院の正門だった。

 リリアが着いた時には、ノアはすでに門柱にもたれて待っていた。制服ではなく、白いシャツに薄い色の上着を羽織っている。青みを帯びた銀髪が朝の光を受けると、いつもよりさらに淡く見えた。

 こちらに気づいた青い瞳が、一瞬だけ大きくなる。

「おはよう、ノア」

「……おはよう」

「待った?」

「いや。僕も今来たところ」

「嘘」

「なんで?」

「ノア、待つ時あそこ触るから」

 リリアが門柱の縁を指すと、ノアは自分の手を見た。指先が無意識に石の角をなぞっていたらしい。

「……よく見てるね」

「よく一緒にいるから」

「朝から強いなあ」

「何が?」

「こっちの話」

 ノアは苦笑してから、改めてリリアを見る。

「その服、似合ってる」

「ありがとう」

「可愛い」

「うん」

「……そこは照れてくれない?」

「褒められたからお礼言った」

「そうなんだけどさ」

「ノアも似合ってる」

「え?」

「制服じゃないの新鮮」

 リリアは少し近づいて、彼の上着を見る。

「格好いい」

 ノアが黙った。

「どうしたの?」

「今ちょっと帰りたくなった」

「なんで?」

「今日一日もつ自信なくなってきた」

「体調悪い?」

「君のせい」

「私?」

「うん。でも帰らない」

 そう言って、ノアは笑った。

「行こっか」

     *

 学院から街までは歩いて二十分ほどだった。

 実戦祭の時とは違い、今日は目的地も時間制限もない。店を覗いて、気になった道へ曲がって、また戻る。途中でリリアが道を間違えそうになるたび、ノアが何も言わず袖を引いた。

「今そっちじゃないよ」

「分かってた」

「絶対分かってなかった」

「確認しただけ」

「道を?」

「うん」

「曲がったあとで?」

「……うん」

「迷子の言い訳として新しいね」

「迷ってない」

「僕がいなかったら?」

「誰かに聞く」

「強い」

 ノアが笑う。

 リリアも笑った。

 こんな時間が好きだった。何か大きな事件が起きるわけでもなく、過去の世界の話をする必要もない。ただ一緒に歩いているだけなのに、退屈しない。

 しばらく歩いたところで、ノアが一軒の店の前で立ち止まった。

「ここ入ろう」

「甘い匂いする」

「だから」

「ノアも甘いの好きだっけ?」

「今日は君が好きだから」

「私が?」

「甘いものが」

「ああ」

「……今の間、ちょっと期待した?」

「何を?」

「何でもない」

「またそれ」

「今日は許して」

     *

 店の窓際に座り、リリアは苺のタルトを選んだ。ノアは紅茶だけだと言っていたのに、結局リリアが一口食べたところで皿を見ている。

「食べる?」

「いいの?」

「見てたから」

「見てないよ」

「見てた」

「君を見てた」

「同じ方向」

「違うんだけどなあ」

 フォークで一口分を切り、ノアの皿へ置こうとする。

「はい」

「……」

「何?」

「そっち?」

「どっち?」

「いや、いい」

 ノアは自分のフォークで食べた。

「美味しい?」

「うん」

「よかった」

「リリア」

「何?」

「こういうの、他の人にもする?」

「何を?」

「自分の食べてるもの分けるの」

「すると思う」

「セシルにも?」

「する」

「アレン先輩にも?」

「欲しいって言ったら」

「カイル先輩」

「たぶん」

「レオン先輩」

「うん」

「ルシアン先輩」

「する」

「……そっか」

 ノアが紅茶を飲む。

 少しだけ、声が落ちた。

「嫌?」

「何が?」

「今、ちょっと嫌そうだった」

 ノアはカップを置いた。

「本当に、よく見てるね」

「ノアのこと?」

「うん」

「見るよ」

「なんで?」

 聞かれて、リリアは考えた。

 友達だから。

 同級生だから。

 一緒にいる時間が長いから。

 どれも間違ってはいない。

 でも、今日はそれだけではない気がした。

「気になるから」

 答えると、ノアが止まった。

「……それ、どういう意味?」

「分からない」

「分からないの?」

「だから今日来た」

 ノアの表情から、いつもの軽い笑みが少し消えた。

「どういうこと?」

「昨日考えてたの。誰に会いたいのかなって」

「……うん」

「今日起きた時、ノアが浮かんだ」

 店内の音が遠くなったような気がした。

 ノアは何も言わない。

「約束してたからかもしれないけど」

「それでもいい」

 すぐに返ってきた。

「でも、たぶんそれだけじゃない」

 リリアは自分でも確かめるように続けた。

「約束なくても、会いたかったと思う」

 ノアの指が、カップの取っ手から離れた。

「リリア」

「うん?」

「今、僕がどれくらい嬉しいか分かる?」

「分からない」

「だよね」

 ノアは笑った。

 でも、その笑い方はいつもと少し違った。嬉しそうなのに、どこか困っているようにも見える。

「僕ね、君に会いたいって思ってもらうの、ずっと欲しかったんだ」

「いつから?」

 聞いた瞬間。

 ノアの目が揺れた。

 リリアも気づいた。

 その問いには、十五歳の少年として答えられない時間が含まれている。

「……ずっと前から」

「昔のリリア?」

「うん」

 今日は。

 その名前を聞いても、逃げたいとは思わなかった。

「その人も、ノアに会いたいって言った?」

「言ってくれたことはあるよ」

「じゃあ同じ?」

「違う」

 即答だった。

「なんで?」

「君が言ったから」

 ノアはまっすぐリリアを見る。

「今日の君が、自分で考えて、僕に会いたいって思った。それは昔の誰かが何を言ったかとは関係ない」

「……そっか」

「うん」

「じゃあノアも?」

「何が?」

「今日、私に会いたかった?」

 ノアは少し笑った。

「毎日会いたいよ」

「毎日?」

「毎日」

「同じクラスなのに?」

「同じクラスでも」

「朝会うじゃん」

「それでも」

「昼もいる」

「それでも」

「夜は?」

「会えたら嬉しい」

「多い」

「君が聞いたんでしょ」

「そうだけど」

 リリアは笑った。

 その時。

 テーブルの上に置いていた手へ、ノアの指先が近づいた。

 触れそうになって。

 止まる。

 リリアはその手を見る。

「触らないの?」

「……触っていい?」

 珍しいと思った。

 ノアは今まで、もっと自然に距離を詰めてきた。袖を引くことも、手を取ることもあった。

 でも今日は。

 聞いた。

「いいよ」

 答えると。

 ノアの指が、そっと重なった。

 手を握る。

 ただそれだけ。

 なのに。

 リリアの胸が、さっきよりずっと大きく鳴った。

「……変」

「何が?」

「手」

「嫌だった?」

「違う」

 リリアは繋がれた手を見る。

「前にも繋いだことあるのに」

「うん」

「今日の方が変」

「それは」

 ノアが少しだけ笑う。

「いい変化かもしれないよ」

     *

 店を出たあとも、手は繋いだままだった。

 どちらからも離さなかった。

 街の中心を抜け、少し静かな道へ入る。小さな川沿いの遊歩道には人が少なく、春の風が水面を揺らしていた。

「ノア」

「ん?」

「聞いていい?」

「内容による」

「嫌なら答えなくていい」

「それなら何でも」

 リリアは少し迷った。

「ノアは、昔のリリアのこと、今も好き?」

 握っている手が僅かに強くなった。

「……好きだよ」

 やっぱり。

 少しだけ胸が痛む。

 でも、ノアは続けた。

「たぶん、一生嫌いにはならない」

「そっか」

「忘れることもないと思う」

「うん」

「でも」

 ノアが立ち止まる。

 リリアも止まった。

「それと、君を好きなことは別なんだ」

「……私を?」

 初めて聞いた言葉ではない。

 ノアは以前にも言った。

 好きだと。

 あの時のリリアは、それを友達として受け取った。

 今は。

 同じようには聞こえなかった。

「うん」

 ノアは笑わない。

「君が好き」

 春の風が、青銀色の髪を揺らす。

「昔の誰かじゃなくて?」

「今ここにいる君」

「リリアだから?」

「それも違う」

 ノアは少し考えてから、困ったように笑った。

「君がリリアじゃなくても好きになった、なんて証明はできないけどね」

「うん」

「でも僕が好きなのは、方向音痴なのに認めない君で、甘いものを見ると目がちょっと明るくなる君で、思ったことをそのまま言って僕を困らせる君だよ」

「……いっぱいある」

「まだある」

「もういい」

「照れてる?」

「分からない」

「顔赤いよ」

「暑い」

「春だよ」

「歩いたから」

「そういうことにしておく?」

「して」

 ノアが笑う。

 いつもの笑顔。

 でも。

 リリアは今、その笑顔を前よりずっと意識している。

「返事はいらないよ」

「いいの?」

「今はね」

「どうして?」

「君が僕に会いたいって思ってくれた。それだけで今日は十分だから」

 その言葉が。

 なぜか少し嫌だった。

「……十分なの?」

「うん」

「本当に?」

「リリア?」

「もっと欲しくない?」

 ノアが黙った。

 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。

「私がノアのこと好きって言ったら嬉しい?」

「……それは」

「嬉しくない?」

「嬉しいに決まってる」

「じゃあ十分じゃないじゃん」

 ノアの目が大きくなる。

「欲しいなら欲しいって言えばいいのに」

「簡単に言うね」

「難しい?」

「僕には、ちょっとね」

「なんで?」

 ノアはすぐには答えなかった。

 繋いでいた手を見る。

「欲しがりすぎて、失くしたことがあるから」

 小さな声だった。

「だから今は、君がここにいるだけでいいって思おうとしてる」

「思おうとしてる?」

「うん」

「本当は?」

 ノアが笑った。

 少しだけ。

 寂しい笑顔。

「全部欲しいよ」

 リリアの胸が鳴る。

「君が好きって言ってくれるのも、僕を選んでくれるのも、明日も明後日も一緒にいるのも。全部欲しい」

 それなのに。

「でも、それを君に背負わせたくない」

 リリアはしばらく黙った。

 それから。

 繋いでいた手を。

 自分から握り直した。

「……リリア?」

「今日はこれ」

「これ?」

「手」

「うん」

「私が繋ぎたいから繋ぐ」

 ノアが目を見開く。

「ノアが昔何回私みたいな人を好きだったとか、何回失ったとか、まだ全部知らない」

「うん」

「でも今日は関係ない」

 握る。

「私が今、ノアと手を繋ぎたい」

 ノアは何も言わなかった。

 ただ。

 少しだけ俯いた。

「……ノア?」

「待って」

「何?」

「今、顔見ないで」

「なんで?」

「無理だから」

「何が?」

「嬉しすぎる」

 リリアは。

 見た。

「見るなって言ったのに」

「見たかった」

「ほんと、君は……」

 ノアは笑っていた。

 でも。

 青い瞳の端が少し濡れていた。

 リリアは何も言わなかった。

 代わりに。

 手を離さなかった。

     *

 帰り道。

 学院の正門が見えてきた頃には、空が夕焼けに染まっていた。

「楽しかった」

 リリアが言う。

「僕も」

「また行く?」

「……いいの?」

「なんで聞くの?」

「今日で満足したかもしれないから」

「してない」

「即答」

「また行きたい」

「二人で?」

「うん」

 ノアは笑った。

「じゃあ次もデートだ」

「今日もデートだったの?」

「今さら!?」

「出かけるって言ってた」

「二人で休日に出かけて手まで繋いだんだよ!?」

「じゃあデート」

「軽いなあ」

「嫌?」

「最高」

 正門前。

 手を離す。

 ほんの少し。

 名残惜しいと思った。

 その感覚に。

 リリア自身が一番驚いた。

「じゃあまた明日」

「うん。また明日」

 ノアが数歩歩く。

「ノア」

 呼ぶと。

 すぐ振り返った。

「何?」

「今日」

 少し迷う。

「ノアに会いたいって思ってよかった」

 青い瞳が細くなる。

「……うん」

「おやすみ」

「おやすみ、リリア」

 今度こそ別れる。

 女子寮へ向かいながら。

 リリアは自分の手を見る。

 もう繋がっていないのに。

 まだ温かい。

 六人とも大切だった。

 その気持ちは変わらない。

 でも。

 今日。

 自分が選んだのは。

 ノアだった。

 それだけのことなのに。

 昨日までとは。

 世界が少し違って見えた。

     *

 男子寮へ戻る途中。

 ノアは一人になってから、ようやく足を止めた。

 右手を見る。

 何度も。

 この手で彼女に触れた。

 何度も守った。

 何度も離した。

 何度も届かなかった。

 けれど今日。

 彼女の方から握られた。

 過去の約束でも。

 記憶でも。

 運命でもない。

 今の彼女が。

 自分で。

「……ずるいよ」

 ノアは小さく笑った。

 嬉しい。

 それなのに。

 怖い。

 また失うかもしれない。

 その恐怖は、十二の世界を越えても消えていない。

 だからこそ。

 ノアは自分の右手を強く握った。

 今度は。

 彼女のために死ぬことを。

 愛だとは呼ばない。

 まだ上手くできるかは分からない。

 それでも。

 彼女が今日、自分を選んでくれたのなら。

 次は自分が。

 生きる方を選ばなければならない。

 彼女と。

 同じ明日へ行くために。

ノアルート 第35章 終