休日の朝、リリアはいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨日の夜に考えていたことを思い出す。授業も約束も何もなくて、誰のところへ行ってもいいなら、自分は誰に会いたいのか。
答えを出さないまま眠ったはずだった。
けれど、目を覚ました瞬間に思い浮かんだ顔があった。
「……ノア」
名前を口にしてから、そういえば今日は約束していたことを思い出した。
二人で出かける。
それなら最初から決まっていたのではないかとも思ったけれど、少し違う。約束があるから会うのではなく、約束がなくても今日はノアに会いたかった。
その違いが何なのかは、まだよく分からない。
リリアはベッドから起き上がると、クローゼットを開けた。制服ではない服を選ぶだけなのに、いつもより時間がかかった。白いブラウスを出して、戻す。淡い青のワンピースを出して、それも一度戻した。
「……何でもいいのに」
そう呟きながら、結局もう一度青いワンピースを手に取った。
*
待ち合わせ場所は学院の正門だった。
リリアが着いた時には、ノアはすでに門柱にもたれて待っていた。制服ではなく、白いシャツに薄い色の上着を羽織っている。青みを帯びた銀髪が朝の光を受けると、いつもよりさらに淡く見えた。
こちらに気づいた青い瞳が、一瞬だけ大きくなる。
「おはよう、ノア」
「……おはよう」
「待った?」
「いや。僕も今来たところ」
「嘘」
「なんで?」
「ノア、待つ時あそこ触るから」
リリアが門柱の縁を指すと、ノアは自分の手を見た。指先が無意識に石の角をなぞっていたらしい。
「……よく見てるね」
「よく一緒にいるから」
「朝から強いなあ」
「何が?」
「こっちの話」
ノアは苦笑してから、改めてリリアを見る。
「その服、似合ってる」
「ありがとう」
「可愛い」
「うん」
「……そこは照れてくれない?」
「褒められたからお礼言った」
「そうなんだけどさ」
「ノアも似合ってる」
「え?」
「制服じゃないの新鮮」
リリアは少し近づいて、彼の上着を見る。
「格好いい」
ノアが黙った。
「どうしたの?」
「今ちょっと帰りたくなった」
「なんで?」
「今日一日もつ自信なくなってきた」
「体調悪い?」
「君のせい」
「私?」
「うん。でも帰らない」
そう言って、ノアは笑った。
「行こっか」
*
学院から街までは歩いて二十分ほどだった。
実戦祭の時とは違い、今日は目的地も時間制限もない。店を覗いて、気になった道へ曲がって、また戻る。途中でリリアが道を間違えそうになるたび、ノアが何も言わず袖を引いた。
「今そっちじゃないよ」
「分かってた」
「絶対分かってなかった」
「確認しただけ」
「道を?」
「うん」
「曲がったあとで?」
「……うん」
「迷子の言い訳として新しいね」
「迷ってない」
「僕がいなかったら?」
「誰かに聞く」
「強い」
ノアが笑う。
リリアも笑った。
こんな時間が好きだった。何か大きな事件が起きるわけでもなく、過去の世界の話をする必要もない。ただ一緒に歩いているだけなのに、退屈しない。
しばらく歩いたところで、ノアが一軒の店の前で立ち止まった。
「ここ入ろう」
「甘い匂いする」
「だから」
「ノアも甘いの好きだっけ?」
「今日は君が好きだから」
「私が?」
「甘いものが」
「ああ」
「……今の間、ちょっと期待した?」
「何を?」
「何でもない」
「またそれ」
「今日は許して」
*
店の窓際に座り、リリアは苺のタルトを選んだ。ノアは紅茶だけだと言っていたのに、結局リリアが一口食べたところで皿を見ている。
「食べる?」
「いいの?」
「見てたから」
「見てないよ」
「見てた」
「君を見てた」
「同じ方向」
「違うんだけどなあ」
フォークで一口分を切り、ノアの皿へ置こうとする。
「はい」
「……」
「何?」
「そっち?」
「どっち?」
「いや、いい」
ノアは自分のフォークで食べた。
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
「リリア」
「何?」
「こういうの、他の人にもする?」
「何を?」
「自分の食べてるもの分けるの」
「すると思う」
「セシルにも?」
「する」
「アレン先輩にも?」
「欲しいって言ったら」
「カイル先輩」
「たぶん」
「レオン先輩」
「うん」
「ルシアン先輩」
「する」
「……そっか」
ノアが紅茶を飲む。
少しだけ、声が落ちた。
「嫌?」
「何が?」
「今、ちょっと嫌そうだった」
ノアはカップを置いた。
「本当に、よく見てるね」
「ノアのこと?」
「うん」
「見るよ」
「なんで?」
聞かれて、リリアは考えた。
友達だから。
同級生だから。
一緒にいる時間が長いから。
どれも間違ってはいない。
でも、今日はそれだけではない気がした。
「気になるから」
答えると、ノアが止まった。
「……それ、どういう意味?」
「分からない」
「分からないの?」
「だから今日来た」
ノアの表情から、いつもの軽い笑みが少し消えた。
「どういうこと?」
「昨日考えてたの。誰に会いたいのかなって」
「……うん」
「今日起きた時、ノアが浮かんだ」
店内の音が遠くなったような気がした。
ノアは何も言わない。
「約束してたからかもしれないけど」
「それでもいい」
すぐに返ってきた。
「でも、たぶんそれだけじゃない」
リリアは自分でも確かめるように続けた。
「約束なくても、会いたかったと思う」
ノアの指が、カップの取っ手から離れた。
「リリア」
「うん?」
「今、僕がどれくらい嬉しいか分かる?」
「分からない」
「だよね」
ノアは笑った。
でも、その笑い方はいつもと少し違った。嬉しそうなのに、どこか困っているようにも見える。
「僕ね、君に会いたいって思ってもらうの、ずっと欲しかったんだ」
「いつから?」
聞いた瞬間。
ノアの目が揺れた。
リリアも気づいた。
その問いには、十五歳の少年として答えられない時間が含まれている。
「……ずっと前から」
「昔のリリア?」
「うん」
今日は。
その名前を聞いても、逃げたいとは思わなかった。
「その人も、ノアに会いたいって言った?」
「言ってくれたことはあるよ」
「じゃあ同じ?」
「違う」
即答だった。
「なんで?」
「君が言ったから」
ノアはまっすぐリリアを見る。
「今日の君が、自分で考えて、僕に会いたいって思った。それは昔の誰かが何を言ったかとは関係ない」
「……そっか」
「うん」
「じゃあノアも?」
「何が?」
「今日、私に会いたかった?」
ノアは少し笑った。
「毎日会いたいよ」
「毎日?」
「毎日」
「同じクラスなのに?」
「同じクラスでも」
「朝会うじゃん」
「それでも」
「昼もいる」
「それでも」
「夜は?」
「会えたら嬉しい」
「多い」
「君が聞いたんでしょ」
「そうだけど」
リリアは笑った。
その時。
テーブルの上に置いていた手へ、ノアの指先が近づいた。
触れそうになって。
止まる。
リリアはその手を見る。
「触らないの?」
「……触っていい?」
珍しいと思った。
ノアは今まで、もっと自然に距離を詰めてきた。袖を引くことも、手を取ることもあった。
でも今日は。
聞いた。
「いいよ」
答えると。
ノアの指が、そっと重なった。
手を握る。
ただそれだけ。
なのに。
リリアの胸が、さっきよりずっと大きく鳴った。
「……変」
「何が?」
「手」
「嫌だった?」
「違う」
リリアは繋がれた手を見る。
「前にも繋いだことあるのに」
「うん」
「今日の方が変」
「それは」
ノアが少しだけ笑う。
「いい変化かもしれないよ」
*
店を出たあとも、手は繋いだままだった。
どちらからも離さなかった。
街の中心を抜け、少し静かな道へ入る。小さな川沿いの遊歩道には人が少なく、春の風が水面を揺らしていた。
「ノア」
「ん?」
「聞いていい?」
「内容による」
「嫌なら答えなくていい」
「それなら何でも」
リリアは少し迷った。
「ノアは、昔のリリアのこと、今も好き?」
握っている手が僅かに強くなった。
「……好きだよ」
やっぱり。
少しだけ胸が痛む。
でも、ノアは続けた。
「たぶん、一生嫌いにはならない」
「そっか」
「忘れることもないと思う」
「うん」
「でも」
ノアが立ち止まる。
リリアも止まった。
「それと、君を好きなことは別なんだ」
「……私を?」
初めて聞いた言葉ではない。
ノアは以前にも言った。
好きだと。
あの時のリリアは、それを友達として受け取った。
今は。
同じようには聞こえなかった。
「うん」
ノアは笑わない。
「君が好き」
春の風が、青銀色の髪を揺らす。
「昔の誰かじゃなくて?」
「今ここにいる君」
「リリアだから?」
「それも違う」
ノアは少し考えてから、困ったように笑った。
「君がリリアじゃなくても好きになった、なんて証明はできないけどね」
「うん」
「でも僕が好きなのは、方向音痴なのに認めない君で、甘いものを見ると目がちょっと明るくなる君で、思ったことをそのまま言って僕を困らせる君だよ」
「……いっぱいある」
「まだある」
「もういい」
「照れてる?」
「分からない」
「顔赤いよ」
「暑い」
「春だよ」
「歩いたから」
「そういうことにしておく?」
「して」
ノアが笑う。
いつもの笑顔。
でも。
リリアは今、その笑顔を前よりずっと意識している。
「返事はいらないよ」
「いいの?」
「今はね」
「どうして?」
「君が僕に会いたいって思ってくれた。それだけで今日は十分だから」
その言葉が。
なぜか少し嫌だった。
「……十分なの?」
「うん」
「本当に?」
「リリア?」
「もっと欲しくない?」
ノアが黙った。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
「私がノアのこと好きって言ったら嬉しい?」
「……それは」
「嬉しくない?」
「嬉しいに決まってる」
「じゃあ十分じゃないじゃん」
ノアの目が大きくなる。
「欲しいなら欲しいって言えばいいのに」
「簡単に言うね」
「難しい?」
「僕には、ちょっとね」
「なんで?」
ノアはすぐには答えなかった。
繋いでいた手を見る。
「欲しがりすぎて、失くしたことがあるから」
小さな声だった。
「だから今は、君がここにいるだけでいいって思おうとしてる」
「思おうとしてる?」
「うん」
「本当は?」
ノアが笑った。
少しだけ。
寂しい笑顔。
「全部欲しいよ」
リリアの胸が鳴る。
「君が好きって言ってくれるのも、僕を選んでくれるのも、明日も明後日も一緒にいるのも。全部欲しい」
それなのに。
「でも、それを君に背負わせたくない」
リリアはしばらく黙った。
それから。
繋いでいた手を。
自分から握り直した。
「……リリア?」
「今日はこれ」
「これ?」
「手」
「うん」
「私が繋ぎたいから繋ぐ」
ノアが目を見開く。
「ノアが昔何回私みたいな人を好きだったとか、何回失ったとか、まだ全部知らない」
「うん」
「でも今日は関係ない」
握る。
「私が今、ノアと手を繋ぎたい」
ノアは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ俯いた。
「……ノア?」
「待って」
「何?」
「今、顔見ないで」
「なんで?」
「無理だから」
「何が?」
「嬉しすぎる」
リリアは。
見た。
「見るなって言ったのに」
「見たかった」
「ほんと、君は……」
ノアは笑っていた。
でも。
青い瞳の端が少し濡れていた。
リリアは何も言わなかった。
代わりに。
手を離さなかった。
*
帰り道。
学院の正門が見えてきた頃には、空が夕焼けに染まっていた。
「楽しかった」
リリアが言う。
「僕も」
「また行く?」
「……いいの?」
「なんで聞くの?」
「今日で満足したかもしれないから」
「してない」
「即答」
「また行きたい」
「二人で?」
「うん」
ノアは笑った。
「じゃあ次もデートだ」
「今日もデートだったの?」
「今さら!?」
「出かけるって言ってた」
「二人で休日に出かけて手まで繋いだんだよ!?」
「じゃあデート」
「軽いなあ」
「嫌?」
「最高」
正門前。
手を離す。
ほんの少し。
名残惜しいと思った。
その感覚に。
リリア自身が一番驚いた。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
ノアが数歩歩く。
「ノア」
呼ぶと。
すぐ振り返った。
「何?」
「今日」
少し迷う。
「ノアに会いたいって思ってよかった」
青い瞳が細くなる。
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみ、リリア」
今度こそ別れる。
女子寮へ向かいながら。
リリアは自分の手を見る。
もう繋がっていないのに。
まだ温かい。
六人とも大切だった。
その気持ちは変わらない。
でも。
今日。
自分が選んだのは。
ノアだった。
それだけのことなのに。
昨日までとは。
世界が少し違って見えた。
*
男子寮へ戻る途中。
ノアは一人になってから、ようやく足を止めた。
右手を見る。
何度も。
この手で彼女に触れた。
何度も守った。
何度も離した。
何度も届かなかった。
けれど今日。
彼女の方から握られた。
過去の約束でも。
記憶でも。
運命でもない。
今の彼女が。
自分で。
「……ずるいよ」
ノアは小さく笑った。
嬉しい。
それなのに。
怖い。
また失うかもしれない。
その恐怖は、十二の世界を越えても消えていない。
だからこそ。
ノアは自分の右手を強く握った。
今度は。
彼女のために死ぬことを。
愛だとは呼ばない。
まだ上手くできるかは分からない。
それでも。
彼女が今日、自分を選んでくれたのなら。
次は自分が。
生きる方を選ばなければならない。
彼女と。
同じ明日へ行くために。
ノアルート 第35章 終
カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨日の夜に考えていたことを思い出す。授業も約束も何もなくて、誰のところへ行ってもいいなら、自分は誰に会いたいのか。
答えを出さないまま眠ったはずだった。
けれど、目を覚ました瞬間に思い浮かんだ顔があった。
「……ノア」
名前を口にしてから、そういえば今日は約束していたことを思い出した。
二人で出かける。
それなら最初から決まっていたのではないかとも思ったけれど、少し違う。約束があるから会うのではなく、約束がなくても今日はノアに会いたかった。
その違いが何なのかは、まだよく分からない。
リリアはベッドから起き上がると、クローゼットを開けた。制服ではない服を選ぶだけなのに、いつもより時間がかかった。白いブラウスを出して、戻す。淡い青のワンピースを出して、それも一度戻した。
「……何でもいいのに」
そう呟きながら、結局もう一度青いワンピースを手に取った。
*
待ち合わせ場所は学院の正門だった。
リリアが着いた時には、ノアはすでに門柱にもたれて待っていた。制服ではなく、白いシャツに薄い色の上着を羽織っている。青みを帯びた銀髪が朝の光を受けると、いつもよりさらに淡く見えた。
こちらに気づいた青い瞳が、一瞬だけ大きくなる。
「おはよう、ノア」
「……おはよう」
「待った?」
「いや。僕も今来たところ」
「嘘」
「なんで?」
「ノア、待つ時あそこ触るから」
リリアが門柱の縁を指すと、ノアは自分の手を見た。指先が無意識に石の角をなぞっていたらしい。
「……よく見てるね」
「よく一緒にいるから」
「朝から強いなあ」
「何が?」
「こっちの話」
ノアは苦笑してから、改めてリリアを見る。
「その服、似合ってる」
「ありがとう」
「可愛い」
「うん」
「……そこは照れてくれない?」
「褒められたからお礼言った」
「そうなんだけどさ」
「ノアも似合ってる」
「え?」
「制服じゃないの新鮮」
リリアは少し近づいて、彼の上着を見る。
「格好いい」
ノアが黙った。
「どうしたの?」
「今ちょっと帰りたくなった」
「なんで?」
「今日一日もつ自信なくなってきた」
「体調悪い?」
「君のせい」
「私?」
「うん。でも帰らない」
そう言って、ノアは笑った。
「行こっか」
*
学院から街までは歩いて二十分ほどだった。
実戦祭の時とは違い、今日は目的地も時間制限もない。店を覗いて、気になった道へ曲がって、また戻る。途中でリリアが道を間違えそうになるたび、ノアが何も言わず袖を引いた。
「今そっちじゃないよ」
「分かってた」
「絶対分かってなかった」
「確認しただけ」
「道を?」
「うん」
「曲がったあとで?」
「……うん」
「迷子の言い訳として新しいね」
「迷ってない」
「僕がいなかったら?」
「誰かに聞く」
「強い」
ノアが笑う。
リリアも笑った。
こんな時間が好きだった。何か大きな事件が起きるわけでもなく、過去の世界の話をする必要もない。ただ一緒に歩いているだけなのに、退屈しない。
しばらく歩いたところで、ノアが一軒の店の前で立ち止まった。
「ここ入ろう」
「甘い匂いする」
「だから」
「ノアも甘いの好きだっけ?」
「今日は君が好きだから」
「私が?」
「甘いものが」
「ああ」
「……今の間、ちょっと期待した?」
「何を?」
「何でもない」
「またそれ」
「今日は許して」
*
店の窓際に座り、リリアは苺のタルトを選んだ。ノアは紅茶だけだと言っていたのに、結局リリアが一口食べたところで皿を見ている。
「食べる?」
「いいの?」
「見てたから」
「見てないよ」
「見てた」
「君を見てた」
「同じ方向」
「違うんだけどなあ」
フォークで一口分を切り、ノアの皿へ置こうとする。
「はい」
「……」
「何?」
「そっち?」
「どっち?」
「いや、いい」
ノアは自分のフォークで食べた。
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
「リリア」
「何?」
「こういうの、他の人にもする?」
「何を?」
「自分の食べてるもの分けるの」
「すると思う」
「セシルにも?」
「する」
「アレン先輩にも?」
「欲しいって言ったら」
「カイル先輩」
「たぶん」
「レオン先輩」
「うん」
「ルシアン先輩」
「する」
「……そっか」
ノアが紅茶を飲む。
少しだけ、声が落ちた。
「嫌?」
「何が?」
「今、ちょっと嫌そうだった」
ノアはカップを置いた。
「本当に、よく見てるね」
「ノアのこと?」
「うん」
「見るよ」
「なんで?」
聞かれて、リリアは考えた。
友達だから。
同級生だから。
一緒にいる時間が長いから。
どれも間違ってはいない。
でも、今日はそれだけではない気がした。
「気になるから」
答えると、ノアが止まった。
「……それ、どういう意味?」
「分からない」
「分からないの?」
「だから今日来た」
ノアの表情から、いつもの軽い笑みが少し消えた。
「どういうこと?」
「昨日考えてたの。誰に会いたいのかなって」
「……うん」
「今日起きた時、ノアが浮かんだ」
店内の音が遠くなったような気がした。
ノアは何も言わない。
「約束してたからかもしれないけど」
「それでもいい」
すぐに返ってきた。
「でも、たぶんそれだけじゃない」
リリアは自分でも確かめるように続けた。
「約束なくても、会いたかったと思う」
ノアの指が、カップの取っ手から離れた。
「リリア」
「うん?」
「今、僕がどれくらい嬉しいか分かる?」
「分からない」
「だよね」
ノアは笑った。
でも、その笑い方はいつもと少し違った。嬉しそうなのに、どこか困っているようにも見える。
「僕ね、君に会いたいって思ってもらうの、ずっと欲しかったんだ」
「いつから?」
聞いた瞬間。
ノアの目が揺れた。
リリアも気づいた。
その問いには、十五歳の少年として答えられない時間が含まれている。
「……ずっと前から」
「昔のリリア?」
「うん」
今日は。
その名前を聞いても、逃げたいとは思わなかった。
「その人も、ノアに会いたいって言った?」
「言ってくれたことはあるよ」
「じゃあ同じ?」
「違う」
即答だった。
「なんで?」
「君が言ったから」
ノアはまっすぐリリアを見る。
「今日の君が、自分で考えて、僕に会いたいって思った。それは昔の誰かが何を言ったかとは関係ない」
「……そっか」
「うん」
「じゃあノアも?」
「何が?」
「今日、私に会いたかった?」
ノアは少し笑った。
「毎日会いたいよ」
「毎日?」
「毎日」
「同じクラスなのに?」
「同じクラスでも」
「朝会うじゃん」
「それでも」
「昼もいる」
「それでも」
「夜は?」
「会えたら嬉しい」
「多い」
「君が聞いたんでしょ」
「そうだけど」
リリアは笑った。
その時。
テーブルの上に置いていた手へ、ノアの指先が近づいた。
触れそうになって。
止まる。
リリアはその手を見る。
「触らないの?」
「……触っていい?」
珍しいと思った。
ノアは今まで、もっと自然に距離を詰めてきた。袖を引くことも、手を取ることもあった。
でも今日は。
聞いた。
「いいよ」
答えると。
ノアの指が、そっと重なった。
手を握る。
ただそれだけ。
なのに。
リリアの胸が、さっきよりずっと大きく鳴った。
「……変」
「何が?」
「手」
「嫌だった?」
「違う」
リリアは繋がれた手を見る。
「前にも繋いだことあるのに」
「うん」
「今日の方が変」
「それは」
ノアが少しだけ笑う。
「いい変化かもしれないよ」
*
店を出たあとも、手は繋いだままだった。
どちらからも離さなかった。
街の中心を抜け、少し静かな道へ入る。小さな川沿いの遊歩道には人が少なく、春の風が水面を揺らしていた。
「ノア」
「ん?」
「聞いていい?」
「内容による」
「嫌なら答えなくていい」
「それなら何でも」
リリアは少し迷った。
「ノアは、昔のリリアのこと、今も好き?」
握っている手が僅かに強くなった。
「……好きだよ」
やっぱり。
少しだけ胸が痛む。
でも、ノアは続けた。
「たぶん、一生嫌いにはならない」
「そっか」
「忘れることもないと思う」
「うん」
「でも」
ノアが立ち止まる。
リリアも止まった。
「それと、君を好きなことは別なんだ」
「……私を?」
初めて聞いた言葉ではない。
ノアは以前にも言った。
好きだと。
あの時のリリアは、それを友達として受け取った。
今は。
同じようには聞こえなかった。
「うん」
ノアは笑わない。
「君が好き」
春の風が、青銀色の髪を揺らす。
「昔の誰かじゃなくて?」
「今ここにいる君」
「リリアだから?」
「それも違う」
ノアは少し考えてから、困ったように笑った。
「君がリリアじゃなくても好きになった、なんて証明はできないけどね」
「うん」
「でも僕が好きなのは、方向音痴なのに認めない君で、甘いものを見ると目がちょっと明るくなる君で、思ったことをそのまま言って僕を困らせる君だよ」
「……いっぱいある」
「まだある」
「もういい」
「照れてる?」
「分からない」
「顔赤いよ」
「暑い」
「春だよ」
「歩いたから」
「そういうことにしておく?」
「して」
ノアが笑う。
いつもの笑顔。
でも。
リリアは今、その笑顔を前よりずっと意識している。
「返事はいらないよ」
「いいの?」
「今はね」
「どうして?」
「君が僕に会いたいって思ってくれた。それだけで今日は十分だから」
その言葉が。
なぜか少し嫌だった。
「……十分なの?」
「うん」
「本当に?」
「リリア?」
「もっと欲しくない?」
ノアが黙った。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
「私がノアのこと好きって言ったら嬉しい?」
「……それは」
「嬉しくない?」
「嬉しいに決まってる」
「じゃあ十分じゃないじゃん」
ノアの目が大きくなる。
「欲しいなら欲しいって言えばいいのに」
「簡単に言うね」
「難しい?」
「僕には、ちょっとね」
「なんで?」
ノアはすぐには答えなかった。
繋いでいた手を見る。
「欲しがりすぎて、失くしたことがあるから」
小さな声だった。
「だから今は、君がここにいるだけでいいって思おうとしてる」
「思おうとしてる?」
「うん」
「本当は?」
ノアが笑った。
少しだけ。
寂しい笑顔。
「全部欲しいよ」
リリアの胸が鳴る。
「君が好きって言ってくれるのも、僕を選んでくれるのも、明日も明後日も一緒にいるのも。全部欲しい」
それなのに。
「でも、それを君に背負わせたくない」
リリアはしばらく黙った。
それから。
繋いでいた手を。
自分から握り直した。
「……リリア?」
「今日はこれ」
「これ?」
「手」
「うん」
「私が繋ぎたいから繋ぐ」
ノアが目を見開く。
「ノアが昔何回私みたいな人を好きだったとか、何回失ったとか、まだ全部知らない」
「うん」
「でも今日は関係ない」
握る。
「私が今、ノアと手を繋ぎたい」
ノアは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ俯いた。
「……ノア?」
「待って」
「何?」
「今、顔見ないで」
「なんで?」
「無理だから」
「何が?」
「嬉しすぎる」
リリアは。
見た。
「見るなって言ったのに」
「見たかった」
「ほんと、君は……」
ノアは笑っていた。
でも。
青い瞳の端が少し濡れていた。
リリアは何も言わなかった。
代わりに。
手を離さなかった。
*
帰り道。
学院の正門が見えてきた頃には、空が夕焼けに染まっていた。
「楽しかった」
リリアが言う。
「僕も」
「また行く?」
「……いいの?」
「なんで聞くの?」
「今日で満足したかもしれないから」
「してない」
「即答」
「また行きたい」
「二人で?」
「うん」
ノアは笑った。
「じゃあ次もデートだ」
「今日もデートだったの?」
「今さら!?」
「出かけるって言ってた」
「二人で休日に出かけて手まで繋いだんだよ!?」
「じゃあデート」
「軽いなあ」
「嫌?」
「最高」
正門前。
手を離す。
ほんの少し。
名残惜しいと思った。
その感覚に。
リリア自身が一番驚いた。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
ノアが数歩歩く。
「ノア」
呼ぶと。
すぐ振り返った。
「何?」
「今日」
少し迷う。
「ノアに会いたいって思ってよかった」
青い瞳が細くなる。
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみ、リリア」
今度こそ別れる。
女子寮へ向かいながら。
リリアは自分の手を見る。
もう繋がっていないのに。
まだ温かい。
六人とも大切だった。
その気持ちは変わらない。
でも。
今日。
自分が選んだのは。
ノアだった。
それだけのことなのに。
昨日までとは。
世界が少し違って見えた。
*
男子寮へ戻る途中。
ノアは一人になってから、ようやく足を止めた。
右手を見る。
何度も。
この手で彼女に触れた。
何度も守った。
何度も離した。
何度も届かなかった。
けれど今日。
彼女の方から握られた。
過去の約束でも。
記憶でも。
運命でもない。
今の彼女が。
自分で。
「……ずるいよ」
ノアは小さく笑った。
嬉しい。
それなのに。
怖い。
また失うかもしれない。
その恐怖は、十二の世界を越えても消えていない。
だからこそ。
ノアは自分の右手を強く握った。
今度は。
彼女のために死ぬことを。
愛だとは呼ばない。
まだ上手くできるかは分からない。
それでも。
彼女が今日、自分を選んでくれたのなら。
次は自分が。
生きる方を選ばなければならない。
彼女と。
同じ明日へ行くために。
ノアルート 第35章 終

