第三十一章 知らない私の物語
「君とは別に、かつて《リリア》と呼ばれた存在がいた」
ルシアンの言葉が、生徒会室へ静かに落ちた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
リリアは机の上に置かれた古い記録を見つめていた。黄ばんだ頁の一番上に、《第一個体――リリア》と書かれている。
自分の名前。
なのに、自分のことではない。
「……第一個体って、何?」
最初に出たのは、思っていたより普通の声だった。
「記録上の呼称だよ」
ルシアンは答える。
「僕も昨夜初めて見つけた。だから、まず最初に言っておく。これから話すことには、記録によって確認できた事実と、僕たちが覚えていること、それから僕の推測が混ざっている」
「僕たち?」
レオンハルトが反応した。
ルシアンは彼を見る。
「僕と、ノア、アレン、カイル」
空気が変わった。
リリアは三人を見る。
ノアは笑っていなかった。アレンは腕を組み、壁際で黙っている。カイルは視線を逸らさない。
そして、レオンハルトも彼らを見ていた。
「やっぱり」
小さな声だった。
「昨日、分かってはいたけど」
レオンハルトは苦笑した。
「僕だけじゃなかったんですね。知らないのは」
「私も知らない」
リリアが言った。
「私も」
セシルが続く。
レオンハルトが二人を見る。
「……そうだったね」
「三人」
リリアは指を三本立てた。
「昨日も言った」
「覚えてるよ」
「ならいい」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
ルシアンは椅子を引く。
「長くなる。座ろう」
「どれくらい?」
「君が途中で質問しなければ、それほど」
「する」
「だと思った」
七人が机を囲む。
リリアの右にはセシル。左にはノア。正面にルシアン。その隣にレオンハルト。アレンとカイルも、それぞれ椅子を引いた。
逃げ道がないように見えて。
でも、不思議と怖くはなかった。
「まず」
ルシアンが記録を開く。
「最初のリリアについて」
*
「彼女は、普通の人間として生まれたわけではない」
「作られたってこと?」
「記録を見る限りでは」
「誰に?」
「……人間に」
リリアは眉を寄せた。
「何のために?」
ルシアンは一瞬、言葉を選んだ。
「世界を存続させるため」
「大きい」
「そうだね」
「もうちょっと小さい話かと思った」
「例えば?」
「すごい魔法使いを作ろう、とか」
「結果としては近いかもしれない」
ルシアンは頁を指でなぞる。
「当時、この世界は滅亡に近い状態にあったらしい。原因については記録の欠損が多い。ただ、繰り返し出てくる言葉がある」
リリアは嫌な予感がした。
「黒い月?」
ルシアンの指が止まる。
「……そう」
室内が静かになる。
「私が見たやつ」
「あれと同じものかは、まだ断定できない。でも記録には《黒月》とある」
「それで世界が終わる?」
「その可能性が高い」
リリアは少し考える。
「最初のリリアは、それを止めるために作られた?」
「ああ」
「どうやって?」
「そこからが、昨日分かったことだ」
ルシアンが別の頁を開く。
「彼女を構成したものは、大きく二つ」
一つ目。
「生きたい、助かりたい、終わりたくないという、人々の願い」
「願いで人間が作れるの?」
「普通なら無理だよ」
「普通じゃなかった?」
「当時使われていた術式そのものが、今の魔法体系とは違う」
そして。
「もう一つ」
ルシアンの声が少し低くなった。
「一人の人間の魂、その半分」
リリアが瞬いた。
「半分?」
「ああ」
「半分取ったら、その人どうなるの?」
「……生きられる場合もある」
「場合も?」
「正常ではいられない可能性が高い」
リリアは記録へ視線を戻す。
「誰?」
ルシアンは答えなかった。
「魂を使われた人」
「記録では名前が消えている」
「分からない?」
「現時点では」
嘘ではない。
けれど。
ほんの一瞬。
ルシアンの指が強く頁を押さえたことに、リリアは気づいた。
「ルシアン先輩」
「何?」
「本当に?」
紫の瞳と紫の瞳がぶつかる。
数秒。
「……記録からは、分からない」
少し言い方が変わった。
リリアはそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、その二つで最初のリリアができた」
「そう考えられる」
「どんな人だったの?」
今度は。
ルシアンではなく。
隣のノアが息を呑んだ。
リリアはそちらを見る。
「ノアは知ってる?」
「……うん」
「会ったことある?」
「ある」
「アレン先輩も?」
「ああ」
「クロフォード先輩も」
「ある」
三人。
そして。
「ルシアン先輩も?」
「あるよ」
「じゃあ四人とも知ってるんだ」
ずっと。
自分の周りにいた四人が。
自分ではないリリアを知っている。
胸の奥が、少しだけ変な感じがした。
「似てた?」
ノアが答える。
「顔は」
「声は?」
「似てた」
「魔法は?」
「……似てるところもあった」
「性格は?」
今度はアレンが口を開いた。
「違う」
即答だった。
「そんなに?」
「ああ」
「どう違う?」
「お前より――」
アレンが言葉を止める。
「何?」
「……無茶苦茶だった」
「私もよく言われる」
「種類が違う」
「どんな?」
「自分を数に入れねえ」
リリアは意味が分からず首を傾げた。
「人を助ける時、自分が死ぬかもしれないって考えが最初から抜けてた」
アレンの声から、いつもの軽さが消えている。
「全員助けられるなら、自分一人くらいいいって本気で思ってる奴だった」
「……」
「だから嫌いだった」
「嫌い?」
「そういうところがな」
アレンはリリアを見ない。
「死ぬほど好きだったけど、死ぬほど嫌いだった」
その言葉に。
リリアは何も返せなかった。
過去の誰かへの恋。
それを目の前で聞くのは、思っていたより奇妙だった。
嫌ではない。
でも。
胸のどこかに、小さな棘が刺さる。
「アレン先輩は、その人が好きだったんだ」
「ああ」
否定しなかった。
「今も?」
アレンがようやく顔を上げた。
「忘れてねえ」
「それは、好きってこと?」
「違うとは言わねえ」
正直だった。
だからこそ。
「でも」
赤い瞳がリリアを見る。
「お前と混ぜる気もねえよ」
「……」
「最初は混ぜてた」
「そうなの?」
「ああ」
アレンは少し顔を顰める。
「似てる顔で、似てる声で、平気な顔して俺の前に出てきたからな」
「私何もしてない」
「知ってるよ」
「理不尽」
「だから悪かったって思ってる」
「謝ってない」
「……悪かった」
「許す」
「早えな」
「今は怒ってない」
「お前そういうとこ――」
アレンが何か言いかけ、やめた。
「何?」
「何でもねえ」
*
「世界は、一度で終わらなかった」
ルシアンが話を戻した。
「正確には、一度終わったあと、再構築された」
「作り直した?」
「そう」
「誰が?」
「……それも、まだ全部は話せない」
「秘密?」
「僕自身が関わっている」
リリアは黙った。
ルシアンは続ける。
「世界は再構築された。そして、そのたびにリリアも戻った」
「最初の人が?」
「そこが難しい」
「同じ人じゃない?」
「僕たちは、同じだと思っていた」
ノアが目を伏せる。
「十二回」
リリアが言った。
全員が彼女を見る。
「十二本の線」
「そう」
「十二回、世界が作り直された?」
「少なくとも記録上は」
「そのたびに、リリアがいた」
「ああ」
「ノアたちも?」
沈黙。
ノアが答える。
「いたよ」
「全部覚えてる?」
「僕はかなり」
「アレン先輩は?」
「ところどころ抜けてる。でも大体は」
「クロフォード先輩」
「覚えている」
「ルシアン先輩」
「僕も」
リリアは正面を見る。
「レオン先輩は?」
レオンハルトが静かに首を振る。
「僕は何も」
「本当に?」
「うん」
「でも、いた?」
今度はルシアンが答えた。
「いたよ」
レオンハルトの指先が僅かに動く。
「僕も、彼女を知っていたんですね」
「ああ」
「どんな関係だった?」
ルシアンは答えない。
ノアも。
アレンも。
カイルも。
その沈黙が。
何より分かりやすかった。
「……僕も好きだった?」
レオンハルトが苦笑した。
ルシアンが静かに答える。
「少なくとも、無関係ではなかった」
「随分ぼかしますね」
「君の過去を、僕が決めたくない」
「でも皆さんは覚えている」
「それでもだ」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから。
「分かりました」
「いいの?」
リリアが聞く。
「よくはないよ」
「怒ってる?」
「少し」
「誰に?」
「分からない」
レオンハルトは笑った。
「忘れている自分かもしれないし、僕だけ置いていった過去かもしれない」
そして。
「でも、今すぐ取り戻したいとは思わない」
「どうして?」
青い瞳がリリアを見る。
「昨日も言ったけど」
柔らかい声。
「僕が今、君を気にしている理由まで、過去の僕に渡したくないから」
胸が。
小さく鳴った。
「過去の僕が誰を好きだったとしても」
レオンハルトは笑う。
「今、僕が君と話して楽しいこととは別だからね」
「……そっか」
「うん」
それでいい気がした。
*
「十二回」
リリアは指で机を叩く。
「じゃあ今は十三回目?」
「僕たちもそう思っていた」
ルシアンが言う。
「昨日までは」
「違う?」
「記録がない」
「何の?」
「十三回目の再構築記録」
リリアの指が止まる。
「ないの?」
「どこにも」
「なくした?」
「可能性はある」
「でもルシアン先輩は、そう思ってない」
「……本当に分かりやすくなったな、僕」
「うん」
「少し困るね」
「答えて」
「思っていない」
ルシアンは十三本の線を描いた紙を出す。
「十二本は、中央へ向かっている」
「十三本目は外」
「そう」
「前に言ってた」
「昨日の記録には、さらに《独立》《新規魂》という言葉があった」
「新しい魂?」
「ああ」
リリアはしばらく考える。
「それ、私?」
「可能性がある」
「どれくらい?」
「数字にできるほど証拠はない」
「でも、ルシアン先輩はそう思ってる?」
「……かなり」
「じゃあ」
リリアはゆっくり言った。
「私は、十三人目のリリアじゃない?」
「その可能性が高い」
「最初のリリアの生まれ変わりでもない?」
「おそらく」
「十二回いたリリアの続きでもない?」
「僕は、そう考え始めている」
不思議だった。
怖いと思っていた。
自分が偽物だと言われるのかもしれないと。
でも。
実際に聞いた言葉は。
逆だった。
「じゃあ私」
リリアは自分の胸に手を当てる。
「本当に別人?」
「そうかもしれない」
「……」
少しだけ。
息が楽になった。
「リリア?」
セシルが顔を覗き込む。
「何?」
「笑ってる」
「私?」
「うん」
頬へ触れる。
確かに。
少し口元が上がっていた。
「なんでだろ」
「嬉しい?」
「分からない」
でも。
「偽物じゃなかった」
口にして。
自分で気づいた。
怖かったのだ。
誰かの代わりであることが。
みんなが見ているのが、本当は自分ではないことが。
「私、誰かの代わりじゃないんだ」
「最初からそう言ってるでしょ」
セシルが言った。
「うん」
「遅いよ」
「ごめん」
「謝ることじゃないけど」
セシルはリリアの手を取った。
温かい。
その時。
「一つ、いいですか」
セシルがルシアンを見る。
「もちろん」
「第一のリリアという人がいた」
「うん」
「世界が十二回繰り返された」
「ああ」
「四人はそれを覚えている」
「そうだね」
「レオン先輩も、その世界にはいた」
「ああ」
「今のリリアは、そこから独立して生まれた新しい魂かもしれない」
「現時点では、それが一番有力だ」
「分かりました」
セシルは一度頷いた。
そして。
「それで」
灰青の瞳が、静かに細くなる。
「今ここにいるリリアと、何の関係があるんですか?」
誰も答えなかった。
「セシル?」
リリアが隣を見る。
「だって、そうでしょ?」
セシルは手を離さない。
「昔の人が誰を好きだったとか、誰と何を約束したとか、世界を何回救ったとか」
ノアを見る。
アレン。
カイル。
ルシアン。
そしてレオンハルト。
「それは、その人の話ですよね」
「……そうだね」
ノアが小さく答えた。
「リリアは知らない」
「うん」
「覚えてないんじゃなくて」
セシルの声が少し強くなる。
「最初から経験してないのかもしれない」
リリアの指を握る力が僅かに強くなった。
「だったら」
セシルは言う。
「昔のリリアが誰を愛してたかなんて、この子には関係ないでしょう」
胸の奥で。
何かが大きく鳴った。
「……セシル」
「何?」
「かっこいい」
「今?」
「うん」
「真面目な話してるんだけど」
「でもかっこいい」
セシルの頬が少し赤くなる。
「……ありがとう」
「照れた」
「照れてない」
「赤い」
「リリア」
そのやり取りに。
アレンが小さく笑った。
「アルヴェインの言う通りだ」
セシルがアレンを見る。
「俺らが勝手に引きずってただけだ」
「アレン先輩」
「忘れろとは言われても無理だけどな」
アレンはリリアを見る。
「でも、お前に背負わせるもんじゃねえ」
「……うん」
ノアも頷いた。
「僕も」
笑っていない。
「過去があったから君に近づいた。それは否定しない」
「うん」
「でも、それを理由に君から何かをもらう権利があるとは思ってない」
カイルは長い間、黙っていた。
やがて。
「俺が一番、区別できていなかった」
低い声だった。
リリアが彼を見る。
「クロフォード先輩?」
「お前を見るたびに、過去を見ていた」
黒い瞳。
「また失うと思った」
「……」
「だから守ろうとした。お前が望んでいるかも考えずに」
カイルは一度目を閉じた。
「悪かった」
「謝るの?」
「ああ」
「じゃあ」
リリアは少し考える。
「今度から聞いて」
「何を」
「守っていいか」
「……」
「私は守られるの嫌いじゃない」
カイルが目を開く。
「でも、勝手なのは嫌」
「分かった」
「あと私も守る」
「それは――」
「勝手に禁止しないで」
「……分かった」
「よし」
「何でお前が満足そうなんだ」
「話まとまったから」
カイルの口元がほんの少し緩んだ。
*
「ルシアン先輩」
「何?」
「最初のリリアは、誰が好きだったの?」
空気が止まった。
「リリア」
ノアが驚く。
「気になる」
「聞いてどうするんだよ」
アレンが言う。
「分からない」
「じゃあ聞くなよ」
「でも気になる」
「お前な……」
ルシアンだけが黙っていた。
「知ってる?」
「知ってる」
「誰?」
長い沈黙。
ルシアンは眼鏡の奥からリリアを見る。
「僕だよ」
「……」
今度こそ。
完全に静かになった。
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「最初のリリアが?」
「僕を好きだった」
「……へえ」
「反応それだけ!?」
アレンが叫ぶ。
「だって」
リリアはルシアンを見る。
いつもと同じ。
紫の瞳。
眼鏡。
落ち着いた顔。
でも。
少しだけ。
悲しそうに見えた。
「ルシアン先輩は?」
「何?」
「好きだった?」
ルシアンの笑みが消えた。
「……愛していたよ」
静かな声だった。
「誰よりも」
胸の奥が。
ちくりとした。
今度は。
はっきり分かった。
「……やだ」
口から出た。
ルシアンが瞬く。
「何が?」
「分からない」
「リリア?」
「なんか嫌」
胸へ手を当てる。
「ここ変」
ノアが目を細める。
セシルも黙っている。
「病気?」
「違うと思うよ」
レオンハルトが笑いを堪えるような顔をした。
「じゃあ何?」
「自分で考えた方がいい」
「またそれ」
「大事なことだからね」
リリアは少し不満だった。
ルシアンはそんな彼女を見て。
ほんの少しだけ。
笑った。
「安心して」
「何が?」
「僕が愛した彼女と、君を同じだとは思っていない」
「……」
「それに」
ルシアンは眼鏡を押し上げる。
「今の僕が誰を好きになるかは、まだ僕の自由だろう?」
「……うん」
「君がそう言っていた」
「私?」
「自分で選ぶって」
「言った」
「僕もそうするよ」
なぜか。
胸の変な感じが。
少しだけ軽くなった。
*
「じゃあ最後」
リリアが言った。
「まだあるの?」
アレンが疲れた顔をする。
「大事」
「何だよ」
「私の名前」
ルシアンの表情が変わる。
「昨日言ってたよね」
「……聞いていたわけじゃないだろう」
「言ってない」
「じゃあ何で?」
「今思った」
「相変わらず怖い勘だな」
「何が?」
リリアは首を傾げる。
「私が最初のリリアと別人なら」
自分の胸を指す。
「どうして私もリリアなの?」
誰も答えない。
「偶然?」
「おそらく違う」
ルシアンが言う。
「じゃあ誰かがつけた?」
「その可能性はある」
「誰?」
「分からない」
「本当の名前ある?」
ルシアンは。
今度こそ。
目を見開いた。
「あるの?」
リリアが身を乗り出す。
「……記録に」
「何て?」
「読めなかった」
「えー」
「僕のせいじゃないよ」
「途中まで?」
「《独立個体識別名》という表記だけ」
「そのあとが消えた?」
「そう」
「じゃあ探す」
「簡単に言うね」
「だって私の名前でしょ」
リリアは笑った。
「知りたい」
怖くない。
むしろ。
少し楽しみだった。
「リリアじゃない名前」
セシルが隣で聞く。
「もし見つかったら、そっちにするの?」
「分からない」
「そっか」
「でも」
リリアは少し考える。
「リリアも好き」
十五年間。
呼ばれてきた名前。
父も母も。
友達も。
今ここにいるみんなも。
自分を呼んできた名前。
「だから捨てない」
「うん」
「でも、もう一個あるなら」
紫の瞳が輝く。
「それも私のものにする」
ルシアンが笑った。
「欲張りだね」
「今日も言われた」
「知ってる」
「悪い?」
「いや」
ルシアンは静かに首を振る。
「君らしいよ」
*
話が終わった頃には。
外はすっかり暗くなっていた。
「お腹すいた」
「さっきあれだけ食っただろ!」
アレンが叫ぶ。
「頭使った」
「どこで!?」
「いっぱい」
「糖分消費したのかもね」
ノアが笑う。
「苺?」
「今日はもう駄目」
セシルが止める。
「じゃあパン」
「それなら」
「寮まで送る」
カイルが立つ。
「全員で?」
「……」
「七人?」
「何でそうなる」
「全員で帰るって言った」
「実戦祭は終わったぞ」
「でも帰る」
レオンハルトが笑う。
「じゃあ行こうか」
「王子まで乗るな」
「王子やめてって言われてるんだけど」
「レオン先輩」
リリアが呼ぶ。
「ほら」
「嬉しそう」
「少しね」
ルシアンも記録を閉じた。
「僕も途中まで行こう」
「七人」
リリアが満足そうに言う。
「多いな」
アレンがぼやく。
「嫌?」
「嫌じゃねえ」
「じゃあいい」
生徒会室を出る。
長い廊下。
七人分の足音。
リリアは真ん中を歩いていた。
自分ではないリリアがいた。
世界は十二回繰り返された。
四人はそれを覚えている。
レオンハルトは忘れている。
セシルは、そもそもそこにいない。
そして自分は。
その誰とも違う。
怖い話のはずだった。
でも。
今は少しだけ。
嬉しい。
自分には。
まだ知らない名前がある。
まだ知らない過去ではなく。
これから知る、自分自身のことがある。
「リリア」
誰かが呼んだ。
「何?」
振り返る。
六人全員がこちらを見た。
「……誰?」
「僕」
ノアが手を上げる。
「何?」
「呼んだだけ」
「変なの」
「うん」
ノアは笑った。
「呼びたかったから」
リリアも笑う。
今は。
この名前でいい。
いつか。
本当の名前を知る日が来ても。
今日まで「リリア」と呼ばれて振り返った自分が。
消えるわけではないから。
*
その夜。
学院地下。
誰もいない記録庫で。
閉じられていたはずの古い本が。
ひとりでに開いた。
頁が捲れる。
一枚。
二枚。
最後の白紙。
淡い光が浮かぶ。
《独立個体識別名――》
昨日は。
そこまでだった。
けれど今夜。
その先に。
一文字。
また一文字。
新しい文字が刻まれていく。
《E》
そして。
《L》
次。
《I》
まだ。
誰も見ていない。
彼女自身さえ知らない。
けれど。
その名前は確かに。
世界のどこかに。
存在していた。
「君とは別に、かつて《リリア》と呼ばれた存在がいた」
ルシアンの言葉が、生徒会室へ静かに落ちた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
リリアは机の上に置かれた古い記録を見つめていた。黄ばんだ頁の一番上に、《第一個体――リリア》と書かれている。
自分の名前。
なのに、自分のことではない。
「……第一個体って、何?」
最初に出たのは、思っていたより普通の声だった。
「記録上の呼称だよ」
ルシアンは答える。
「僕も昨夜初めて見つけた。だから、まず最初に言っておく。これから話すことには、記録によって確認できた事実と、僕たちが覚えていること、それから僕の推測が混ざっている」
「僕たち?」
レオンハルトが反応した。
ルシアンは彼を見る。
「僕と、ノア、アレン、カイル」
空気が変わった。
リリアは三人を見る。
ノアは笑っていなかった。アレンは腕を組み、壁際で黙っている。カイルは視線を逸らさない。
そして、レオンハルトも彼らを見ていた。
「やっぱり」
小さな声だった。
「昨日、分かってはいたけど」
レオンハルトは苦笑した。
「僕だけじゃなかったんですね。知らないのは」
「私も知らない」
リリアが言った。
「私も」
セシルが続く。
レオンハルトが二人を見る。
「……そうだったね」
「三人」
リリアは指を三本立てた。
「昨日も言った」
「覚えてるよ」
「ならいい」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
ルシアンは椅子を引く。
「長くなる。座ろう」
「どれくらい?」
「君が途中で質問しなければ、それほど」
「する」
「だと思った」
七人が机を囲む。
リリアの右にはセシル。左にはノア。正面にルシアン。その隣にレオンハルト。アレンとカイルも、それぞれ椅子を引いた。
逃げ道がないように見えて。
でも、不思議と怖くはなかった。
「まず」
ルシアンが記録を開く。
「最初のリリアについて」
*
「彼女は、普通の人間として生まれたわけではない」
「作られたってこと?」
「記録を見る限りでは」
「誰に?」
「……人間に」
リリアは眉を寄せた。
「何のために?」
ルシアンは一瞬、言葉を選んだ。
「世界を存続させるため」
「大きい」
「そうだね」
「もうちょっと小さい話かと思った」
「例えば?」
「すごい魔法使いを作ろう、とか」
「結果としては近いかもしれない」
ルシアンは頁を指でなぞる。
「当時、この世界は滅亡に近い状態にあったらしい。原因については記録の欠損が多い。ただ、繰り返し出てくる言葉がある」
リリアは嫌な予感がした。
「黒い月?」
ルシアンの指が止まる。
「……そう」
室内が静かになる。
「私が見たやつ」
「あれと同じものかは、まだ断定できない。でも記録には《黒月》とある」
「それで世界が終わる?」
「その可能性が高い」
リリアは少し考える。
「最初のリリアは、それを止めるために作られた?」
「ああ」
「どうやって?」
「そこからが、昨日分かったことだ」
ルシアンが別の頁を開く。
「彼女を構成したものは、大きく二つ」
一つ目。
「生きたい、助かりたい、終わりたくないという、人々の願い」
「願いで人間が作れるの?」
「普通なら無理だよ」
「普通じゃなかった?」
「当時使われていた術式そのものが、今の魔法体系とは違う」
そして。
「もう一つ」
ルシアンの声が少し低くなった。
「一人の人間の魂、その半分」
リリアが瞬いた。
「半分?」
「ああ」
「半分取ったら、その人どうなるの?」
「……生きられる場合もある」
「場合も?」
「正常ではいられない可能性が高い」
リリアは記録へ視線を戻す。
「誰?」
ルシアンは答えなかった。
「魂を使われた人」
「記録では名前が消えている」
「分からない?」
「現時点では」
嘘ではない。
けれど。
ほんの一瞬。
ルシアンの指が強く頁を押さえたことに、リリアは気づいた。
「ルシアン先輩」
「何?」
「本当に?」
紫の瞳と紫の瞳がぶつかる。
数秒。
「……記録からは、分からない」
少し言い方が変わった。
リリアはそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、その二つで最初のリリアができた」
「そう考えられる」
「どんな人だったの?」
今度は。
ルシアンではなく。
隣のノアが息を呑んだ。
リリアはそちらを見る。
「ノアは知ってる?」
「……うん」
「会ったことある?」
「ある」
「アレン先輩も?」
「ああ」
「クロフォード先輩も」
「ある」
三人。
そして。
「ルシアン先輩も?」
「あるよ」
「じゃあ四人とも知ってるんだ」
ずっと。
自分の周りにいた四人が。
自分ではないリリアを知っている。
胸の奥が、少しだけ変な感じがした。
「似てた?」
ノアが答える。
「顔は」
「声は?」
「似てた」
「魔法は?」
「……似てるところもあった」
「性格は?」
今度はアレンが口を開いた。
「違う」
即答だった。
「そんなに?」
「ああ」
「どう違う?」
「お前より――」
アレンが言葉を止める。
「何?」
「……無茶苦茶だった」
「私もよく言われる」
「種類が違う」
「どんな?」
「自分を数に入れねえ」
リリアは意味が分からず首を傾げた。
「人を助ける時、自分が死ぬかもしれないって考えが最初から抜けてた」
アレンの声から、いつもの軽さが消えている。
「全員助けられるなら、自分一人くらいいいって本気で思ってる奴だった」
「……」
「だから嫌いだった」
「嫌い?」
「そういうところがな」
アレンはリリアを見ない。
「死ぬほど好きだったけど、死ぬほど嫌いだった」
その言葉に。
リリアは何も返せなかった。
過去の誰かへの恋。
それを目の前で聞くのは、思っていたより奇妙だった。
嫌ではない。
でも。
胸のどこかに、小さな棘が刺さる。
「アレン先輩は、その人が好きだったんだ」
「ああ」
否定しなかった。
「今も?」
アレンがようやく顔を上げた。
「忘れてねえ」
「それは、好きってこと?」
「違うとは言わねえ」
正直だった。
だからこそ。
「でも」
赤い瞳がリリアを見る。
「お前と混ぜる気もねえよ」
「……」
「最初は混ぜてた」
「そうなの?」
「ああ」
アレンは少し顔を顰める。
「似てる顔で、似てる声で、平気な顔して俺の前に出てきたからな」
「私何もしてない」
「知ってるよ」
「理不尽」
「だから悪かったって思ってる」
「謝ってない」
「……悪かった」
「許す」
「早えな」
「今は怒ってない」
「お前そういうとこ――」
アレンが何か言いかけ、やめた。
「何?」
「何でもねえ」
*
「世界は、一度で終わらなかった」
ルシアンが話を戻した。
「正確には、一度終わったあと、再構築された」
「作り直した?」
「そう」
「誰が?」
「……それも、まだ全部は話せない」
「秘密?」
「僕自身が関わっている」
リリアは黙った。
ルシアンは続ける。
「世界は再構築された。そして、そのたびにリリアも戻った」
「最初の人が?」
「そこが難しい」
「同じ人じゃない?」
「僕たちは、同じだと思っていた」
ノアが目を伏せる。
「十二回」
リリアが言った。
全員が彼女を見る。
「十二本の線」
「そう」
「十二回、世界が作り直された?」
「少なくとも記録上は」
「そのたびに、リリアがいた」
「ああ」
「ノアたちも?」
沈黙。
ノアが答える。
「いたよ」
「全部覚えてる?」
「僕はかなり」
「アレン先輩は?」
「ところどころ抜けてる。でも大体は」
「クロフォード先輩」
「覚えている」
「ルシアン先輩」
「僕も」
リリアは正面を見る。
「レオン先輩は?」
レオンハルトが静かに首を振る。
「僕は何も」
「本当に?」
「うん」
「でも、いた?」
今度はルシアンが答えた。
「いたよ」
レオンハルトの指先が僅かに動く。
「僕も、彼女を知っていたんですね」
「ああ」
「どんな関係だった?」
ルシアンは答えない。
ノアも。
アレンも。
カイルも。
その沈黙が。
何より分かりやすかった。
「……僕も好きだった?」
レオンハルトが苦笑した。
ルシアンが静かに答える。
「少なくとも、無関係ではなかった」
「随分ぼかしますね」
「君の過去を、僕が決めたくない」
「でも皆さんは覚えている」
「それでもだ」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから。
「分かりました」
「いいの?」
リリアが聞く。
「よくはないよ」
「怒ってる?」
「少し」
「誰に?」
「分からない」
レオンハルトは笑った。
「忘れている自分かもしれないし、僕だけ置いていった過去かもしれない」
そして。
「でも、今すぐ取り戻したいとは思わない」
「どうして?」
青い瞳がリリアを見る。
「昨日も言ったけど」
柔らかい声。
「僕が今、君を気にしている理由まで、過去の僕に渡したくないから」
胸が。
小さく鳴った。
「過去の僕が誰を好きだったとしても」
レオンハルトは笑う。
「今、僕が君と話して楽しいこととは別だからね」
「……そっか」
「うん」
それでいい気がした。
*
「十二回」
リリアは指で机を叩く。
「じゃあ今は十三回目?」
「僕たちもそう思っていた」
ルシアンが言う。
「昨日までは」
「違う?」
「記録がない」
「何の?」
「十三回目の再構築記録」
リリアの指が止まる。
「ないの?」
「どこにも」
「なくした?」
「可能性はある」
「でもルシアン先輩は、そう思ってない」
「……本当に分かりやすくなったな、僕」
「うん」
「少し困るね」
「答えて」
「思っていない」
ルシアンは十三本の線を描いた紙を出す。
「十二本は、中央へ向かっている」
「十三本目は外」
「そう」
「前に言ってた」
「昨日の記録には、さらに《独立》《新規魂》という言葉があった」
「新しい魂?」
「ああ」
リリアはしばらく考える。
「それ、私?」
「可能性がある」
「どれくらい?」
「数字にできるほど証拠はない」
「でも、ルシアン先輩はそう思ってる?」
「……かなり」
「じゃあ」
リリアはゆっくり言った。
「私は、十三人目のリリアじゃない?」
「その可能性が高い」
「最初のリリアの生まれ変わりでもない?」
「おそらく」
「十二回いたリリアの続きでもない?」
「僕は、そう考え始めている」
不思議だった。
怖いと思っていた。
自分が偽物だと言われるのかもしれないと。
でも。
実際に聞いた言葉は。
逆だった。
「じゃあ私」
リリアは自分の胸に手を当てる。
「本当に別人?」
「そうかもしれない」
「……」
少しだけ。
息が楽になった。
「リリア?」
セシルが顔を覗き込む。
「何?」
「笑ってる」
「私?」
「うん」
頬へ触れる。
確かに。
少し口元が上がっていた。
「なんでだろ」
「嬉しい?」
「分からない」
でも。
「偽物じゃなかった」
口にして。
自分で気づいた。
怖かったのだ。
誰かの代わりであることが。
みんなが見ているのが、本当は自分ではないことが。
「私、誰かの代わりじゃないんだ」
「最初からそう言ってるでしょ」
セシルが言った。
「うん」
「遅いよ」
「ごめん」
「謝ることじゃないけど」
セシルはリリアの手を取った。
温かい。
その時。
「一つ、いいですか」
セシルがルシアンを見る。
「もちろん」
「第一のリリアという人がいた」
「うん」
「世界が十二回繰り返された」
「ああ」
「四人はそれを覚えている」
「そうだね」
「レオン先輩も、その世界にはいた」
「ああ」
「今のリリアは、そこから独立して生まれた新しい魂かもしれない」
「現時点では、それが一番有力だ」
「分かりました」
セシルは一度頷いた。
そして。
「それで」
灰青の瞳が、静かに細くなる。
「今ここにいるリリアと、何の関係があるんですか?」
誰も答えなかった。
「セシル?」
リリアが隣を見る。
「だって、そうでしょ?」
セシルは手を離さない。
「昔の人が誰を好きだったとか、誰と何を約束したとか、世界を何回救ったとか」
ノアを見る。
アレン。
カイル。
ルシアン。
そしてレオンハルト。
「それは、その人の話ですよね」
「……そうだね」
ノアが小さく答えた。
「リリアは知らない」
「うん」
「覚えてないんじゃなくて」
セシルの声が少し強くなる。
「最初から経験してないのかもしれない」
リリアの指を握る力が僅かに強くなった。
「だったら」
セシルは言う。
「昔のリリアが誰を愛してたかなんて、この子には関係ないでしょう」
胸の奥で。
何かが大きく鳴った。
「……セシル」
「何?」
「かっこいい」
「今?」
「うん」
「真面目な話してるんだけど」
「でもかっこいい」
セシルの頬が少し赤くなる。
「……ありがとう」
「照れた」
「照れてない」
「赤い」
「リリア」
そのやり取りに。
アレンが小さく笑った。
「アルヴェインの言う通りだ」
セシルがアレンを見る。
「俺らが勝手に引きずってただけだ」
「アレン先輩」
「忘れろとは言われても無理だけどな」
アレンはリリアを見る。
「でも、お前に背負わせるもんじゃねえ」
「……うん」
ノアも頷いた。
「僕も」
笑っていない。
「過去があったから君に近づいた。それは否定しない」
「うん」
「でも、それを理由に君から何かをもらう権利があるとは思ってない」
カイルは長い間、黙っていた。
やがて。
「俺が一番、区別できていなかった」
低い声だった。
リリアが彼を見る。
「クロフォード先輩?」
「お前を見るたびに、過去を見ていた」
黒い瞳。
「また失うと思った」
「……」
「だから守ろうとした。お前が望んでいるかも考えずに」
カイルは一度目を閉じた。
「悪かった」
「謝るの?」
「ああ」
「じゃあ」
リリアは少し考える。
「今度から聞いて」
「何を」
「守っていいか」
「……」
「私は守られるの嫌いじゃない」
カイルが目を開く。
「でも、勝手なのは嫌」
「分かった」
「あと私も守る」
「それは――」
「勝手に禁止しないで」
「……分かった」
「よし」
「何でお前が満足そうなんだ」
「話まとまったから」
カイルの口元がほんの少し緩んだ。
*
「ルシアン先輩」
「何?」
「最初のリリアは、誰が好きだったの?」
空気が止まった。
「リリア」
ノアが驚く。
「気になる」
「聞いてどうするんだよ」
アレンが言う。
「分からない」
「じゃあ聞くなよ」
「でも気になる」
「お前な……」
ルシアンだけが黙っていた。
「知ってる?」
「知ってる」
「誰?」
長い沈黙。
ルシアンは眼鏡の奥からリリアを見る。
「僕だよ」
「……」
今度こそ。
完全に静かになった。
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「最初のリリアが?」
「僕を好きだった」
「……へえ」
「反応それだけ!?」
アレンが叫ぶ。
「だって」
リリアはルシアンを見る。
いつもと同じ。
紫の瞳。
眼鏡。
落ち着いた顔。
でも。
少しだけ。
悲しそうに見えた。
「ルシアン先輩は?」
「何?」
「好きだった?」
ルシアンの笑みが消えた。
「……愛していたよ」
静かな声だった。
「誰よりも」
胸の奥が。
ちくりとした。
今度は。
はっきり分かった。
「……やだ」
口から出た。
ルシアンが瞬く。
「何が?」
「分からない」
「リリア?」
「なんか嫌」
胸へ手を当てる。
「ここ変」
ノアが目を細める。
セシルも黙っている。
「病気?」
「違うと思うよ」
レオンハルトが笑いを堪えるような顔をした。
「じゃあ何?」
「自分で考えた方がいい」
「またそれ」
「大事なことだからね」
リリアは少し不満だった。
ルシアンはそんな彼女を見て。
ほんの少しだけ。
笑った。
「安心して」
「何が?」
「僕が愛した彼女と、君を同じだとは思っていない」
「……」
「それに」
ルシアンは眼鏡を押し上げる。
「今の僕が誰を好きになるかは、まだ僕の自由だろう?」
「……うん」
「君がそう言っていた」
「私?」
「自分で選ぶって」
「言った」
「僕もそうするよ」
なぜか。
胸の変な感じが。
少しだけ軽くなった。
*
「じゃあ最後」
リリアが言った。
「まだあるの?」
アレンが疲れた顔をする。
「大事」
「何だよ」
「私の名前」
ルシアンの表情が変わる。
「昨日言ってたよね」
「……聞いていたわけじゃないだろう」
「言ってない」
「じゃあ何で?」
「今思った」
「相変わらず怖い勘だな」
「何が?」
リリアは首を傾げる。
「私が最初のリリアと別人なら」
自分の胸を指す。
「どうして私もリリアなの?」
誰も答えない。
「偶然?」
「おそらく違う」
ルシアンが言う。
「じゃあ誰かがつけた?」
「その可能性はある」
「誰?」
「分からない」
「本当の名前ある?」
ルシアンは。
今度こそ。
目を見開いた。
「あるの?」
リリアが身を乗り出す。
「……記録に」
「何て?」
「読めなかった」
「えー」
「僕のせいじゃないよ」
「途中まで?」
「《独立個体識別名》という表記だけ」
「そのあとが消えた?」
「そう」
「じゃあ探す」
「簡単に言うね」
「だって私の名前でしょ」
リリアは笑った。
「知りたい」
怖くない。
むしろ。
少し楽しみだった。
「リリアじゃない名前」
セシルが隣で聞く。
「もし見つかったら、そっちにするの?」
「分からない」
「そっか」
「でも」
リリアは少し考える。
「リリアも好き」
十五年間。
呼ばれてきた名前。
父も母も。
友達も。
今ここにいるみんなも。
自分を呼んできた名前。
「だから捨てない」
「うん」
「でも、もう一個あるなら」
紫の瞳が輝く。
「それも私のものにする」
ルシアンが笑った。
「欲張りだね」
「今日も言われた」
「知ってる」
「悪い?」
「いや」
ルシアンは静かに首を振る。
「君らしいよ」
*
話が終わった頃には。
外はすっかり暗くなっていた。
「お腹すいた」
「さっきあれだけ食っただろ!」
アレンが叫ぶ。
「頭使った」
「どこで!?」
「いっぱい」
「糖分消費したのかもね」
ノアが笑う。
「苺?」
「今日はもう駄目」
セシルが止める。
「じゃあパン」
「それなら」
「寮まで送る」
カイルが立つ。
「全員で?」
「……」
「七人?」
「何でそうなる」
「全員で帰るって言った」
「実戦祭は終わったぞ」
「でも帰る」
レオンハルトが笑う。
「じゃあ行こうか」
「王子まで乗るな」
「王子やめてって言われてるんだけど」
「レオン先輩」
リリアが呼ぶ。
「ほら」
「嬉しそう」
「少しね」
ルシアンも記録を閉じた。
「僕も途中まで行こう」
「七人」
リリアが満足そうに言う。
「多いな」
アレンがぼやく。
「嫌?」
「嫌じゃねえ」
「じゃあいい」
生徒会室を出る。
長い廊下。
七人分の足音。
リリアは真ん中を歩いていた。
自分ではないリリアがいた。
世界は十二回繰り返された。
四人はそれを覚えている。
レオンハルトは忘れている。
セシルは、そもそもそこにいない。
そして自分は。
その誰とも違う。
怖い話のはずだった。
でも。
今は少しだけ。
嬉しい。
自分には。
まだ知らない名前がある。
まだ知らない過去ではなく。
これから知る、自分自身のことがある。
「リリア」
誰かが呼んだ。
「何?」
振り返る。
六人全員がこちらを見た。
「……誰?」
「僕」
ノアが手を上げる。
「何?」
「呼んだだけ」
「変なの」
「うん」
ノアは笑った。
「呼びたかったから」
リリアも笑う。
今は。
この名前でいい。
いつか。
本当の名前を知る日が来ても。
今日まで「リリア」と呼ばれて振り返った自分が。
消えるわけではないから。
*
その夜。
学院地下。
誰もいない記録庫で。
閉じられていたはずの古い本が。
ひとりでに開いた。
頁が捲れる。
一枚。
二枚。
最後の白紙。
淡い光が浮かぶ。
《独立個体識別名――》
昨日は。
そこまでだった。
けれど今夜。
その先に。
一文字。
また一文字。
新しい文字が刻まれていく。
《E》
そして。
《L》
次。
《I》
まだ。
誰も見ていない。
彼女自身さえ知らない。
けれど。
その名前は確かに。
世界のどこかに。
存在していた。

