魔法より、君に恋をする。

翌朝、リリアはいつもより早く寮を出た。

 昨夜のことを全員に話すと決めた以上、忘れないうちに伝えたかったからだ。

 もっとも、忘れようとして忘れられるような出来事でもない。

 黒い亀裂のような光。

 突然熱を持った方位磁針。

 そして、自分の口から勝手に出た言葉。

『黒い、月?』

 なぜそう思ったのかは、今も分からない。

「……」

 歩きながら、ポケットの上から方位磁針へ触れる。

 今は冷たい。

「壊れてないよね」

「何が?」

「わっ」

 真横から声がして、リリアは思わず一歩離れた。

 いつの間にかノアがいた。

「びっくりした」

「ごめん。三回くらい呼んだんだけど」

「考え事してた」

「珍しい」

「私も考え事くらいする」

「知ってるよ」

 ノアは笑いながら、リリアの顔を覗き込む。

「でも、朝からそんな顔するのは珍しい」

「どんな顔?」

「難しい本を読んでる時みたいな顔」

「分かりにくい」

「眉間にちょっと皺が寄ってる」

 言われて触ってみる。

「ほんと?」

「うん」

「消えた?」

「消えた」

「よかった」

「気にするところそこなんだ」

 ノアが笑う。

 いつもと同じ。

 そのことに少し安心してから、リリアは思い出した。

「ノア」

「うん?」

「これ」

 ポケットから銀色の方位磁針を取り出す。

「昨日、変だった」

 ノアの表情が変わった。

「どう変だった?」

 声は穏やかだった。

 けれど、笑いが消えている。

「夜、針が北じゃない方を向いた」

「どっち?」

「王都の外」

「それから?」

「熱くなった」

「リリアは?」

「ちょっと熱かった」

「火傷は?」

「してない」

「見せて」

「手?」

「うん」

 差し出すと、ノアはリリアの右手を取った。

 掌を上に向け、指先まで確認する。

「何もないでしょ?」

「……ないね」

「だから大丈夫」

「それで終わりじゃないでしょ」

 ノアが手を離す。

「何を見たの?」

 リリアは少し驚いた。

「なんで見たって分かったの?」

「顔」

「そんなに出てる?」

「僕にはね」

 さらりと言われて、少しだけ返事に困る。

「……空に黒い光が出た」

「黒い?」

「亀裂みたいなやつ。一瞬だけ」

「それだけ?」

「うん。でも」

 リリアは迷った。

「黒い月って思った」

 ノアの足が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、今度は見逃さなかった。

「知ってる?」

「……」

「ノア」

「知ってる」

 初めてだった。

 こんなにあっさり認めたのは。

 リリアも足を止める。

「何?」

 ノアはすぐには答えなかった。

「今日、みんなに話すんでしょ?」

「そのつもり」

「じゃあ、その時に僕も話す」

「今は?」

「二人きりでは話したくない」

「なんで?」

 ノアは少し考えてから答えた。

「怖くなるから」

 冗談ではなかった。

 リリアはそれ以上聞かなかった。

「分かった」

「……聞かないんだ」

「みんなに話すって言ったから」

「そっか」

「でも逃げたら追いかける」

「怖いなあ」

「足速い?」

「速いよ」

「じゃあ魔法使う」

「それは反則じゃない?」

「捕まればいい」

 ノアが吹き出した。

「分かった。逃げないよ」

「うん」

 そして二人はまた歩き出した。

 少しだけ近い距離で。