激しい雨の音が、古いアパートの窓を叩いていた。午後十一時。佐々木彩夏(あやか)は、バイト帰りの濡れたローファーを脱ぎ捨てて、小さなワンルームの灯りをつけた。テレビをつけると、画面の中では今をときめく5人組アイドルグループ『マゼアオ』が歌っている。画面の真ん中で不敵に微笑むのは、絶対的センターの青野颯太(あおのそうた)。「……遠い世界の人」そう呟いてテレビを消し、お湯を沸かそうとしたその時だった。ベランダに続く窓のすぐ外、暗い通路から、ゴトッと鈍い音が響いた。泥棒かと思って身をすくめる。しかし、聞こえてきたのは苦しげな荒い呼吸。恐る恐るカーテンを開け、すりガラスの向こうを覗き込んだ彩夏は、息を呑んだ。そこに座り込んでいたのは、びしょ濡れで、黒いマスクを顎に引っ掛けた男。つい一分前、テレビの液晶越しに見ていたはずの――青野颯太、その人だった。「……だれ、か」颯太は顔を上げ、焦点の定まらない目で彩夏を見つめた。頬には薄い擦り傷があり、息は信じられないほど荒い。パニックになりながらも、彩夏は反射的に鍵を開け、彼を室内に引きずり込んだ。「ちょっと、大丈夫ですか!? あなた、青野……」「静かに」颯太は彩夏の言葉を遮るように、濡れた冷たい手で彼女の口を塞いだ。驚くほど強い力だった。「頼むから、静かにして。……追われてるんだ。ストーカーか、週刊誌か、もう分かんないけど」カーテンの隙間から外を覗く彼の横顔は、テレビで見せる甘い王子様のそれではない。獲物を警戒する肉食獣のような、鋭く、危うい光を宿していた。「一晩だけでいい。匿って」「無理です! あなたみたいな有名人、もしバレたら私まで……」「バレなきゃいいだろ?」颯太はふっと、歪んだ笑みを浮かべた。そのまま、張り詰めていた糸が切れたように彩夏の肩にドサリと倒れ込んでくる。熱い。ものすごい熱がある。それが、すべての理性が狂い出す始まりだった。翌朝、熱が下がった颯太は、帰るどころか我が物顔で彩夏のベッドに寝転んでいた。「帰ってください」と言う彩夏の腕を掴み、ベッドに引きずり下ろす。至近距離で見つめられる国宝級の顔。心臓が、耳の奥でうるさく跳ねた。「やだ。俺、あの息が詰まる世界に戻りたくない。ねえ、俺をここに置いてよ。お礼に、君が欲しいもの何でもあげるから。……それとも、俺じゃ不満?」意地悪く微笑む彼の瞳の奥に、深い孤独と、執着の炎が見えた。見つかれば、彼のキャリアは終わり、自分の日常も崩壊する。分かっているのに、彼の伸ばしてきた指先が髪に触れた瞬間、彩夏の体から拒絶の力が抜けていく。これは恋なんて可愛いものじゃない。すべてを壊しかねない、制御不能な破滅の始まりだった。
