学校に着いたのは、3限の授業があと15分程で終わる頃だった。
陽葵が向かったのは自教室ではなく、5号館の校舎。
購買のおばちゃんはまだいない。3階まで階段を駆け上がり、人気のない長い廊下を進む。顎先に滴る汗を手の甲で拭い、第2個別指導室のドアをそっと開ける。
しかし、そこには誰もいなかった。
窓を開け放つと、裏庭の湿った空気が吸い込まれ、白いカーテンが大きく揺れた。室内にこもっていた熱気が柔らかく冷やされていく。
壁の時計を見上げると、3限が終わるまであと5分程だった。今から教室に戻れば、ちょうど登校してきたように装えるだろう。
開けたばかりのサッシを閉め、鍵をかける。カチリ、金属音が響いた――その直後だった。
「陽葵」
背後から名前を呼ばれた。ドキン、心臓が激しく震える。
この声は、――……
確かめたくて、その顔が見たくて、振り返ろうとしたら後ろから抱きしめられた。
顔は見えない。だけど、確信する。
この温もりと、記憶に染みついた懐かしい匂いは、彼の――……
「大丈夫?」
耳元で、優しく撫でるような声が問いかけてくる。陽葵は必死に首を横に振った。
大丈夫じゃない。大丈夫じゃないから、お願いだから――……
言いたいことは溢れるほど頭に浮かぶのに、喉の奥に引っかかって声にならない。
「だよね」
彼は罰が悪そうに苦笑いする。
「でも、大丈夫だから」
頭をポンポンと優しく撫でる。陽葵の身体を愛おしそうに包み込む。
「ごめんね」
そして、二人の間に残酷な境界線を引く。
言いたいことを何もかも伝えられたところで、陽葵の願いが叶うことはない。彼が陽葵の気持ちに応えてくれることはもうないのだと鮮烈に理解する。
「ごめんね」
陽葵を抱きしめたまま、彼は何度も繰り返す。ごめんね、陽葵。ごめん。それは牽制であり、優しさ。だから、陽葵は何も言い返せない。
「でも、大丈夫だから」
そう言い残し、陽葵の背中を覆っていた温もりがゆっくりと離れていく。
「待って、行かないで……っ!」
呪いが解けたように、その言葉はようやく声となって飛び出した。悲鳴のような叫びが狭い教室に響き渡る。
名前を叫んでも、彼は立ち止まってはくれない。
陽葵は身を翻し、離れていくその背中を追う。必死に手を伸ばす。
大丈夫じゃないから。お願いだから。ここにいて。さっきまで声にならなかった言葉が、今更になってすらすらと口をついて出てくる。
もう一度、彼の名前を呼ぶ。何度も、叫ぶ。
だけど、彼はいない。もう、いない。
