お母さんが目を覚ましたのは、翌日の昼頃だった。
意識はまだ朦朧としていて、主治医に今日の日付を問われ、「12月6日」と答えた。今日は7月15日なのに。
「お子さんの名前は分かりますか?」
お母さんはぼんやりと考え込んでから、こうすけ、と答えた。その傍らに立っているのは、「はるき」なのに。
目が覚めたばかりだもの、と看護師が陽葵の背中を優しくさする。
「あのまま目を覚まさない可能性だってあったんだから、まずは喜びましょう」
励ましのつもりの言葉が、ぐさり、胸に突き刺さる。まるで崖の淵に立っているようだった。少しでも気を抜けば暗い谷底に吸い込まれていってしまいそうな不安定さが、足元を竦ませる。もしまた眠ってしまったら、次はもう起きないかもしれない。恐ろしい想像が脳裏を過る。
主治医や看護師が去った病室で、お母さんは疲れたように息を吐き、目を閉じてベッドに横たわっていた。
「お母さん」
呼びかけると、閉じていた瞼がゆっくりと開き、焦点の定まらない目で天井を見上げた。目の前にいるのはお母さんのはずなのに、生気の宿らない表情のせいでまるで別人のように見える。
「なぁに?」
酸素マスク越しの声は、少し苦しそうだった。
「陽葵だよ」
「はるき……」
お母さんがぼんやりと繰り返す。しかし、それを名前だと認識して言ったのではない。ただ聞こえてきた音をなぞっただけ。
「誰だかわかる? お母さんの娘だよ」
「はるき……」
お母さんはもう一度呟いた。それから何度も、はるき、と唇を動かした。白い靄の向こうに遠のいていた記憶を手繰り寄せるように。そして最後に、陽葵の目を真っ直ぐに見つめて、その名前を呼んだ。
「はるき」
「思い出した?」
お母さんが頷き、優しく微笑む。いつものお母さんが帰ってくる。涙が出そうだった。恐怖から解放された安堵感が、じんわりと全身を包み込んでいく。
そんな陽葵の気も知らないで、お母さんは病室をキョロキョロと見回し始めた。そして、陽葵に視線を戻すと、こうすけくんは? と尋ねた。
陽葵のことを思い出したとはいえ、まだ記憶が混濁しているのだろう。
先ほど看護師から「脳梗塞を起こした後は、自分の名前さえ思い出せないこともあるの」と慰められたことを思い出す。
大丈夫。目が覚めたばかりなんだから仕方ない。そう自分に言い聞かせながら、お母さんに「こうすけじゃなくて、きょうすけ」と教える。
「恭介くんはいないよ」
言いながら、右手の指輪をぎゅっと握り締める。
「そう、まだ来てないの」
お母さんは力なくため息を吐き、ベッドに深く沈み込んだ。虚ろな目でじっと天井を見つめている。
陽葵の背中に、つぅ、と冷たい汗が流れる。
「恭介くんは来ないよ」
震えないように、声にぐっと力を入れた。力み過ぎた喉の奥が、熱く、塩辛い。
お母さんは静かに目を閉じると、そう、と他人事みたいな相槌を打った。それきり、何と声をかけても返事をしなくなった。
恐怖に駆られてナースコールを鳴らしたが、駆け付けた看護師に、疲れて眠っているだけよ、とまた背中を撫でられた。昨晩から一睡もしていない陽葵を気遣って、看護師が簡易ベッドを用意してくれたが、横になっても眠ることはできなかった。
次の日の朝、お母さんはちゃんと目覚めた。娘の名前も正しく答えられた。陽葵はほっと胸を撫で下ろした。
精密検査があるとかで、お母さんはベッドに寝かせられたまま検査室へ連れて行かれた。
眩しいほどの朝日に満ちた空っぽの病室に一人取り残されながら、陽葵はぼんやりと仁科から手渡された小テストのことを思い出した。
制服のポケットを探り、小さく折り畳まれた藁半紙を取り出す。
定期的に行われる古典文法の小テストは出題範囲が予告されるため、陽葵は毎回満点を取っていた。復習するように言われていたから、今回はどこかを間違えたのだと思っていたが、しかし、広げた答案は全問正解だった。
「え、なんで……?」
満点を喜ぶより先に、間違っている箇所を探す。答案をくまなく確認して分かったことは間違いはどこにもないことと、答案の端に小さな付箋が貼ってあること。
付箋を剥がし、何気なく裏返す。ドキン、心臓が大きく跳ねた。
『コシ2P5』
付箋に記された、走り書きの暗号。ただ文字が羅列されているだけに見えるが、その暗号の意味を、陽葵は瞬時に理解した。
