お母さんが病院に緊急搬送されたのは、それから数週間後のことだった。
その報せは2限の古典の授業中、前触れもなく訪れた。黒板に徒然草の一節が書き写されていたとき、教室のドアが遠慮がちにノックされた。
「授業中にすみません、あの……」
ドアを開けたのは、担任の木村先生だった。深刻な様子で国語担当の高良先生を廊下に連れ出す。こそこそと木村先生が何かを伝えると、高良先生が、えっ、と目を見張った。
「矢野、ちょっと……」
木村先生が廊下から顔を出し、陽葵に手招きした。生徒たちの視線が一斉に陽葵に向けられる。何が何だかわからないが、とりあえず立ち上がる。廊下に出ると、高良先生が入れ違いに教室へ入り、ピシャリとドアを閉めた。
わずかに開いていた窓の隙間から、「どうしたの~?」と山口さんの呑気な声が漏れてくる。心配しているのではないことが、その軽い声色に滲み出ていた。
こういう目立ち方、嫌なんだけどな。無意識にため息を吐いたとき、木村先生が重々しく前置きをした。
「矢野、落ち着いて聞けよ」
木村先生は慎重に言葉を選びながら、お母さんが怪我をして意識不明の状態で勤務先の病院に運ばれたこと、今から来てほしいと病院から電話があったことを説明した。
頭を殴られたような衝撃とともに、これが現実なのか夢なのか分からなくなった。夢であってほしいと願う気持ちもあった。しかし、陽葵の心臓はドクドクと確かに拍動していて、痛いくらいだ。両手をぎゅっと握ると、手のひらに爪先が食い込む。それらの痛みが、これが現実であると陽葵に突きつける。
矢野さん大人しいのに呼び出されるなんて珍しいね~。再び聞こえてきた山口さんの笑い声に混じって、突きつけられた現実が頭の中でぐちゃぐちゃに旋回する。
――怪我って何? 骨折とか? 意識不明って今も……?
やめなよ、矢野さんに聞こえてるかもしれないよ。そうだよ、かわいそうだよ。窓の隙間から、尾花さんや伊藤さんのにやついた声が漏れ聞こえてくる。
「タクシー呼んでくるから、矢野は荷物持って昇降口に行ってて」
木村先生がせかせかと職員室へ戻っていく。一人取り残された陽葵は、歪んでいく視界の中で、今朝の食卓を思い出していた。ご飯と味噌汁と、厚焼き玉子。陽葵が作った味噌汁を、お母さんは少し眠たそうに啜っていた。あれがお母さんと食べた最後のご飯になったらどうしよう。
ガラリ、音を立てて、無造作に教室のドアが開いた。
驚いて振り返った拍子に、目尻に溜まっていた雫が、ぽろり、零れ落ちた。
ドアを開けたのは、仁科だった。右手で陽葵のリュックを握り、左手には一枚の藁半紙を持っている。
「これ、この間やった古典の小テスト。時間があるときに復習しなさいって、先生が」
小テストを握らされ、すぐにリュックが押し付けられるように手渡された。
「気にすんな」
何を、とは言わない代わりに、仁科は教室を顎でしゃくった。
「人の気持ちを想像できない奴の言葉に、振り回されてやる必要ねぇよ」
芯の真っ直ぐ通った、力強い声だった。
ぽろり、また一粒、涙が零れた。それをぐいっと袖口で拭いながら、こくんと頷く。リュックを背負う。そして、教室に背を向けて駆け出した。
いつもなら廊下を走るなと叱られるけど、誰も何も言わなかった。
