茜と菫の境界線で、夢を見る。


 昼休みは購買前に人だかりができる5号館も、放課後はしんと静まり返っている。3階の廊下は、日中に暖められた空気が密閉されているせいで、むわむわと蒸し暑い。息苦しいくらいだ。

 陽葵が人気のない廊下を一人で歩いているのは、個別指導室で待ち合わせをしているからだ。

 テストの点数が振るわなかった生徒を集めたり、入試対策の臨時講座や面接練習をしたりするときにのみ使用される個別指導室は、数人分の机と椅子を並べただけで埋まってしまうほど狭く、普段は人の出入りがほとんどない。全部で5つある教室のうち、二人が待ち合わせをするのは決まって第2個別指導室。

 ドアの小窓から教室内を覗き込むと、ガラス越しに、椅子に腰掛けてスマホをいじる彼の姿が見えた。

 骨ばった指先が液晶の上で素早く動いている。誰かにラインを打っているようだ。集中しているのか、瞬きの回数が少ない。パチリ、やっと長い睫毛が伏せられ、再び開く。不意に、彼が顔を上げた。スマホがサッとポケットにしまわれる。


「何してんの」

 ドアに隔てられた向こう側から、ぼんやりと声が聞こえた。陽葵は、今さっきここに来たばかりという風にドアノブを回し、入室した。


「今日は何する?」

 何にも隔てられずに、彼の声が鼓膜に届く。目が合うのはまだ少し怖くて、陽葵は俯いたまま隣の席に腰を下ろした。


「数Ⅱ、」

 リュックを下ろし、問題集を取り出す。彼が、えっ、と眉をひそめる。


「数学あんま得意じゃないって、この前言っただろ」

「三角関数、わからなくて、」

 付箋を貼っておいたページを開いて差し出すと、彼はまったく……とぼやきながら受け取った。得意じゃないだけで、できないわけではないのだ。


「問2が難しくて、」

 彼は設問を見つめながら、じっと黙り込んだ。しばらくした後、「取っ掛かりはわかるだろ?」と問題集を陽葵の机に戻した。陽葵が頷くと、やってみな、と言ったきり黙り込む。

 彼はいつも余計なことは言わず、陽葵が問題を解く手元を見つめている。手が止まったり質問をしたりすれば、必要なだけのヒントをくれる。

 これを勉強会と彼は呼んでいるが、陽葵が一方的に教わっているので、個別授業と言った方がしっくりくる。

 週に1、2回。放課後に1時間だけ。第2個別指導室で。それがいつの間にか定着していた。


「電車、間に合う?」

 帰り際になると、彼は必ずそう言う。帰宅が遅くならないように心配してくれているのだろう。だけど、早く帰れと催促されているような気がして――ギリギリまでここにいようとしている下心を見透かされている気がして。優しさは嬉しいけど、それだけじゃない。寂しさや焦りが絡み付く。


「まだ、もうちょっとだけ、」

 語尾を濁しながら、壁掛け時計から逃げるように窓の外へ視線を逸らす。

 遠い空で鮮やかな茜色が柔らかな菫色に呑み込まれていく。茜と菫の境目を探してみるが、境目だと思ったところはまた違った色に見えて判然としない。刻一刻と変化しながら重なり合う二つの色は、どちらでもあって、どちらでもない。


「どうした?」

 陽葵の視線の先を覗き込むように、彼が顔を寄せた。振り向けば触れてしまいそうな距離に、彼がいる。空気を介して体温まで伝ってくるような気がして、急に手のひらにじわりと汗が滲む。


「あの色、何色なのかなって思って、」

「色? あぁ、確かに綺麗だ」

 そう呟いた彼の横顔が、優しく緩む。その美しさに思わず見惚れてしまいそうになる。


「色はわからないけど、この時間は黄昏時って言うんだ」

 彼が腕時計を見下ろす。電車の出発時刻まで、あと15分。ここから駅までは徒歩10分。陽葵は時計を見たくなくて、茜色と菫色の曖昧な境界にじっと目を凝らす。


「それから、逢魔が時とも言う」

「逢魔が時、……」

「昼と夜が移り変わる時刻のこと。一般的には午後5時から7時を指す。昔から逢魔が時には魔物に出会うなんて言われてる」

「魔物?」

「平安時代には、妖怪や魔物が百鬼夜行を始める時刻とされていたらしい」

「そういうの、本当にいたら、」

「怖い?」

 からかうように、彼が小さく笑う。ふわり、柔軟剤の清潔な匂いが微かにした。


「おばけなら、いてほしい」

 彼の瞳が覗き込むように陽葵を見つめる。

 彼に見られている。それだけで息が詰まりそうだったが、それを喉の奥で、ごくん、と呑み込む。


「どうして?」

 両手のひらをぎゅっと握り締める。勇気を振り絞る。


「妖怪とか魔物は怖いけど、お化けなら会ってみたい、」

 彼の顔を見つめ返す心の準備をするだけで、心臓の鼓動はみるみる加速していった。突き刺さるような視線を真横から感じながら、俯いたまま、恐る恐る隣を向く。


「お化けはもともと、生きていた人間だから。もし死んじゃっても、お化けになってまた会えるから」

 彼の肩に向かって言いながら、それ以上視線を上げることができない。だけど、顔を見なくても、彼の喉元がわずかに動いたことだけは分かった。

 ――カチ、

 分針が時を刻む音が、やけに大きく響いた。

 茜色と菫色の境界はどれだけ探しても見当たらない。昼と夜の境界も分からない。

 夕日に照らされていたはずの教室は、いつの間にか薄暗い影に満ちていた。

 タイムリミットだ。

 そう思ったら、急に現実に引き戻されたような感覚がして、胸いっぱいに膨れ上がっていた熱がみるみる萎んでいく。

 情けない。やっぱり、彼の顔を見つめ返す度胸はなかった。汗ばんだ拳からそっと力を抜き、萎んだ勇気を静かに鞘に納める。


「明日は、」

 言いかけた問いを、「ごめん、明日は用事がある」と彼に遮られた。申し訳なさそうな声に、聞き分けよく頷いてみせる。


「大丈夫、」

 困らせたくないから、自分に嘘を吐く。


「あ、そうだ」

 教室を出ようとした陽葵の背後で、彼が思い出したように呟いた。


「裁縫、得意?」

「裁縫?」

 不意を突かれて振り返ったけど、やっぱり顔を見ることはできなくて。彼の第二ボタンに向かって「人並みには」と答える。


「お願いがあるんだ。詳しいことは、また今度。あと、明後日なら来られるけど、どう?」

 何気なく放たれたのは、次に会う約束。

 次がある。また会える。それだけで別れ際の名残惜しさが吹き飛ぶ。口元が緩まないように唇を噛みしめ、こくりと頷く。

 壁掛け時計を見上げる。電車の出発まで、あと12分。急がなければ。


「帰り、気を付けて」

 彼の優しさに、ドアを開けながら頷く。後ろを振り返り、さりげなく顔を見ようとしたけど、すんでのところで気後れして、そのまま廊下へ出た。

 パタン、音がして扉が閉まり、空間が隔てられる。

 蛍光灯の消えた廊下は、教室とは別世界みたいに静かで暗い。

 逢魔が時。その名の通り、本当に魔物に逢ってしまいそうだ。

 だけど、今の陽葵に怖いものなどない。だって、明後日になれば彼にまた会える。たったそれだけで、世界が明るく見える。人気のない廊下に響く足音は、その暗さに不釣り合いなくらい軽やかだった。