特別進学クラス(通称・特進)の教室があるのは3号館だ。
陽葵たちが所属する一般進学クラス(通称・一進)の教室とは棟が違うせいで、同学年でも特進の生徒との関わりはほとんどない。
普段は来ることのない3号館の景色に、陽葵は気後れしていた。廊下ですれ違う生徒たちも、見慣れない陽葵と仁科の姿をチラチラと気にしている。
「仁科、帰ろうよ」
気後れを口にしてみたが、ここまで来て何言ってんだ、と一蹴された。
『特進2年1組』の室名札が見えてくると、仁科は躊躇うことなく開いていた窓から「失礼しまーす」と教室内を覗き込んだ。そして、「おーい、みっちー」と気安く手を振った。
この男、特進にまで知り合いがいるのか。交友関係の広さには恐れ入る。
みっちーと呼ばれて顔を上げたのは、窓辺で友達と談笑していた、眼鏡をかけた男子生徒だった。着崩されていない制服からして如何にも賢そうだ。
「あれ、仁科。こんなとこで何してんの?」
特進は頭のいい人たちの集団で取っつきにくいイメージがあったけど、みっちーは何というか、普通だった。見た目は堅物そうだけど、会話に難がない。仁科の陰に隠れている陽葵の存在に気づくと、にたりと笑い、「なに? ついに彼女できたって自慢しに来たのか?」と仁科の肩を小突いた。
「ちげぇよ。人探し。特進にマユって女子いる?」
「マユ? 朝倉さんのこと?」
朝倉茉優という彼女の本名を、陽葵はそこで初めて知った。
「今、いる?」
仁科が窓枠から身を乗り出す。みっちーは室内を振り返って一通り見渡してから、「いないね」と答えた。
「どこいる?」
「いや知らんし」
「心当たりとか」
「だから知らんて」
仁科とみっちーが不毛な問答を繰り返していたときだった。唐突に、陽葵の肩が後ろから掴まれて、ぐるんと振り向かされた。何事かと驚く陽葵に「ヤッホー」と能天気な笑顔を向けたのは、渦中の朝倉茉優だった。
「あ、朝倉さん。仁科が探してたよ」
みっちーに声をかけられ、茉優は「ニシナって誰?」と興味なさげに訊いた。その間も、茉優の手は陽葵の両肩に置かれたままで、ニコニコと顔を見つめ続けている。
「俺」
仁科がすかさず間に割って入った。大きな背中が陽葵を覆い隠し、茉優の手は強引に払い落とされる。
「陽葵と同じクラス。よろしく」
茉優は仁科の挨拶に返事すらしなかった。代わりに、仁科の肩越しに陽葵を見据えて、「へぇ、ハルキちゃんっていうんだ」と口の端で笑った。
信じられなかった。顔見知りでもなければ名前すら知らなかった相手を、どうしてわざわざお昼に誘ったのだろう。知れば知るほど謎が深まっていく。
陽葵が硬直しているのを察したのか、仁科はさらに一歩前へ踏み込み、茉優の視線を遮った。
「陽葵と飯食うなら、次からは俺も交ぜて。俺らいつも二人で食ってるから」
茉優の視線が、陽葵からようやく仁科へ移る。彼女はすぐには応じずに、じっと仁科の顔を見つめ、そして、「妬いてんの?」と鼻で笑った。
「安心してよ。私、陽葵に興味はあるけど、そういう目では見てないから」
色々とツッコミたいところはあったが、まず、断りも入れず呼び捨てにしてきたことに驚いていた。
「お昼に誘ったのも、陽葵がどういう子が確かめたかっただけだし」
「え、意味わかんないんだけど」
陽葵の困惑を代弁してくれたのは、たまたま居合わせているだけのみっちーだった。仁科は、挑発的に見つめてくる茉優を無言で見つめ返している。何だか険悪なムードだ。
そのとき、昼休みの終わりを告げる予鈴が、試合終了のゴングのように鳴り響いた。
「ね、行こう、仁科。授業遅れちゃう」
陽葵が袖口を引くと、仁科は、うん、と言いつつも納得できていないようだった。行くよ、と今度はその背中をぐいぐいと押す。
「あ、待って」
仁科を促しながら歩き出した陽葵の背を、茉優が呼び止めた。反射的に足を止めてしまい、聞こえないふりをするわけにいかなくなった。仕方なく振り返ると、茉優が無邪気に笑う。
「なんだよ」
仁科の低い声に威嚇されても、茉優は怯むことなく笑顔を崩さない。そして、とんでもない爆弾を放り投げてきた。
「陽葵、好きな人いる?」
その手の話題はもっと周囲の目を気にして、ひっそりと繰り出すものではないだろうか。廊下のど真ん中で堂々と声を張り上げるなんて、あまりにも配慮がなさ過ぎる。
「あ゛ぁ?」
仁科が陽葵の背後でドスの利いた声を上げ、みっちーが我慢し切れなかったというように「ブフッ!」と吹き出し、慌てて口元を隠した。
「いるんでしょ? 私、知ってるよ」
「ちょっとちょっと、その辺にしたげて。仁科が可哀想だから」
へらへらと笑いながら、みっちーが茉優を宥めようとする。仁科に「黙ってろ」と低い声でいなされても、どこ吹く風で笑っている。
「俺は仁科のことを思って言ってんのに」
「面白がっての間違いだろ」
「そこうるさい。私は陽葵と喋ってるの」
男子たちの小競り合いに一喝したのは、事の発端である張本人だった。誰のせいだ、と言いたげな二人の視線を平然と無視しながら、茉優は陽葵を真っ直ぐに見つめる。その鋭い眼光に、陽葵は思わず身を固くした。
「私も好き」
目的語の抜けた宣言の意味を、陽葵は瞬時に理解できなかった。それを察したのか、茉優は言葉を付け加える。
「陽葵と同じ人が好きってこと」
「私、好きな人なんて、」
「自覚ないの? なら、私の方が一歩リードね」
これから恋のライバルとしてよろしく、と茉優は陽葵の右手をむんずと掴み、有無を言わせず上下に揺らした。そして、じゃ、と呆気なく手を放すと身を翻し、満足げに教室へ入っていった。
取り残された陽葵と仁科、そしてみっちーは、唖然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「何アイツ」
嫌悪感を隠そうともしない仁科の声に、みっちーが「朝倉さん、いつもあんな感じだよ。常にマイペースっていうか何ていうか、」と言葉を濁した後、「悪い子じゃないんだけどね」と申し訳程度に付け足した。
「……大丈夫か?」
隣から仁科の心配そうな声が聞こえた。それが自分に向けられた言葉だと陽葵が気付いたのは、誰も返事をしない不自然な間があったからだった。
「あ、う、うん」
慌てて返事をすると、本当に? と顔を覗き込まれた。
「うん」
説得力を演出するために、今度はしっかりと目を見て、大きく頷いた。仁科にこれ以上の心配をかけさせたくなかった。
仁科は納得しきったようではなかったけど、陽葵がはっきりと言い切ったので、それ以上言及しなかった。
