茜と菫の境界線で、夢を見る。


 陽葵を昼食に誘うのは仁科くらいのものだ。しかし、今日の彼は部活の集まりがあるとかでいない。


「お昼、一緒に食べない?」

 いつもの中庭に一人で行こうと廊下を歩いていたとき、急に声をかけられた。仁科のものとは似ても似つかない、高くて可愛らしい、女の子の声だった。

 振り返ると、見覚えのない女子生徒がそこに立っていた。同じクラスの生徒ではない。高1のときに同じクラスだった子でもない。同じ中学の出身者は仁科以外にいないから、その可能性もない。全く知らない子だ。それなのに、彼女は以前からの知り合いであるかのように親しげに微笑みかけてくる。


「一緒に食べるのはいいけど、……どちら様ですか?」

 戸惑いながら尋ねると、彼女はすっかり失念していたというように、あぁ、と声を漏らし、「マユって呼んで」と片手を差し出してきた。握手を求められているのだろうか。差し出されたままの手に恐る恐る手を重ねると、ぐいっと力強く握り込まれた。よろしく、と言われたので、よろしく、ととりあえず返した。

 食堂はA定食がハンバーグのときはすごく混雑するが、今日のA定はサバの味噌煮。二人分の席ならすんなり取れたので、お互い向かい合う形で腰掛けた。陽葵はお弁当を広げ、マユは月見うどんの食券を買った。

 わざわざ誘ってきたのだから何か用でもあるのかと思っていたが、マユはただ黙々と食事するだけだった。湯気の上がる熱い麺を躊躇いもなくずるずると啜りながらも、その所作には不思議と品がある。

 ものの3分で平らげると、マユは「じゃ、先に戻るね」とおぼんを持って立ち上がった。えっ、と驚愕している陽葵をよそに身を翻すと、返却口に「ごちそうさまでした」と下膳し、そのまま食堂から去っていった。

 一体、何のために陽葵を誘ったのだろうか。マユの言動の一つ一つが意味不明だった。釈然としないまま、陽葵はまだ半分も手をつけていないお弁当箱を閉じた。ガヤガヤと賑やかな食堂は、どうも落ち着かない。

 いつもの中庭に行くと、ベンチに一人腰掛ける仁科がいた。購買で買ったらしい焼きそばパンをかじっている。部活の集まりとやらは早々に終わったのだろう。お昼ご飯を一緒に食べる友達なんて大勢いるだろうに、教室にいなかった陽葵がここに来る可能性に賭けて待っていたのだろうか。

 陽葵が「よう」と隣に腰掛けると、仁科はチラリと顔を上げ「よう」と返した。

 膝の上に広げた食べかけのお弁当箱を、仁科は不思議そうに見つめた。


「どこいたの?」

「食堂」

「珍し」

「お昼誘われたの。マユって子に」

「誰?」

 顔の広い仁科でも知らないなんて、本当にあのマユって子は何者なんだ。

 急に声をかけられ食堂へ行き、特に会話もないままうどんを平らげ、まだ食べている途中なのに置いていかれた。と、一連の出来事を端的に説明すると、仁科は焼きそばパンの最後の一口を口に放り込みながら、へぇ、と不可解そうに眉を顰めた。


「どういう子?」

 仁科が指先に付いたソースを舐め取る。


「髪長くて、目くりくりで、可愛い子。小動物みたいな」

「二年生?」

「スリッパ、青だった」

 スリッパの色は学年によって異なる。マユのスリッパは陽葵たちと同じ色。つまり、二年生。


「なんか疲れた。終始、向こうのペースで」

「そういう子って、良くも悪くも相手のことそこまで意識してないから、気にしなくていいんだよ」

 誰とでもすぐ打ち解けられる仁科だが、彼が人から好かれるのは単なる社交性や協調性だけが理由ではない。相手によって距離感を的確に調整できる思慮深さがあり、それは相手をよく観察しなければできないことだ。話を聞いただけでマユの人柄を予想し、その対処方法まで提案できるあたりはさすがだ。しかし残念ながら、仁科のアドバイス通りに立ち回れる器用さを陽葵は持ち合わせていない。


「よし、行ってみるか」

 仁科がポンと膝を叩き、唐突に立ち上がった。行くって、どこに?


「一進にマユっていないと思うんだよね。たぶん、特進なんじゃないかな」

「だから?」

「行ってみよう、特進」