目が覚めたとき、陽葵は机に突っ伏していた。泣いていた。
体温のこもった体はじっとりと汗ばんでいて、だるさが重く纏わりついている。喉の奥が焼けたように熱く、ヒリヒリと痛い。
ひゅぅ、生温い風が開け放たれたままの窓から吹き込み、熱った頬を掠める。茜色に染め上げられた白いカーテンが、ひらひらと揺れている。
「夢……」
時計は午後5時5分を指していた。この部屋に来てから5時間以上も眠ってしまっていたらしい。
頭も体もふわふわと現実感を欠いているのは、暑さだけでなく寝不足のせいだ。一昨日から夜通し起きていて、お母さんの心臓がちゃんと動いているか胸元に耳を当てて何度も確かめた。自分が眠っている間にお母さんに何かあったら――そう思うと怖くて寝付けなかった。
検査、もう終わってるよね。病院、行かなきゃ。
立ち上がり、窓の方へ向かう。サッシを閉め、鍵をかける。カチリ、金属音が響いた、その直後だった。
「よく眠れた?」
後ろから声がした。
陽葵は驚いて悲鳴を上げそうになった。自分以外誰もいないと思っていたからだ。ドコドコと激しく鼓動する胸を押さえながら振り返ると、さっきまで座っていた席の後ろに彼が腰掛けていた。「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」と眉を下げて笑う。
「いつから、」
「ちょっと前」
曖昧な言葉で返した後、彼は立ち上がった。ガタン、椅子が音を立てる。ゆっくりと近づいてきた彼に顔を覗き込まれる。目が合いそうになって、陽葵は慌てて俯いた。その瞬間、肩を掴まれた。逃げるな、というように力強く。
「大丈夫?」
彼の指先が肩に食い込む。痛くはない。声も優しい。だけど、陽葵は震えていた。
どんなに顔を背けても、彼は真っ直ぐに見つめてくる。嘘は吐くなよ、と迫る。体裁のいい嘘を並べても、この人は簡単に見透かすだろう。そして、ありのままの脆さを受け止めてくれる。
彼の力強さには乱暴なところがないのに強引で、それでいて温かい。いっそのこと泣いて縋って、その頼もしい胸に飛び込めたなら、きっと楽になれる。そう心のどこかで理解しながらも、陽葵は彼に甘えられない。認めるのが、怖い。
「大丈夫、」
陽葵がそうやって嘘を吐いても、それを見抜いた上で、彼は嘘を吐くなと責め立てることはしない。ただ黙って、陽葵の拒絶を受け入れる。
「そうか」
それ以上は踏み込めないというように、彼の手が肩から離れる。肌から熱が引いていく余韻が切なくて、胸が苦しい。
「とりあえず、顔見れて……会えてよかった」
彼が別れの挨拶の助走に入る。そうさせたのは自分なのに、きゅぅ、胸の奥が切なく鳴く。
ぽたり、陽葵の頬に雫が落ちた。最初はそれが何だか分からなかったが、寝ている間に泣いていたことを思い出し、慌てて目元を拭う。
「もう、帰る?」
ただの確認のつもりで言ったのだが、彼にはそう聞こえなかったようで、「帰りたくないの?」とからかうようにクスッと笑った。自分の発言を遅れて反芻し、ぼっと顔が熱くなる。違う、そういう意味で言ったんじゃない。首をぶんぶんと横に振る。必死に否定する陽葵を、彼はケタケタと可笑しそうに笑う。
「じゃぁ、帰りたいの?」
ひとしきり笑った後、彼は目尻に滲む涙を拭いながら言った。横に振り続けていた陽葵の首が、ぴたりと止まる。帰りたいわけじゃない。でも、病院に行かなくちゃ。
「会えなくなってからじゃ、遅いから」
口にしてから、なんて不吉なことを言っているんだろうと悔やんだ。お母さんは目を覚ましたんだから、もう大丈夫なのに。大丈夫、なのに。
「大丈夫か?」
「大丈夫、」
意識は戻ったし、娘の名前も言える。だから、大丈夫。
「本当に?」
彼はしつこいくらいに顔を覗き込んでくる。陽葵がふいっと目を逸らすと、頭上から呆れたようなため息が降ってきた。
「ちょっとさ、喋ろうか」
陽葵の手を引いて椅子に促すと、彼はそのすぐ傍に自分の椅子を寄せた。スカートの裾がスラックス越しに彼の膝に触れてしまいそうだ。そんな距離で顔を覗き込まれ、陽葵は慌ててまた俯いた。
「次の電車、何時?」
「5時57分、」
「じゃぁ、40分まで。話そう」
「話すって何を、」
「何でもいい。話したいことないの?」
「そんなの、ない、」
「ないことないだろ」
彼は不満げに陽葵を睨む。仕方がないので、何かないか頭を巡らせる。
彼の言う通り、話したいこと――訊きたいことがないことはない。だけど、それを訊いてしまったら、たぶんこの勉強会は終わってしまう。だから、訊けない。訊きたくない。
「じゃ、俺から話してもいい?」
考えあぐねる陽葵を見かねて、彼がそう提案した。頷いて、了承する。
「質問でもいい?」
頷く。
「あのさ、ずっと気になってたんだけど……同じクラスの、後ろの席の男子」
仁科のことだろうか。
「アイツと付き合ってんの?」
「は……?」
予想外の質問に、素っ頓狂な声が漏れた。
仁科とは長い付き合いだから、お互いに気心が知れている。変に気を遣わずいられるのが楽で、だから一緒にいる。それだけだ。
いつも人の輪の中心にいるタイプの仁科は、老若男女誰とでも仲良くできる柔軟さがあって、それが鼻につかない配慮も持ち合わせている。簡単に言えば、人気者だ。そういう性格だから、クラスにうまく馴染めていない同級生を不憫に思って一緒にいてくれているのかもしれない。
「仁科は、友達、」
「ふぅん。やけに仲良いからさ、付き合ってんのかと思った」
「付き合って、ない、」
「付き合ってないけど、好きってことは?」
ない。きっぱりと答えると、彼は、そっか、と無機質に呟いた。それから急に黙り込み、静かに俯いた。突如として訪れた沈黙が気まずくて、陽葵は取り繕うように話しかける。
「質問って、それだけ?」
ふふん、と肯定とも否定とも取れない相槌を返した後、彼は再び問いかけてきた。もし仁科が矢野のこと好きだったらどうする?
「もしも、ね。好きって言われたら、どうする?」
仮説であることを妙に強調しながら、彼は天井を見上げている。目が合う心配がないから、夕日に縁取られたその横顔をずっと見つめていられる。無表情の彼は今、何を考えているのだろう。
「どうするって、……」
「付き合う?」
「よく、分からない、」
仁科のことは好きだけど、そういう好きじゃない。異性とはいえ、付き合うとかそういう関係になることは考えられない。言葉を選びながらの回答に、彼は、ふぅん、とまた頷いた。そして、ぽろりと呟いた。可哀想に。
「ね、初恋っていつだった?」
唐突な話題の転換に、陽葵は困惑した。
「なんでそういう話ばっかり、……」
「いいじゃん。たまには勉強以外の会話もしようよ」
「人に訊く前に、そっちが話して」
言い出しっぺを困らせるつもりで言い返したのに、彼は「俺の初恋は中学の同級生」と恥ずかしがる素振りもなくペラペラと語り出す。
「見た目は大人しい感じなんだけど、喋ると意外と毒舌でさ。あ、ちょっと矢野に似てるかも」
「私、毒舌じゃ、」
「あぁいや毒舌ってか、間違ってることは間違ってるってはっきり言う子でさ。芯がブレない感じ? 周りに流されないっていうか」
その誇らしげな口調から察するに、「毒舌」は褒め言葉だったらしい。
「まぁ、いいな~って眺めてただけだから、卒業以来会ってないけどね」
懐かしむように言ってから、「で、矢野は?」と急に顔を向けてきた。目が合いそうになって、慌てて視線を膝の上へ落とす。
「……初恋がいつだったかは、覚えてない」
いつから好きだったか、覚えてないから。気付いたら、もう好きになっていたから。
「何それロマンチック。相手は誰だったの?」
「言っても、笑わない?」
恐々尋ねると、彼は胸をどんと一発叩いて、笑わない、と宣言した。ふざけているように見えるけど、きっとこの人は嗤わない。
「初めて好きになったのは……10歳上の兄、」
思い返せば、この秘密を誰かに明かすのは初めてだった。
宣言通り、彼は笑わなかった。その代わり、すごく驚いた顔をした。
「別に変な意味じゃ、」
「あ、いや、わかるけどさ。アレだろ? 大きくなったらパパと結婚する~みたいな」
「その感覚はよく分からない。お父さん、私が生まれて半年のときに病気で亡くなったから」
それから、と小さく息を継ぐ。
「兄は、3年前に交通事故に遭って、未だに行方不明で、……」
こんなことを打ち明けられたら、大抵の人は気まずそうな顔をする。可哀想だと同情されるのが、陽葵は苦手だった。
彼はどんな顔をするんだろう。気まずそうにするのか。可哀想だと同情するのか。辛かったねと優しく笑うのか。いくつか予想してみたけど、どれも外れた。
「俺も」
椅子の背にだらしなくもたれながら、彼は独り言のように呟いた。
「10歳のとき亡くなったんだ。母親が」
陽葵のお父さんは物心つく前にもういなかった。だけど、彼はお母さんを10歳で亡くした。親を亡くしたという点では同じでも、同じじゃない。彼には10年分の思い出がある。思い出には時に残酷な一面もあることを、陽葵は痛いほど知っていた。
「お母さんは、病気で?」
彼は首を横に振る。
「仕事で海外に行くことが多くてさ。現地のデモに巻き込まれて、それで。当時のことはよく覚えてないんだ。母さんが死んで一番ショック受けてたのが親父だったから。親父の面倒見るのに精一杯で……まぁ、悲しむ暇がなかったのは、かえって都合良かったかも。生きることに必死になれたから」
って、また俺が喋っちゃった、ごめんな。重くなりかけた空気を明るく笑い飛ばす彼に、陽葵は言葉なく首を横に振る。すると、彼は優しく眉を下げ、ふっと微笑んだ。
「なんで矢野が泣くの」
言われて初めて自分の涙に気づいた。生温かい雫が頬を伝い、ぽたり、右手の甲に落ちる。涙が絡んだシルバーリングの内側が、わずかに熱を帯びたように感じた。
可哀想だと他人に同情されるのが苦手なくせに、自分が同情して泣くなんて滑稽すぎる。だけど、これはただの同情なのだろうか。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、もはや自分の胸の内に入り乱れているもやつきが何なのか、それすら把握できない。そんな陽葵に、彼は優しく笑いかける。
「お兄さんのこと、思い出しちゃった?」
どうしてこの人は、陽葵自身にも名前を付けられなかった感情を、こうも簡単に言い当ててしまうんだろう。
一度自覚してしまったら、3年前のことが鮮明に脳裏に蘇ってしまって、あのときのようにお母さんが急にいなくなってしまったら、なんて考えてしまって、涙が止まらなくなった。寂しいとか、悲しいとか、悔しいとか、色んな感情が入り乱れる中、最も心を支配していたのが不安だったことを思い出してしまった。
「お母さんがいなくなったら、どうやって生きていけば……」
3年前にも同じことを思った。
兄が傍にいることが大前提の世界で生きていたから、兄がいなくなることを想像したこともなかったし、想像できなかった。
兄が傍で支えてくれている安堵感と、また兄を支えているのが自分であるという自負があったからこそ、陽葵はこれまで強く生きてこられた。そんな自分の片割れのような存在を突然に失って、この先どうやって生きていけばいいか分からなくなった。
「大丈夫じゃないときは、ちゃんと言いな」
骨ばった大きな手が、陽葵の背中をそっと撫で下ろす。硬いのに優しく、冷たいのに温かい。そんな彼の手の感触は彼にそっくりで。やっぱり、と思った。
「恭介くん」
堪え切れずに、3年前からいくら呼んでも返事のなかった名前を呟く。
この名を聞いた彼がどんな表情をするのか、見逃したくない。衝動に突き動かされ、陽葵は溢れる涙を拭いもせず、そっと顔を上げた。
彼が不思議そうに「誰?」と首を傾げる。
「恭介くんは、私のお兄ちゃん」
彼の瞳の奥で、自分と視線がぶつかり合う。
あぁ、やっぱり。
やっぱり、あなたは、――
「恭介くんに、似てる」
「俺が?」
初めて見かけたとき、恭介が生きていたと思ったくらい似ている。
「似てるって、顔?」
顔だけじゃない。背丈、仕草、声、何もかも。
だけど、似ているけど、似ているだけ。会う度、確信する。
やっぱり、あなたは、――恭介くんじゃない。
「頑なに俺の顔見ないようにしてたのは、そのせい?」
そんなことまで見抜かれていたとは、彼の観察眼は凄まじい。陽葵は小さく頷き、これまでの非礼を白状した。
「そっか。なんだ、安心した。嫌われてんのかと思ってた」
冗談めかした笑い声が響いて、室内の温度がわずかに上がる。
「ごめんなさい」
急に恥ずかしくなってふいっと目を逸らすと、彼は笑いながら陽葵の肩を軽く小突いた。
「ごめんって思うなら、ちゃんとこっち見ろよな」
触れられたところが、じんじんと熱く痺れる。頬が赤くなっている気がして、両手で覆って隠した。
「矢野のお母さんはいなくならないし、もしいつかいなくなることがあっても、矢野は独りにはならないよ」
「どうして、」
「矢野を大切に想ってる人は、ちゃんといるよ」
「誰のこと言って、」
「さぁ、誰だろうね」
それは自分で見つけなさい。先生みたいな口調で突っぱねると、彼は立ち上がって椅子を戻した。
「電車、間に合う?」
帰宅を促されて、本当は確実に間に合うのに「たぶん」と曖昧な返事をしたのは、名残惜しさを押し殺しきれなかったせいだ。次はいつ会える? なんて訊けないから。
「明日、来られる?」
教室を出ようとした直前、背後から声をかけられた。
何気ないその一言に、陽葵の心臓はうるさいほどに高鳴った。だけど、こういうときに限って可愛いことが言えない。はい、と短く返し、頬が変ににやつかないように唇を引き結ぶ。
「また明日。5時ね」
彼が手を振る。陽葵は頷くだけ。可愛くない。
彼に背を向けて、薄暗い廊下を歩き出す。角を曲がる寸前、ちらと後ろを振り返ると、彼はまだドアの前に立っていた。陽葵の視線に気づくと、小さく手を振った。陽葵は手を振り返すことができないまま角を曲がった。
パタン、遠くでドアの閉まる音がした。
「はぁ……」
誰の目もない場所で、陽葵は全身の緊張をため息とともに吐き出し、そのまましゃがみ込んだ。
電車の時間が迫っているが、その身体はガス欠を起こしたように力が抜けてしまって、しばらくそこから動けなかった。
