「すみませんッ!遅くなりました!」
玄関を開けて、急いで靴を脱いで上がった。
アトリエで作業を終えて、午後五時半家に帰宅した。
「まだ、大丈夫よ。そんなに慌てなくても。」
出勤の準備をする蘭々さんは、鷹揚に微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ!お気を付けて!」
玄関の外までお見送りして、蘭々さんに手を振ると、振り返してくれた。
私は手洗いうがいをして、着替えてから有栖子のお世話をした。
だいたい、絵を描くのは五時までと決めていた。
道具の片付けやら、なんやらやってると、時間は過ぎていて、家に着くのは五時半頃が多かった。
蘭々さんは午後六時から『Lulu』を開けるので、少し早めにお店に着いていたいところだが、私がいっつもギリッギリだった。
お店までは、十五分程で着くから、間に合いはした。
『Lulu』では、料理人とウェイター、バーテンダー、の従業員三人と、ピアノとチェロの演奏をするアルバイトを雇っていた。
蘭々さんはワインの資格を持ってる。
奏矢はチェロを教えるイベントがあって、帰りは十時過ぎだと、言ってた。
危険日と呼ばれる日に、奏矢に生で中出ししてもらって、私は妊娠したのである。
何回したのか、覚えてないくらい、燃え上がったセックスだった。
奏矢なら、体を預けられた。
好きの意味は違ったけど、信頼してる相手だから。
奏矢との子供なら、きっと可愛い子……。
子供の頃の奏矢みたいに、天使が生まれて来ると思った。
中学生になるまで、奏矢は髪を伸ばしていた。
私が短く切らないでと、お願いしたから。
中学生からは、校則で短髪にしなければいけなくて、断髪式には私も行った。
断髪式と言っても、美容院で切るだけだったんだけど。
名残惜しく髪に触れる私に、奏矢は困ったような表情をしていた。
「わたしの体、好きにして。」
首に腕を回されて、甘く耳元で囁かれた。
……色気が凄過ぎて、鼻血が出るかと思った。
美大生の私は……。
ヌードモデルをしてくれてた時、触ってみる?と、聞かれて、私は同性とは言え、モデルに触れるのはNGなので、断ったのだが、由貴子ちゃんは特別だと、言ってくれた。
触ってと、言われて、抗えなかった。
誘惑に負けた。欲望のままに、体に触れた。
美大近くのアトリエ兼住居のアパート、桔梗荘の私がアトリエとして使っていた、部屋のベッドに蘭々さんを押し倒した。
デッサンするモデル用に、置いていた。
アンティークの椅子も。私の私物で持ち込んだ。
「女の肌には、魔力が宿ってるらしいですよ。本当なんだって、今、理解しました。」
蘭々さんを見下ろし、そう語った。
祖父から借りて読んだ、美術本のどれかに書いてあった。
男を誘惑する悪だと、女は描かれて来た。
イブはヘビにそそのかされ、禁断の果実を食べた。
アダムに分け与え、男と女は愛し合うようになった、……みたいな、旧約聖書や神話の勉強もしたが、良く分からなかった。
宗教画は、私には難し過ぎた。
描くには、深い造詣が必須だった。
ドライヤーで乾かすの嫌いで、ベリーショートヘア。
服を選ぶのが面倒で基本は、白シャツにジーパンで、TPOに合わせて、ワンピースやドレスを何着か持ってるけど、あんまり出番はなかった。
髪をセットするのとメイクが面倒で、しなければならない時は、美容院でお願いする事が多かった。
ダイエットしてるわけではないが、痩せてる方だった。
ご飯を食べるより、絵を描いてたいから、手軽に早く食べられる、ファストフードが好き。
お肉とフレンチ料理は、好んで食べた。
活力が出る気がする、芸術的で美味しいから。
初デートは大きな公園だった。
スワンボートを隣で漕ぐ、伊吹さんの横顔を見つめた。
私は自分から乗りたいと言っておきながら、全く漕がなかった。
乗りたいとは言ったが、漕ぎたいとは言ってない。
面倒な性格だと、自覚してるが治す気はなかった。
池を泳ぐアヒルやカモが可愛かった。
伊吹さんは怒ったりしないし、不機嫌にもならなかった。
私から繋いだ手も、振り解かなかった。
感情に波がなく、凪みたいだと。
静かで穏やかで、落ち着いた。
夫婦になるなら、こう言う人が合うんだと、思った。
午後十時頃に奏矢が帰って来て、まだご飯を食べてないらしいので、作ってあげる事にした。
私は料理も掃除も洗濯も、苦手だけど出来なくはない。
美大時代に一人暮らしは、一応経験していた。
食パンにチーズを乗せてトースターで焼いて、フライパンで目玉焼きを作り、ベーコンも焼いた。
ひらひらと可愛い、フリルレタスがあったので、ちぎって洗った。
オリーブオイルと塩とお酢で、ドレッシングを作った。
冷蔵庫にある物は、好きに使って良い。
食べられたくない物は、自分の名前を書くのがルール。
朝ご飯みたいな夜ご飯を、奏矢は全部、食べてくれた。
手料理とは、言えない物しか作れなかった。
けど、オムレツはプロ級の腕前だ。
伊吹さんに作って出したら、褒めてくれた。
伊吹さんの方が、圧倒的に料理が上手だった。
休みの日になると、パスタとかパエリア、本格的でお洒落な料理を作ってくれた。
私が美味しいと、バクバク食べるので、良く作ってくれるようになった。
深夜二時頃、有栖子に授乳してると、玄関の方で物音がした。
蘭々さんが帰って来た。
『Lulu』は深夜まで営業していて、最後のお客様が帰るまで、蘭々さんは帰れなかった。
有栖子の背中を優しく、トントン叩くと可愛いゲップをした。
有栖子を寝かし付けてから、私は部屋を出た。
「ごめんなさい、起こしちゃた?」
蘭々さんは洗面所で、メイクを落としていた。
素顔を見られるのは、貴重だった。
いつも、メイクをしていて、完璧に整ってる。
「授乳の時間で、起きてました。」
「寝てくれた?」
「ぐっすりです。」
「わたしの部屋で待っていて。お風呂、入ったら直ぐに行くわ。」
「はい。」
私は蘭々さんの部屋に行って、お風呂から上がるのを待った。
蘭々さんをベッドにうつ伏せにして、ボディオイルを手に取り、手の温度で温めてから、蘭々さんの足首から脹脛、膝の裏、太腿までマッサージをする。
……気持ち良い加減で。
リンパに沿って流す……。
人体の事なら、良く知ってる。
解剖学の本も、愛読してる。
マッサージは、立ち仕事で脚が浮腫むと言う、蘭々さんの為に勉強した。
たまに、マッサージしてあげた。
このボディオイルは植物由来で、心身を整えてくれる、らしい。
蘭々さん愛用のボディオイルだ。
……お高そう。
香りも容器も、高貴な感じ。
お尻から背中、腕もマッサージした。
日々のお手入れに余念がない、蘭々さんは全身すべすべのピカピカ。
私とは大違いだった。
女性を描かせたら、日本トップクラスの画家だと、私は評価された。
男性には描けない、女性の魅力を表現出来ると、自負していた。
伊吹さんなら順調に出世して、次期社長の座に就くかも知れない。
伊吹さんと兄の大湖さんは七歳差で、腹違いの兄弟である。
兄の大湖さんは、先妻の子供だ。
伊吹さんは父親が再婚した、後妻の子供だった。
……腹違いの兄弟って、複雑なのかな。
兄弟仲は、良さそうには見えなかった。
私は勘当された身なので、会えてはないが、兄と弟とは仲が良い方だと、思う。
兄は尊敬してる、弟の遼河は可愛い……。
兄と遼河は、そんなに仲良しって、感じではなかった。
男兄弟同士は、そう言うものなのかな。



