カデンツァ

 その夜、泉はなぜかいつもよりステージで緊張していた。理由はわかっている。あの男が来るかもしれないからだ。今日、店に入るやいなや、「森嶋さんていう人から、あなたのステージの予定を教えて欲しいって夕方、電話があったわよ」と純子ママに言われたのだ。昨日、あんなことを言って自分をどぎまぎさせた森嶋がまたここへやってくるかもしれない。そう思っただけで憂鬱だった。憂鬱?胸騒ぎ?なんとも形容しがたい落ち着かない感じがする。下手だってわかってるなら見に来なければいいのに。これ以上自分の傷口を広げないで欲しい。この間言ったこと以上に、私に何か言いたいというのだろうか?気にすまいと思っても、泉は森嶋がまた現れるのではないかという考えを捨てることができなかった。

しかし、9時のステージも、10時のステージも、森嶋は現れなかった。最後のステージの前に、フロアマネージャの佐伯が泉に花束と薄い封筒を渡した。
「私に?」
泉が怪訝そうに聞くと、佐伯は「上の花屋じゃない。ホテルの花屋がさっき持ってきた。その封筒も一緒に渡して欲しいって」と言った。「泉ちゃんもなかなか隅におけないね。カードが中に入ってるよ」
佐伯にあいまいな微笑を返した泉は、封筒をテーブルの上に置いて、花束の中を覗いた。ピンクのバラの束の中に小さなメッセージカードが入っている。花びらを散らさないように慎重にそれを取り出す。

「今日は残念ながら行けなくなりました。あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている1ファンより」

心臓がどきんと鳴り、数秒間止まった。封筒の方は、自分がアリオンに忘れていったノートだった。

やっぱり……泉はため息をついて花束をカウンターに置き、最後のステージに向かった。



 最後のステージが終わって、帰りのがらがらの電車の中で、泉はもらった花束を見ながら、自分がどうしてこんなことに気持ちを振り回されているのか考えていた。自分のピアノが下手なのは、はじめからわかっていたこと。事あるごとにそれを思い知らされてきた泉には、他人から指摘されたこととは言え、仕方のないことだということはよくわかっている。それでもなお気になるのはなぜだろう。

曲を書き直す。

もちろん、この間はそんなつもりはなかった。けれど、書き直した方が良いと彼は言っている。自分が作ったものに、手直しを加えた方が良いと思えるほどの何かがあるというのか。書き直すほどの価値が?

ばかばかしい。

泉は手にしていたカードをたたんだ。あの人はただ、クラブの女の子と同じように私を誘いたかっただけよ。こういうことを言って気を引こうとしてるだけ。花を贈ってくるなんてものすごく見え透いてる。そう考えると泉は悲しくなった。こういうところで働いていると、結局そういう風に見られてしまうのか。母が知ったら、なんと言うだろか。泉は花をひざからよけて、疲れた身体を自分で抱えるように座りなおした。


「なぁ、あれ。富田理恵じゃないか?」
新宿のライブハウスで自分たちの出番が終わって、ギターアンプのコードを巻いていた博久は、同じ大学のバンド仲間である中西修二の声に客席の方を振り返った。確かに理恵がいる。今日のライブは自分たちで最後で、店内の客は理恵たちの他にあと2組しかいない。
「ああ、そうだな。今日は男と一緒か」
「付き合ってんのかな?俺、あの子ちょっとねらってたんだけどな」
嘘か本当かわからない調子で修二が言う。
「馬鹿か、おまえ。おまえとじゃどう考えたって釣り合わないだろ?」
「逆玉と言うのもありうる」
「あるわけないだろ」
理恵は親しい友人たちと一緒に、時々このライブハウスにやってくる。それは知っていたが、男連れとは驚いた。
「リーマン相手とは恐れ入ったぜ。あの女、なかなかやるな」
「そんな言いかたすんな。どういう相手かまだわからないだろ」
修二が怒って言った。
「本気でそんなこと言ってんのか?」
「確かめてくる」
博久が止めるのも気にもかけず、修二は途中まで巻いたベースアンプのコードを床に放り出して理恵の席に向かった。

「こんばんは」
突然自分たちの席に現れたさっきのバンドのベーシストに、理恵も廉も驚きを隠せず、目をまるくした。
「いつも来ていただいてありがとうございます。今日の演奏、楽しんでいただけましたか?」
修二の声はちょっと上ずっているようだった。後から追いかけてきた博久はそのすぐ後ろで、はらはらしながらその様子を見ていた。
「……どちらかでお会いしました?あら。南くん」
修二はそれを聞いてうなだれたが、さすがに同じピアノ科の同級生には気づいたらしい。
「邪魔してごめん。でも、今気がついたなんてひどいじゃない?前からずっと出てたのにさ」
もはや声のでない修二のかわりに博久が文句を言った。
「ごめんなさい。廉さん、この人同級生なの。あぁ、この人もよね?」
理恵は廉に目配せした。
「カレシ?」
博久の問いに、理恵は一瞬まじめな顔になり、いたずらっぽく笑って言った。
「そうね。いずれそうなるかもね」
「そうなるかも?」
修二はそこには敏感に反応した。理恵は意味ありげに高笑いした。廉はどう見てもかわいそうな修二に追い討ちを掛けるような理恵の態度に内心あきれていたが、あえて言葉にはしなかった。
「今日はさっきのステージで終わりなんですけど、どうぞ良かったら、また来てください。モダンジャズはお好きですか?言っておいてもらえばスタンダードはリクエストにもお答えしますから」
打ちひしがれた修二を後ろにやって、博久が替わりに挨拶した。
「君たちもG大の生徒さんなんですね。なかなかいいオリジナルでしたよ。また来ます」
特に誰からも説明を受けたわけでもないのに、演っていたのがオリジナルとわかっていたのか。理恵は実は自分があまりコンテンポラリージャズを知らないので、廉のその発言に驚かされた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
博久はぺこりと頭を下げると、修二を連れて片付けにもどった。