カデンツァ

 朝になって自分の目覚ましがなる前に廉は目を覚ましたが、泉がいないことに気づいて愕然とした。
いつもと違う朝を迎えるはずだった。彼女をスリーピング・ビューティのようにキスで起こすはずだったのに。廉は部屋の中を見て回った。彼女のものは何もない。跡形もなく消えた。
ふと思い立って泉に電話すると、泉は3度目のコールで電話に出た。めずらしい。こんな時には出ないと思っていたが。泉は自分の部屋に戻っているらしい。

「一体、どこの世界にはじめての夜を過ごした男をほっぽらかして帰る女がいる」

廉は泉が間違って馬鹿なことをしてしまったと思えるように、なるべく軽い調子で言った。しかし、泉の答えは廉が期待するものとは全く違っていた。

「……森嶋さん……私はあなたが望むような女性にはなれませんから」

「なに?」

廉は頭の中がぐるぐる回り始めるのを感じた。森嶋さん!?

「私ができることはやりました。約束は守ってください。これで本当におしまいです。もう電話してこないで下さい」

彼女の言葉が頭の中で3度は回った。嫌な予感は的中するものだ。もしかして、こんなことを言われるのではないかと、廉は潜在意識のどこかにこの予想をしまっていた。しかし、現実はそんなに甘くはない。泉のストレートなその言葉が本物になった。

「……君は自分のやってることが本当にわかってるのか?それじゃ一体どうして昨日の晩、俺と過ごしたんだ」

「今回の約束で私がすることはゲストをおもてなしすることでした。最後のは成り行きです……もし私が相手で楽しめなかったのなら、ごめんなさい」

それを聞いた廉は急激に頭に血が上った。

「なんてこと言うんだ!ばかやろう!!」

電話口で怒鳴った廉に驚いたのか、泉はしばらく黙ってまた静かに言った。

「私たち……お互いいい年ですから……時間を無駄にしない方がいいと思うんです。あなたには大事な仕事もあるし、私はあなたと、どう考えてもつりあいません」

廉は激昂した後で、自分の頭からさあっと血の気が引いていくのを感じた。まるで凍っていくようだ。廉は自分が本当に頭にきたときにこうなると知っていた。

「……だから何だ……」

脅すつもりはないが、声が自然と低くなる。

「……私、あなたとはお付き合いしません」

廉はそれを聞いてしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「君は大嘘つきだ。心にもないことを平気で言う。僕がこのまま引き下がると思うなよ」



電話が切れた。廉はうなるように叫んでスマホを床へ叩きつけた。


こんなに頑固な女だったとは……はじめからそうするつもりだったのか。そんな、まさか……廉はベッドに座り込んだ。


どうしてこんなに頑ななんだろう。俺のことを好きじゃないのか?確かに愛してるというには、かけた時間も短いだろう。俺はそれでも彼女を愛してしまったというのに……

彼女は俺のことを「もっと知りたい」と言ったし、ピンクペッパーに連れて行った時は、「気に入られるように目一杯努力してきた」とも言った。第一、弁当を作ってきた女なんて今までにいなかった。友人たちをあんな風にもてなしてくれた女もいなかった。キスするときのあの切ない表情。俺に抱かれるときのはにかんだ様子。

俺と付き合うつもりはない?それでも成り行きで抱かれてやっただと?そんな理由があるか!


わかっている……

彼女が変わったのは、この間のパーティの時からだ。正確には、俺が森嶋の人間だと知った時から……

廉は顔を自分の手で覆った。


結局、レグノが俺の足を引っ張る。俺はそんなことは何も望んでいないのに。

この間泉の家に泊まった時、泉は会社をつぶすと言うことがどういうことか知っていると公子が言っていた。

泉の父親はもともとはサラリーマンだったが、泉が高校に入ってすぐ、父親の兄がやっていた実家の輸入家具の店が上手くいかなくなり、サラリーマンを辞めてその兄の家業を手伝うことになった。
泉の父と母は語学ができたので会社の存続のために海外を行き来し、一方で金策にも走ったが、実際、会社に入った時は既に手遅れの状態だった。泉はしばらくの間ということでその父親の兄の家に預けられていたが、この時、従弟の子供たちにひどくいじめられた。
持っていたものは取り上げられ、おもちゃにされて畑に捨てられた。会社が傾いた原因は実際、彼らの親にあったが、日々のいらだちや憤懣を泉にぶつけて楽しんでいた。

2年後、会社が倒産して後始末が全て済むと、泉は元の家に戻されたが、その時、泉はすでに全く別の子供となっていた。
人前ではただ目立にないように後ろに立ち、自分から話をすることなどほとんどなく、徹底して気配を消す。それが居候している者の身の程だった。
「あれでも大分戻ったんですけどね。自分のやりたいことを言わずにしまっちゃうのはどうしても治らなくて」
公子が言った。

どうりで。
泉がふと口にする、「あなたとは住む世界が違うから ……」

小さな違いを見つけるたび、彼女はそれをあきらめるよう、自分に言い問かせてきた。自分と同じ一人っ子なら、もっとわがままに育っても良かったはずなのに。

高校で進学先を決めるとき、泉は本当は初めからピアノをやりたかったのだと公子は言った。しかし、とても音楽系の大学の学費が払えるほどのお金がなく、だから、それを諦めて普通の大学へ行った。泉はそれでも感謝していたし、父の会社の他の従業員たちに申し訳ないと思っていたらしかった。だから、泉は自分にアリオンをつぶして欲しくないと思っているのだ。

けれど……泉がどうして自分を犠牲にしなければならないのだ。彼女はもがき苦しんでいる。自分の生活にも、音楽にも、そして俺のことにも。

できればそれを受け止めてやりたい。泉がもう少し楽に生きられるようにしてやりたい。そして、好きなものを好きといえるように。何も気兼ねなく、俺のところに戻ってこれるようにしてやりたい。

廉は顔を上げた。絶対に取り戻してみせる。泉の本当の気持ち。そしてばらばらになったスマホの破片を一つ一つ拾い集めた。