東京で今、一番勢いのある楽器店、蔵野楽器の本社は東銀座にあった。社長の蔵野満が目をつけていたその第2開発地区は、他の楽器屋もたくさん来ることになっていて、おそらく楽器屋通りになるはずだった。それも、ばらばらとあっちこっちに点在しているのではなく、まとまった場所になる。同じ楽器を売るものも出てくるだろうし、そういう意味では店の特色を出す必要があった。満は自分の店に絶対の自信を持っていたが、満がねらっていたブルーアクアという古いファッションビルの立っている土地は、アリオンも同じように目をつけているようだった。この土地を持っている片岡不動産はなかなかのやり手で、競争相手がアリオンだとはっきり言った。
そうと聞いてはやはり手に入れるしかない。満はどうしてもアリオンに負けたくなかった。
土地の心配だけではなく、満はそこに入れるソフトの心配もしなければならなかった。教室を持つなら講師を用意しなければならない。しかも、有楽町でやってもらうからには、東京グループの顔になってもらえるような一流の講師でなければならない。しかし、そういう講師は既にアリオンや他の楽器店でかなり良い条件で給料をもらっているものだ。満はその一流の講師たちをうまく引き抜くために、ハンティング専門の会社を頼んだ。高い金を払うことになるが、本当に必要な人材を連れてきてもらえるのなら、それほどの投資ではない。彼らは引抜をする先の会社に本当にもぐりこんで、実際にその人材の能力を確かめてからスカウトに入ると言った。もちろん、第一の矛先はアリオンだ。
アリオンは老舗ではあるが、もともとそれほど高い給料を講師たちに払っているわけではなかった。ほとんど全員が契約社員かアルバイトだし、不満を持っている講師も大勢居るらしい。満にとってもっと都合のよいことに、アリオンは傾きかけていた。
今のレグノの会長、森嶋正一は大変なやり手だった。しかし正一が表舞台から引退し、今の社長の匡に代わって、森嶋楽器がレグノとアリオンに袂を分かつようになってから、アリオンの方はその勢いを失ってしまっていた。バブルがはじけたこともあったが、持っていたビルをいくつか売り払っているし、また、今のアリオンの社長、鳴海礼子にも良い噂はなかった。今年の春になってようやくコンサルを入れたと聞いていたが、本当に立て直せるか見ものだった。店舗が減ったということは、今はねらい目なのだ。講師も生徒も。傾きかけたアリオンに見切りをつける社員もたくさん居るに違いない。満はひとりほくそえんだ。
昨日、アリオンにノートを置いてきてしまった。きっとあの男が持っているに違いない……もちろん中を覗いただろう。大して弾けもしないくせにと思っただろうか……泉は恥ずかしいのと同時に、ノートを見られただろうということで非常に落ち込んでいた。
泉がピアノを弾き始めたのは幼稚園に入る前だった。音楽が好きで好きで、何を置いてもピアノの練習だけは休まなかった。しかし、高校生になった頃から、泉は自分の腕がプレーヤーとしてはやっていけない程度だということを感じ始めた。目指すのなら本当は頂点を目指したい。けれど、自分にはその才能はない。そう結論が出たとき、泉は音大への進学をあきらめた。だから総合大学の経済学部へ進んで、普通に就職したのだ。
就職した先は広告会社だった。しかし、そこでも泉はいろいろな音楽を媒体として流していく音楽メディアを扱う部門に行くことになった。仕事を通じてアーティストたちが作る本当の音楽に触れるうち、泉は結局、最後は自分がそれをやりたいのだと気づかざるを得なかった。自分の腕があろうがなかろうが、どうしてもできるところまでやってみたくなったのだ。3年そこで働き、会社を辞め、半年練習だけに打ち込んで、泉はこれで最後のつもりでG大を受けた。そこで受からなかったらもちろん諦めるつもりだったが、泉はそれなりの成績でピアノ科に合格し、ほとんど7つも年下の生徒たちと一緒に大学に通うことになったのだった。
泉がG大に入った時、小さな貿易商を営んでいた泉の父はすでに亡くなっていた。だから泉は食べることも、学費も、すべて自分でまかなわなければならなかった。音楽をやる学生にはありえないことだが、アルバイトも掛け持ちし、寝る間も惜しんで練習しなければならないような状況にも泉は耐えた。耐えられると思っていた。そうでなければ、それなりの給料をもらっていた会社を辞めてまで、わざわざG大に入りなおした意味がなくなってしまう。
自分は音楽の道へ進んではいけなかったのではないか。泉の心の中には、その太い釘の先がもともと少しだけ刺さっていた。時間がたつうちに、練習を重ねるうちに、忘れることができるほど、その痛みは小さくなっていた。けれど、この間の夜、突然投げかけられたあの男の言葉は、大きなハンマーとなってその頭をたたいたのだ。その釘は今や泉の心臓に深くささり、昼となく夜となく泉を苛んでいる。泉自身がずっと以前から感じていたことを、あの男はあらためて駄目押しした。
泉はため息をついていた。自分には本当になにもない……
同じように大学に通っている普通の学生たちの生活を見ていると、自分がものすごく惨めだった。
それでも、自分はこのままの生活を続けるしかない。いくら自分に才能がなくても、どんな貧しい生活をすることになっても、できるところまではやりとおさねば。そうでなければ、また自分に納得しないまま音楽をやめることになってしまう。
こうして、時折思い出したように襲う不安を泉は再び振り払った。
「ねぇ、今夜はJで弾くんだっけ?」
真紀の声に泉ははっとした。
「あ、ええ。そうよ。あなたは今日は家で練習?」
「うん。そのつもり。でも、もしかしたら、出かけるかも。阿部先生が時間が空いたらレッスンしてくれるって言ってたから」
その返事に泉は真紀を凝視した。
「レッスンってどこで?阿部先生の家?」
「やだ、泉ったら。どうしてそんな目で見るの?別に変な関係じゃないわよ、私たち。先生はただ、見てくれるって言ったくれただけよ。阿部先生が私なんかを見てくれるなんて、こんなチャンスもうないかもしれないじゃない」
泉は口をつぐんで、それ以上、真紀には何も言わなかった。心配しすぎだろうか?単純に喜んでいるのに、余計な事を言わないほうがいいのだろうか。
しかし以前、泉をしつこく誘っていた阿部の態度にはちょっと嫌な感じもあった。真紀はそんなことは感じていないらしいが。
「大丈夫。心配しないで。阿部先生はそんな人じゃないわよ」
真紀はそう言って、自分が食べ終わったクロワッサンの袋をたたんだ。
そうと聞いてはやはり手に入れるしかない。満はどうしてもアリオンに負けたくなかった。
土地の心配だけではなく、満はそこに入れるソフトの心配もしなければならなかった。教室を持つなら講師を用意しなければならない。しかも、有楽町でやってもらうからには、東京グループの顔になってもらえるような一流の講師でなければならない。しかし、そういう講師は既にアリオンや他の楽器店でかなり良い条件で給料をもらっているものだ。満はその一流の講師たちをうまく引き抜くために、ハンティング専門の会社を頼んだ。高い金を払うことになるが、本当に必要な人材を連れてきてもらえるのなら、それほどの投資ではない。彼らは引抜をする先の会社に本当にもぐりこんで、実際にその人材の能力を確かめてからスカウトに入ると言った。もちろん、第一の矛先はアリオンだ。
アリオンは老舗ではあるが、もともとそれほど高い給料を講師たちに払っているわけではなかった。ほとんど全員が契約社員かアルバイトだし、不満を持っている講師も大勢居るらしい。満にとってもっと都合のよいことに、アリオンは傾きかけていた。
今のレグノの会長、森嶋正一は大変なやり手だった。しかし正一が表舞台から引退し、今の社長の匡に代わって、森嶋楽器がレグノとアリオンに袂を分かつようになってから、アリオンの方はその勢いを失ってしまっていた。バブルがはじけたこともあったが、持っていたビルをいくつか売り払っているし、また、今のアリオンの社長、鳴海礼子にも良い噂はなかった。今年の春になってようやくコンサルを入れたと聞いていたが、本当に立て直せるか見ものだった。店舗が減ったということは、今はねらい目なのだ。講師も生徒も。傾きかけたアリオンに見切りをつける社員もたくさん居るに違いない。満はひとりほくそえんだ。
昨日、アリオンにノートを置いてきてしまった。きっとあの男が持っているに違いない……もちろん中を覗いただろう。大して弾けもしないくせにと思っただろうか……泉は恥ずかしいのと同時に、ノートを見られただろうということで非常に落ち込んでいた。
泉がピアノを弾き始めたのは幼稚園に入る前だった。音楽が好きで好きで、何を置いてもピアノの練習だけは休まなかった。しかし、高校生になった頃から、泉は自分の腕がプレーヤーとしてはやっていけない程度だということを感じ始めた。目指すのなら本当は頂点を目指したい。けれど、自分にはその才能はない。そう結論が出たとき、泉は音大への進学をあきらめた。だから総合大学の経済学部へ進んで、普通に就職したのだ。
就職した先は広告会社だった。しかし、そこでも泉はいろいろな音楽を媒体として流していく音楽メディアを扱う部門に行くことになった。仕事を通じてアーティストたちが作る本当の音楽に触れるうち、泉は結局、最後は自分がそれをやりたいのだと気づかざるを得なかった。自分の腕があろうがなかろうが、どうしてもできるところまでやってみたくなったのだ。3年そこで働き、会社を辞め、半年練習だけに打ち込んで、泉はこれで最後のつもりでG大を受けた。そこで受からなかったらもちろん諦めるつもりだったが、泉はそれなりの成績でピアノ科に合格し、ほとんど7つも年下の生徒たちと一緒に大学に通うことになったのだった。
泉がG大に入った時、小さな貿易商を営んでいた泉の父はすでに亡くなっていた。だから泉は食べることも、学費も、すべて自分でまかなわなければならなかった。音楽をやる学生にはありえないことだが、アルバイトも掛け持ちし、寝る間も惜しんで練習しなければならないような状況にも泉は耐えた。耐えられると思っていた。そうでなければ、それなりの給料をもらっていた会社を辞めてまで、わざわざG大に入りなおした意味がなくなってしまう。
自分は音楽の道へ進んではいけなかったのではないか。泉の心の中には、その太い釘の先がもともと少しだけ刺さっていた。時間がたつうちに、練習を重ねるうちに、忘れることができるほど、その痛みは小さくなっていた。けれど、この間の夜、突然投げかけられたあの男の言葉は、大きなハンマーとなってその頭をたたいたのだ。その釘は今や泉の心臓に深くささり、昼となく夜となく泉を苛んでいる。泉自身がずっと以前から感じていたことを、あの男はあらためて駄目押しした。
泉はため息をついていた。自分には本当になにもない……
同じように大学に通っている普通の学生たちの生活を見ていると、自分がものすごく惨めだった。
それでも、自分はこのままの生活を続けるしかない。いくら自分に才能がなくても、どんな貧しい生活をすることになっても、できるところまではやりとおさねば。そうでなければ、また自分に納得しないまま音楽をやめることになってしまう。
こうして、時折思い出したように襲う不安を泉は再び振り払った。
「ねぇ、今夜はJで弾くんだっけ?」
真紀の声に泉ははっとした。
「あ、ええ。そうよ。あなたは今日は家で練習?」
「うん。そのつもり。でも、もしかしたら、出かけるかも。阿部先生が時間が空いたらレッスンしてくれるって言ってたから」
その返事に泉は真紀を凝視した。
「レッスンってどこで?阿部先生の家?」
「やだ、泉ったら。どうしてそんな目で見るの?別に変な関係じゃないわよ、私たち。先生はただ、見てくれるって言ったくれただけよ。阿部先生が私なんかを見てくれるなんて、こんなチャンスもうないかもしれないじゃない」
泉は口をつぐんで、それ以上、真紀には何も言わなかった。心配しすぎだろうか?単純に喜んでいるのに、余計な事を言わないほうがいいのだろうか。
しかし以前、泉をしつこく誘っていた阿部の態度にはちょっと嫌な感じもあった。真紀はそんなことは感じていないらしいが。
「大丈夫。心配しないで。阿部先生はそんな人じゃないわよ」
真紀はそう言って、自分が食べ終わったクロワッサンの袋をたたんだ。

