廉がロビーにやってきたのは、結局、自分のスピーチが終わった後だった。もう1時間以上経っている。そこに泉の姿はなかった。とりあえず電話だけはしておかなければと考えた廉は、自分のスマホを取り出したが、ちょうどそこへ河部がやってきた。
「吉野さんはもう、帰られました」
廉は河部がどうしてそんなことを言うのか、理解できなかった。
「なんでそんなこと……」
「彼女は自分から帰ったんです。あんなにきれいな引き際の女性もめずらしいですな」
河部は顔色一つ変えずに言ったが、その言葉は廉を激昂させるに十分だった。
「一体、何を言った? 彼女に何を言ったんだ!?」
ロビーにいた何人かの人々が一斉に廉の方を向いた。
「声が大きいですよ。私が申し上げたのは、廉さんにはレグノに責任があるということだけです。私は彼女はそのことは知らないと思ってましたから……けど、違っていたようです。自分からお話になったんですか?それともはじめから?」
河部の言うことに、廉はショックを受けた。もちろん、近いうちに話そうとは思っていた。隠しているつもりもなかったが、彼女は自分が森嶋匡の息子だということは知らないはずだった。あの態度からして、知っているわけがない……。
いや、もしかして、最近知ったのか?だから、この間の電話……。
廉は「くそっ」と言って床を蹴った。
もちろん、それ以外にも思い当たる節はある。今日の智香子のことだってそうだし、この間の理恵の件もそうだ。しかし、泉が一番嫌がりそうなのは、どう考えても自分が森嶋の家の人間だということだった。
廉は泉を呼び出そうとしたが、泉はスマホ帯の電源を切っているようだ。
「まだお客様は帰っておられません。もう少し冷静になってください」
河部は廉の様子を見てそう言い、会場に去っていった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分が森嶋の家の人間だと言うことを黙っていたこと以外、やましいことなど何もないのに。まして、自分はレグノを継ぐつもりはないと周りには何度も言ってきたのだ。
廉はさっきまで泉が座っていた円柱の椅子に座り込んだ。
夜8時をまわってようやくパーティの片づけを終えた廉は、アリオンの社員たちが執拗に打ち上げに誘うのを何とか断って、自分の車で泉の部屋へ向かった。
車を降りて泉の部屋のインターフォンを押す。
何も反応がない、と言うか、本当に小さい音だが、部屋の中からピアノの音が聞こえてきている。たぶん泉が弾いているのだ。防音室にいるのだとしたら、外からだと聞こえないだろう。しかし、廉は諦め切れなかった。電話はもう何度もした。ずっと電源が切られたままだ。廉はみっともないのを承知で、泉の部屋の扉をどんどんたたいて泉の名を呼んだ。
「もう、誰よ?うるさいわね!」
代わりに出てきたのは、隣の住人だった。扉を少しだけ開けて廉にどなった。
「ここはねぇ、みんな防音が入ってんの。どんどんやっても部屋に入ってるときはダメなの。それに、聞こえない?今日は彼女インベンション・ナイトでしょ?」
その女性が言ったとおり、泉の部屋の中から聞こえているのはバッハのインベンションだ。
「あれが始まったら、彼女はもう何にも聞こえないんだからね。たぶん一晩中弾いてるわよ。今2クール目の真ん中」
「インベンションを?」
泉にそんな習慣があるとは知らなかった。
「そう」
女性はそっけなく言って、自分の部屋の扉をバンと閉めた。
廉は扉の向こうで、ただ一心にピアノを弾く泉を苦々しく思いながら車に戻った。
「吉野さんはもう、帰られました」
廉は河部がどうしてそんなことを言うのか、理解できなかった。
「なんでそんなこと……」
「彼女は自分から帰ったんです。あんなにきれいな引き際の女性もめずらしいですな」
河部は顔色一つ変えずに言ったが、その言葉は廉を激昂させるに十分だった。
「一体、何を言った? 彼女に何を言ったんだ!?」
ロビーにいた何人かの人々が一斉に廉の方を向いた。
「声が大きいですよ。私が申し上げたのは、廉さんにはレグノに責任があるということだけです。私は彼女はそのことは知らないと思ってましたから……けど、違っていたようです。自分からお話になったんですか?それともはじめから?」
河部の言うことに、廉はショックを受けた。もちろん、近いうちに話そうとは思っていた。隠しているつもりもなかったが、彼女は自分が森嶋匡の息子だということは知らないはずだった。あの態度からして、知っているわけがない……。
いや、もしかして、最近知ったのか?だから、この間の電話……。
廉は「くそっ」と言って床を蹴った。
もちろん、それ以外にも思い当たる節はある。今日の智香子のことだってそうだし、この間の理恵の件もそうだ。しかし、泉が一番嫌がりそうなのは、どう考えても自分が森嶋の家の人間だということだった。
廉は泉を呼び出そうとしたが、泉はスマホ帯の電源を切っているようだ。
「まだお客様は帰っておられません。もう少し冷静になってください」
河部は廉の様子を見てそう言い、会場に去っていった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分が森嶋の家の人間だと言うことを黙っていたこと以外、やましいことなど何もないのに。まして、自分はレグノを継ぐつもりはないと周りには何度も言ってきたのだ。
廉はさっきまで泉が座っていた円柱の椅子に座り込んだ。
夜8時をまわってようやくパーティの片づけを終えた廉は、アリオンの社員たちが執拗に打ち上げに誘うのを何とか断って、自分の車で泉の部屋へ向かった。
車を降りて泉の部屋のインターフォンを押す。
何も反応がない、と言うか、本当に小さい音だが、部屋の中からピアノの音が聞こえてきている。たぶん泉が弾いているのだ。防音室にいるのだとしたら、外からだと聞こえないだろう。しかし、廉は諦め切れなかった。電話はもう何度もした。ずっと電源が切られたままだ。廉はみっともないのを承知で、泉の部屋の扉をどんどんたたいて泉の名を呼んだ。
「もう、誰よ?うるさいわね!」
代わりに出てきたのは、隣の住人だった。扉を少しだけ開けて廉にどなった。
「ここはねぇ、みんな防音が入ってんの。どんどんやっても部屋に入ってるときはダメなの。それに、聞こえない?今日は彼女インベンション・ナイトでしょ?」
その女性が言ったとおり、泉の部屋の中から聞こえているのはバッハのインベンションだ。
「あれが始まったら、彼女はもう何にも聞こえないんだからね。たぶん一晩中弾いてるわよ。今2クール目の真ん中」
「インベンションを?」
泉にそんな習慣があるとは知らなかった。
「そう」
女性はそっけなく言って、自分の部屋の扉をバンと閉めた。
廉は扉の向こうで、ただ一心にピアノを弾く泉を苦々しく思いながら車に戻った。

