土曜日のアリオンでのレッスンは、8時30分からの生徒が休みだった。残っているのは小澤の個人レッスンだけである。
このレッスンが終わると、アリオンもちょっと短い夏休みに入る。小澤はこのところめきめき腕を上げ、あと1ヶ月もすれば、本当に「ワルツ・フォー・デヴィ」が弾けるのではないかと思わせるほどだった。もともと楽器をいろいろ触りたい生徒らしく、最近ではサックスとヴァイオリンの教室にも顔を出していると言っていた。そんなに練習時間があるのか疑問だったが、ピアノに関してはまじめに練習してきてくれているし、好きでやってくれているのなら、泉はそれが一番だと考えていた。
8時40分を回った頃だった。講師の中井が部屋に駆け込んできて、テーブルでお茶を飲んでくつろいでいた女性講師たちに言った。
「ねぇねぇ、今、受付に森嶋廉の元婚約者が来てるわよ。すっごい美人」
「こんやくしゃあ?ちょっと、それ聞き捨てならないわね!誰から聞いたの?本人が言ったの?」
「ううん。高梨さん。あの人古株でしょ?でも、森嶋さんねらってたから、ショックだと思うわー。だって、うまく行けばいずれは会長婦人……」
「ちょっと、見に行こうよ」
そうして、二人が席を立ってロビーに出て行った。
「あの……会長ってどなたのことですか?」
受付から戻ってきたピアノ科講師の中井に泉は訊ねた。婚約者の話もともかく、会長云々というのはどういうことだろう?
「あら。まぁ、知らなかった? でも、アリオンの親会社がレグノだってことは知ってるでしょ? レグノ・デリソーラはアリオンの社長のお兄さんがやってる会社で、レグノグループはもともと森嶋楽器がはじめた企業体。私たちもはじめ、だまされてたのよ。コンサル会社から来たなんて言うから……森嶋っていっても、まぁ森嶋の家の遠い親戚かなんかだろうって……でも森嶋部長は、正真正銘、レグノグループの会長の孫よ」
泉はとりあえず「へぇぇ、そうだったんですか」と言ったものの、正直、まっすぐ立っていられるのが不思議なくらいだった。
うろたえているのを悟られないように、すぐに講師室を出た。
とにかく落ち着かなきゃ。
泉は小走りにロビーの前を通り過ぎようとしたが、その時、さっき中井が言っていた「元婚約者」らしい背の高い美しい女性が、高梨と話しているのが見えた。
「確認しますのでもう少しお待ちくださいね。森嶋部長は今日はこちらに来られることになっていたんですけど、明日のパーティの準備とかいろいろお忙しくて、最近は予定がめちゃくちゃなんです」
昨日の夜の電話で、泉は廉がたぶん今日来れないだろうということを知っていた。高そうなスーツを着て、背筋の伸びたきれいな人……泉はちらと女性を見て自分の教室に向かう。真っ暗な教室で、泉は電気のスイッチを入れて中に入った。奥のピアノの椅子に腰掛け、背中を壁に持たせかけ、目を閉じる。
彼がレグノ・グループの会長の孫……やはり何かあると思ってたのだ。
泉は自分の呼吸が速くなっているのを感じて深呼吸した。どうして今まで疑ってみなかったのだろう。もちろん森嶋という名前が気にならなかったわけではない。けど、もし関係があるにしてもまさか本丸だったなんて。自分の全身から力が抜けていくようだ。
ああ。馬鹿みたい。どうしたってだめだわ。彼と付き合うなんてどう考えたってありえない。
富田理恵。アリオンの会長の孫。それに、元婚約者。
私には話しにくいことばかりだったに違いない。それともいずれは話そうと思ってた?でも、こんなこと、どれが出てきたって、私に勝ち目はなかった。もともと。
泉は大きくため息をついた。涙さえでない。これが驚きだったのか、予想内の出来事だったのか、なんだかもう判断がつかない。自分が傷つきたくなかったから、いろいろな障害を想定してはいた。廉は自分とは違う世界に住んでいるということも判っていた。
だから、悲しくもない。悲しくなんて……
泉はもうこれ以上、そのことを考えるのはやめにしようと思った。何かがきっかけで、自分の気持ちがあふれてめちゃくちゃになったら、それこそレッスンなんて続けられない。泉はピアノのふたを開けて、自分の思いつくままに弾き始めた。
このレッスンが終わると、アリオンもちょっと短い夏休みに入る。小澤はこのところめきめき腕を上げ、あと1ヶ月もすれば、本当に「ワルツ・フォー・デヴィ」が弾けるのではないかと思わせるほどだった。もともと楽器をいろいろ触りたい生徒らしく、最近ではサックスとヴァイオリンの教室にも顔を出していると言っていた。そんなに練習時間があるのか疑問だったが、ピアノに関してはまじめに練習してきてくれているし、好きでやってくれているのなら、泉はそれが一番だと考えていた。
8時40分を回った頃だった。講師の中井が部屋に駆け込んできて、テーブルでお茶を飲んでくつろいでいた女性講師たちに言った。
「ねぇねぇ、今、受付に森嶋廉の元婚約者が来てるわよ。すっごい美人」
「こんやくしゃあ?ちょっと、それ聞き捨てならないわね!誰から聞いたの?本人が言ったの?」
「ううん。高梨さん。あの人古株でしょ?でも、森嶋さんねらってたから、ショックだと思うわー。だって、うまく行けばいずれは会長婦人……」
「ちょっと、見に行こうよ」
そうして、二人が席を立ってロビーに出て行った。
「あの……会長ってどなたのことですか?」
受付から戻ってきたピアノ科講師の中井に泉は訊ねた。婚約者の話もともかく、会長云々というのはどういうことだろう?
「あら。まぁ、知らなかった? でも、アリオンの親会社がレグノだってことは知ってるでしょ? レグノ・デリソーラはアリオンの社長のお兄さんがやってる会社で、レグノグループはもともと森嶋楽器がはじめた企業体。私たちもはじめ、だまされてたのよ。コンサル会社から来たなんて言うから……森嶋っていっても、まぁ森嶋の家の遠い親戚かなんかだろうって……でも森嶋部長は、正真正銘、レグノグループの会長の孫よ」
泉はとりあえず「へぇぇ、そうだったんですか」と言ったものの、正直、まっすぐ立っていられるのが不思議なくらいだった。
うろたえているのを悟られないように、すぐに講師室を出た。
とにかく落ち着かなきゃ。
泉は小走りにロビーの前を通り過ぎようとしたが、その時、さっき中井が言っていた「元婚約者」らしい背の高い美しい女性が、高梨と話しているのが見えた。
「確認しますのでもう少しお待ちくださいね。森嶋部長は今日はこちらに来られることになっていたんですけど、明日のパーティの準備とかいろいろお忙しくて、最近は予定がめちゃくちゃなんです」
昨日の夜の電話で、泉は廉がたぶん今日来れないだろうということを知っていた。高そうなスーツを着て、背筋の伸びたきれいな人……泉はちらと女性を見て自分の教室に向かう。真っ暗な教室で、泉は電気のスイッチを入れて中に入った。奥のピアノの椅子に腰掛け、背中を壁に持たせかけ、目を閉じる。
彼がレグノ・グループの会長の孫……やはり何かあると思ってたのだ。
泉は自分の呼吸が速くなっているのを感じて深呼吸した。どうして今まで疑ってみなかったのだろう。もちろん森嶋という名前が気にならなかったわけではない。けど、もし関係があるにしてもまさか本丸だったなんて。自分の全身から力が抜けていくようだ。
ああ。馬鹿みたい。どうしたってだめだわ。彼と付き合うなんてどう考えたってありえない。
富田理恵。アリオンの会長の孫。それに、元婚約者。
私には話しにくいことばかりだったに違いない。それともいずれは話そうと思ってた?でも、こんなこと、どれが出てきたって、私に勝ち目はなかった。もともと。
泉は大きくため息をついた。涙さえでない。これが驚きだったのか、予想内の出来事だったのか、なんだかもう判断がつかない。自分が傷つきたくなかったから、いろいろな障害を想定してはいた。廉は自分とは違う世界に住んでいるということも判っていた。
だから、悲しくもない。悲しくなんて……
泉はもうこれ以上、そのことを考えるのはやめにしようと思った。何かがきっかけで、自分の気持ちがあふれてめちゃくちゃになったら、それこそレッスンなんて続けられない。泉はピアノのふたを開けて、自分の思いつくままに弾き始めた。

