カデンツァ

 タクシーの中で泉は奈々子に電話をかけ、博久もルーシーもまだ一緒にいること、真紀とルーシーがかなり酔ってしまっていて、まだ酔いをさましているところだと言うことを聞き出した。そして、ルーシーの兄が迎えに行くこと、泉もそちらへ向かっていることを伝えると、奈々子はほっとしたようだった。おそらく博久の仕事が終わるまで、帰るに帰れない状況だったのだ。泉は奈々子に申し訳ない気持ちになった。

デラロサでは、今日予定されていた演目は全て終わっていたが、時間が遅いので客はほとんど帰ってしまっており、ステージ上ではまだ学生の練習のようなセッションが続いていた。泉が店に入っていくと、すぐに奈々子が気づいて手を振った。テーブルの上に真紀がつっぷして眠っており、ルーシーはソファの片隅で丸くなって同じように寝ていた。博久はまだ店の片づけをしている。
「奈々ちゃん、ごめんね。こんな時間まで。もう帰らないと、終電出ちゃってない?」
奈々子の家は千住なので、それほど遠いわけではないが、両親が心配しているに違いない。
「大丈夫。ちゃんと家には電話したし、車で帰るから。それより泉さんこそ。バイトで疲れてるのに、わざわざここまで来るの大変だったでしょ?」
昼間一緒にバイトをして、その後もまたJに行った事を知っている奈々子は泉のことを気遣っていた。
「ううん。私は大丈夫。部屋も近いし。ルーシーはお兄さんがここに迎えに来るから。今までいてくれてありがとう。真紀は私が連れて帰るし、ご両親がきっと心配してるから、奈々ちゃんも早くおうちに帰って」
「泉さん、大丈夫?明日もあるのに」
奈々子は心配そうに泉を見た。
「大丈夫よ。それより、ほんとにごめんね。それに、ありがとう」
「もう、やだ。泉さんたら」
奈々子は掃除をしていた博久とちょっと話をした後、後ろ髪を引かれるように、泉に申し訳なさそうに店を出て行った。奈々子に本当に悪いことをしてしまった。両親に叱られなければいいけど……

奈々子が出て行ってすぐ、デイビッドと廉が店に現れた。テーブルの上につぶれた真紀を横目に見ながら、デイビッドはルーシーを揺り起こした。
「Wake up, Lucy!」
ルーシーはほとんど眠り込んでいて返事にならない。
「こんなになるまで飲ませて、一体どういうつもりなんだ」
廉が泉に非難を浴びせた。ここにいなかったのを知ってるくせに。泉は返事をしなかった。
「あんたら、彼女の保護者?」
近くにいた博久がモップを持ったまま泉のすぐ後ろに立っていた。
「別に泉さんが飲ませたわけじゃないよ。ここにつれてきたのは僕たちだけど、ついて来たのも、たくさん飲んでこうなったのも、彼女がそうしたかったからでしょ」
泉が責められていると感じた博久が廉に言った。
「君は……」
「僕は泉さんの友達。南博久です。この間、富田とあなたがここに来てた時、自己紹介しませんでしたっけ?ルーシーとも、この間から友達……かなぁ?ね、泉さん」
泉は博久に困ったように微笑んだ。そうだった。この二人、初対面じゃない。
「Ren, We're going back.....」
デイビッドはルーシーをおぶろうとしていた。廉はそれを手伝って、デイビッドの後からついて店を出ていった。

「なんだよ。あいつら。まるで泉さんが悪いみたいじゃないか」
博久はモップを床につき立てて、仁王立ちになって怒っていた。泉は廉にあんなふうに言われたことがつらかったが、自分が何か特別な存在だったわけではないと思い直して、何とか自分を納得させた。やはり、あの人とはどうにもならない。
「さて、わたしも真紀をつれて帰らなきゃ。博久くんも、もうすぐ終わり?」
「うん。やべぇ、終電なくなる。じゃ、泉さん。また明日」
博久は店の時計が12時をさしているのに気がついて、モップを慌てて掃除用具入れに返しに行った。真紀もこのすぐ近くに住んでいるので、ちょっと送っていけばいいのだ。今までにも何度かこんなことがあって、博久は自分が真紀を送っていくことを知っているので、もはや何も言わなかった。
「真紀!真紀!ちょっと、おきて!」
真紀は酔ってはいたが、すぐに起きて泉がそこにいることに驚いた。
「どうしたのぉ。泉。なんでここにいるのぉ?」
「ちょっとね、ルーシーに用事があったの。さぁ、もうお店も閉まるし、帰るわよ」
泉は真紀の腕を取ってテーブル席のソファから立ち上がらせた。
「あーん、待ってぇ。靴はいてない……」
真紀がテーブルの下から自分の靴を拾い出す。ふらふらするのを腕で支えながら、泉は真紀に靴をはかせた。
「どれぐらい飲んだの?」
「大して飲んでないよぉ。コークハイ、4、5杯……」
「ここのコークハイの半分は焼酎なのよ。それは飲みすぎ」
なんとか靴を履いた真紀を腕に絡め取るようにして、泉はデラロサを出た。

「風が気持ちイー!」
部屋までの帰り道、真紀は泉に寄りかかるようにしてご機嫌だった。奈々子は手のかからない妹で、真紀は手のかかる妹。どちらも泉にはかわいくてしかたがない。自分に兄弟がないせいか、泉はそういう存在にずっと昔からあこがれていた。
「泉ぃ。ごめんねぇ……」
ご機嫌だった真紀が突然、泉に謝った。一体、何だというのだ。
「だってぇ、あたしぃ、ちょっとくやしかったんだぁ。泉がぁ、選ばれてぇ」
「選ばれたって、コンクールのこと?」
「うーん、そう」
真紀は頭を大きく縦に振った。あまりにそれが大きくて、真紀は泉と一緒によろけた。
「でもぉ。よーく、考えてみたんだけどぉ。やっぱりぃ、泉はすごいのかもと思ったのぉ。作曲でぇ、選ばれたのもぉすごいんだけどぉ、奈々が言ってたとーり。やっぱり泉のぉピアノぉ。あたし好きかもー!!」
真紀はそう言って泉に抱きついた。
「真紀……」
泉は大柄の真紀を後ろによろけながらもなんとか抱きとめた。
「泉ぃ。ピアノかぁやめないでねぇ。青山がぁ意地悪してもぉ、あたしが守ってあげるからぁ」
泉はそれを聞いて目頭が熱くなった。きっと、私のせいで嫌な思いをしたに違いないのに……
「真紀。ありがとう……」
最近の鬱々とした気持ちが、さあっと晴れるような気がした。ここ最近起こったいろいろな嫌なことが、全てこの一言で消えてなくなってしまったようだ。真紀がこんな風に言ってくれるなんて……泉はうれしかった。
「さ、かえろ」
泉は真紀の腕を抱えなおして、また歩き始めた。