それから大学で前期の試験が始まった。試験期間中、泉はアリオンへは行ったものの、Jの仕事は勉強時間が無くなってしまうので別のピアニストに代わってもらった。アリオンでは2度ほど廉と顔をあわせたが、お互い何も言わなかった。夜にも電話が何度かあったが、泉は廉からとわかると電話を取らなかった。あんなことを聞いてしまった後で、どういう態度で廉と接すればいいのか泉にはわからなかったし、廉から言い訳を聞くのも嫌だった。そうこうしているうちに、8月に予定されているアリオンの60周年創立記念パーティの準備などが始まってしまい、廉もなかなか連絡を取る時間がなくなってしまっていた。
夏休みに入ると、泉は大学の紹介で博久や奈々子とともに、昼間、台場のオープンカフェでアルバイトすることにしていた。博久も奈々子も、もちろんアルバイトなどしなくても良い家庭だったが、博久は自分の好き勝手に使う小遣い稼ぎのため、また奈々子は泉や博久と少しでも一緒にいたいという単純な理由から、泉たちと同じアルバイトをすることになっていた。
休みの間、泉は午前中はピアノを思う存分弾くことができ、また午後のカフェでのアルバイトも博久や奈々子と一緒なので、楽しくてしようがなかった。夕方からはJとアリオンが待っていたが、廉も忙しいのか、何度かJに花が届いただけで顔をあわせることもなくなっていた。おかげで泉としては何とか心の平穏を保てている。気になってはいたが、廉にはもう、自分から連絡を取ることはない。どういうつもりかもわからなかったし、これ以上何も起こらないだろうと泉は考えていた。
カフェのバイトを始めてから1週間ほど経ったある日、泉のスマホにルーシーから電話が入った。声に元気がない。ルーシーは、兄のデイビッドが本当は今週から休みを取る予定だったのに、急に仕事が入って休めなくなってしまったのだと言った。夜も遅いし、さびしいのでできれば夕食を一緒にしたいという。その日、泉は夜にJのバイトが入っていた。カフェが終わってからJのバイトまでに2時間ほどしかないが、それでも良ければと言って、泉はルーシーと約束した。帰り際、泉はにぎやかな方が良いと思い、博久と奈々子を誘った。二人とも「ああ、このあいだの……」となにやら言いたげだったが、顔を見合わせて笑い、一緒に行くといってくれた。
一人で何とか電車に乗れるようになっていたルーシーは、有楽町までやってきて、ちゃんと待ち合わせのマリオンの切符売り場の前にいた。「ルーシー!」と声をかけると、不安げに下を向いていた顔がぱっと明るくなって、こちらを向いた。
「イズーミー!」
本当に寂しかったんだわ。日本に一人きりじゃ、確かに面白くないに違いない。泉はなんだかルーシーがかわいそうになった。夏休みなんだし、デイビッドももう少しかまってあげればいいのに。せっかく日本に来たのに、何にもしないで帰ることになってしまいそうだ。
その後、泉たちは銀座まで歩いてタイ料理の店へ行き、安くておいしい食事を楽しんだ。博久は英語は怪しかったが、奈々子は小さい頃、父親の仕事の関係でワシントンにいたので英語は普通に話せる。ルーシーも年の近い彼らとは楽しく過ごせるようだった。
食事が済んで、泉はJに行かなければならなかったが、博久と奈々子、ルーシーは、一緒にデラロサに行くことにした。彼らと一緒なら心配することはない。博久と奈々子に感謝しながら、泉はJに急いだ。
夏休みに入ってから、泉は昼間の仕事とアリオンとJを掛け持ちでやっているが、どちらかと言えば、アリオンにいるよりはJにいる方が気が楽だった。もちろんお客さんが相手なのは同じだったが、Jでは人間にそれほど気を使う必要はない。人に教える方は気持ちをしっかり持っていないといけないし、体力も使う。朝から仕事をしていると、学校に行っているのと違って本当に疲れるのだ。
11時を回って、その日のステージをようやく終え、泉は着替えるために従業員控え室に向かった。ロッカーを開けるとスマホがぶるぶるしている。慌てて電話を取ると、どこかで見たような電話番号が表示された。誰だっけ?電話に出ると、聞き覚えのある声がした。
「森嶋です」
心臓がどきんと鳴って、泉は電話を落としそうになった。今日も花をもらった。ここ数日、Jに来ているときは必ずだ。けれど、泉は失礼だとは思いながらも、礼を言うのをためらっていた。廉と話をしたくなかったからだ。
「あの……」
泉が言いよどんでいると廉がそれを制した。
「ルーシーを知らないか?まだ部屋に帰ってきてないらしい。デイビッドがすごく心配してるんだが」
ルーシー!まだ帰ってなかったの?泉は頭を抱えた。
「あの……今日の夕方、一緒にご飯を食べました。それから……私の友人と一緒に上野のライブハウスに……」
廉が黙っている。苦虫を噛みつぶしたような廉の顔が思い浮かんだ。
「上野って、デラロサか?」
「そうです」
泉の返事を聞くやいなや、廉は「わかった」とだけ言って電話を切った。怒ってるのはわかるけど、そんな切り方ってないわ。泉はため息を一つついて大急ぎで着替え始めた。これはデラロサに行かざるを得ない。廉は一体どこにいたのだろうか?番号はスマホの番号ではなかった。アリオン……?私の方が先につけるかしら……着替えを急ぎ、Jを出た泉はタクシーをつかまえて、上野へ向かった。
夏休みに入ると、泉は大学の紹介で博久や奈々子とともに、昼間、台場のオープンカフェでアルバイトすることにしていた。博久も奈々子も、もちろんアルバイトなどしなくても良い家庭だったが、博久は自分の好き勝手に使う小遣い稼ぎのため、また奈々子は泉や博久と少しでも一緒にいたいという単純な理由から、泉たちと同じアルバイトをすることになっていた。
休みの間、泉は午前中はピアノを思う存分弾くことができ、また午後のカフェでのアルバイトも博久や奈々子と一緒なので、楽しくてしようがなかった。夕方からはJとアリオンが待っていたが、廉も忙しいのか、何度かJに花が届いただけで顔をあわせることもなくなっていた。おかげで泉としては何とか心の平穏を保てている。気になってはいたが、廉にはもう、自分から連絡を取ることはない。どういうつもりかもわからなかったし、これ以上何も起こらないだろうと泉は考えていた。
カフェのバイトを始めてから1週間ほど経ったある日、泉のスマホにルーシーから電話が入った。声に元気がない。ルーシーは、兄のデイビッドが本当は今週から休みを取る予定だったのに、急に仕事が入って休めなくなってしまったのだと言った。夜も遅いし、さびしいのでできれば夕食を一緒にしたいという。その日、泉は夜にJのバイトが入っていた。カフェが終わってからJのバイトまでに2時間ほどしかないが、それでも良ければと言って、泉はルーシーと約束した。帰り際、泉はにぎやかな方が良いと思い、博久と奈々子を誘った。二人とも「ああ、このあいだの……」となにやら言いたげだったが、顔を見合わせて笑い、一緒に行くといってくれた。
一人で何とか電車に乗れるようになっていたルーシーは、有楽町までやってきて、ちゃんと待ち合わせのマリオンの切符売り場の前にいた。「ルーシー!」と声をかけると、不安げに下を向いていた顔がぱっと明るくなって、こちらを向いた。
「イズーミー!」
本当に寂しかったんだわ。日本に一人きりじゃ、確かに面白くないに違いない。泉はなんだかルーシーがかわいそうになった。夏休みなんだし、デイビッドももう少しかまってあげればいいのに。せっかく日本に来たのに、何にもしないで帰ることになってしまいそうだ。
その後、泉たちは銀座まで歩いてタイ料理の店へ行き、安くておいしい食事を楽しんだ。博久は英語は怪しかったが、奈々子は小さい頃、父親の仕事の関係でワシントンにいたので英語は普通に話せる。ルーシーも年の近い彼らとは楽しく過ごせるようだった。
食事が済んで、泉はJに行かなければならなかったが、博久と奈々子、ルーシーは、一緒にデラロサに行くことにした。彼らと一緒なら心配することはない。博久と奈々子に感謝しながら、泉はJに急いだ。
夏休みに入ってから、泉は昼間の仕事とアリオンとJを掛け持ちでやっているが、どちらかと言えば、アリオンにいるよりはJにいる方が気が楽だった。もちろんお客さんが相手なのは同じだったが、Jでは人間にそれほど気を使う必要はない。人に教える方は気持ちをしっかり持っていないといけないし、体力も使う。朝から仕事をしていると、学校に行っているのと違って本当に疲れるのだ。
11時を回って、その日のステージをようやく終え、泉は着替えるために従業員控え室に向かった。ロッカーを開けるとスマホがぶるぶるしている。慌てて電話を取ると、どこかで見たような電話番号が表示された。誰だっけ?電話に出ると、聞き覚えのある声がした。
「森嶋です」
心臓がどきんと鳴って、泉は電話を落としそうになった。今日も花をもらった。ここ数日、Jに来ているときは必ずだ。けれど、泉は失礼だとは思いながらも、礼を言うのをためらっていた。廉と話をしたくなかったからだ。
「あの……」
泉が言いよどんでいると廉がそれを制した。
「ルーシーを知らないか?まだ部屋に帰ってきてないらしい。デイビッドがすごく心配してるんだが」
ルーシー!まだ帰ってなかったの?泉は頭を抱えた。
「あの……今日の夕方、一緒にご飯を食べました。それから……私の友人と一緒に上野のライブハウスに……」
廉が黙っている。苦虫を噛みつぶしたような廉の顔が思い浮かんだ。
「上野って、デラロサか?」
「そうです」
泉の返事を聞くやいなや、廉は「わかった」とだけ言って電話を切った。怒ってるのはわかるけど、そんな切り方ってないわ。泉はため息を一つついて大急ぎで着替え始めた。これはデラロサに行かざるを得ない。廉は一体どこにいたのだろうか?番号はスマホの番号ではなかった。アリオン……?私の方が先につけるかしら……着替えを急ぎ、Jを出た泉はタクシーをつかまえて、上野へ向かった。

