カデンツァ

 金曜日、泉はJに早くから入って、明日の青山のレッスンのために入念に練習をした。いくらピアノに才能がないと言われたとしても、自分はこれをやろうと思って大学に入ったわけだし、少なくとも卒業までは何とかピアノでやっていこうと決心したのだ。だからと言って作曲の方をやらないつもりではなかった。もともと曲を作るのは好きでやっていたことだし、これが何かになるのならそれも良し。自分を否定するのはやめようと泉は考えた。ただ、やはり自分はピアノ科でやっていく。青山がなんと言おうが、できるところまでついていくつもりだった。

店が始まって最後のステージにあがったとき、泉はフロアにブレナーと森嶋が案内されてくるのを見た。慌ててサマータイムのフレーズを4小節ほど飛ばしてしまったが、なんとかごまかしてしまった。泉はここしばらく、最後のステージでも他のステージと同じようにJAZZを弾いている。この間のことがトラウマになっていると言えばそうかもしれなかった。
そのステージを降りると、ブレナーが手招きして泉を呼んだので、泉はドレスのすそをつまんでステージから直接彼らのテーブルに向かった。

「いらっしゃいませ」
泉が優雅に頭を下げた姿は本当に美しい。薄化粧なのに店にいる本当のホステスたちよりずっときれいだ。ピアノを弾いているだけだから、ドレスもいつも目立たない黒だが、これではいつ誰に目をつけられてもおかしくない。廉はそれを思うと、いても立ってもいられなくなる。

「イズミサン……アイタカッタ」
デイビッドはこういう時、必ず日本人だと照れて言いにくいことを口にする。外国人のなせる業だ。
「まぁ。お上手。きっと色々なお店に行かれてるんですね」
泉はそう言いながら廉を見た。俺もそうだと言っている?廉は疑われたことを心外だと言わんばかりの視線を返した。
「今日、またいらしてくださるとは思いませんでした」
泉はそう言ってブレナーに微笑み、デイビッドと廉の半分になったグラスの氷を足した。
「キョウハ、イズミサンニオネガイガアリマス」
「お願い?」
泉はデイビッドと廉を交互に見た。廉もそれは聞いていない。一体何を……

「僕の妹のルーシーが日曜日に日本に来るんだけど、成田に迎えにいってもらえないだろうか?アルバイトで」
デイビッドは泉が英語でも問題ないことをわかっていたので、英語で話しだした。
「ああ。その話か。忘れてた。誰か探していると言ってたっけ」
申し訳なさそうに、廉は頭をかいた。

「前に廉に頼んだんだけど、彼は最近君を追いかけるのに忙しいらしくて」
「うるさいよ。おまえ」
廉はデイビッドをひじでつついた。
「日曜日、僕たちはお客さんとゴルフの予定が入ってるんだ」
「もちろん御礼はします」
「迎えに行けばいいんですか?私は車じゃないですけど、それでも?」
泉がにこやかに訊ねる。
「それは大丈夫。ルーシーは日本の電車も楽しむと思うよ」
「わかりました」
こうしてデイビッドと泉の契約は簡単に交わされた。ルーシーを成田からデイビッドの部屋まで案内する仕事だ。デイビッドは泉に自分の電話の番号を教え、ルーシーの写真を泉のメールに送った。そして、飛行機の便名などは後からメールすることにして、ひとりで先に帰ると言った。たぶん気をつかってくれたのだろう。デイビッドは廉にウインクし、その場を去っていった。


 泉の入れたウイスキーを廉が口にする。
「昨日……君に電話をしようかどうしようか迷った」
唐突な廉の言葉に泉は驚いたが、
「してくださればよかったのに」
と素直に答えた。この笑みは営業用だろうか?
「簡単に言うね」
本気とも冗談とも取れない返事に廉はちょっとむっとした。本当にわからない女だ。ついこの間まで、隠れて泣いていたくせに。まるで俺がそうするのを待ち構えてたかのようなことを言う。だったら話は簡単だ。
「日曜日、ゴルフが済んだら、僕もデイビッドの部屋に行くから。その後、食事に行こう」
「はい」
泉はいつものように首を少しかしげるように頷いた。全く、悔しいがこの微笑には完敗だ。こんな風に微笑んでくれるなら、何だってする。だが、こっちもやられっぱなしというわけにはいかない。攻められるところは攻めておかなければ。
「今日はこの後は?」
泉はちょっとうつむきかげんで微笑んだまままた氷を足した。
「終わったらすぐ部屋に戻って練習しないと。明日、怖い先生のレッスンがあるんです。私、ご存知の通り、出来が悪いからいつも叱られてばかりで」
「こんな時間から?」
「ええ」
泉はずっとはにかんだような笑みを浮かべているが、その返事には強い意志が感じられた。
「そんなに働かなきゃならないのか。君はアリオンでも20人ぐらいは生徒がいるんだろ?」
返事に躊躇するように一息入れて、泉は言った。
「そうですね。それぐらいいます。でも音楽やっていくには、結構お金がかかるんですよ。ただ、幸いにして私は学費だけは、働いていたときの貯金でなんとかなってるんです。だから、あとは生活費と、譜面買うお金ぐらいなんですけど。防音の部屋を借りてるので、それがちょっと高いかな」
「と言うことは、誰からも援助を受けてないってこと?」
「援助って?……ああ、仕送りとか」
フフフとまた泉が笑う。
「この話、長くなっちゃうわ。でも簡単に言うと、私、父がもういないので、誰にも頼ることはできないんです。母は田舎で一人で暮らしてますし」

自分がUSに渡った時には、学費も生活費も当然のように家に出してもらっていた。誰が出すなど、考えることもなかった。別に贅沢をしてきたわけではないが、少なくとも金に困るような生活はしてこなかった。自分にもし、家の後ろ盾がなかったら、ここまでやってくることができただろうか。

「フロアマネージャを呼んでもらえる?」
言いながら、廉は泉の腕にそっと手を添えた。泉がびくんとして驚くのがわかった。彼女はホステスではないのだから、こんな風にするのはいけないのかもしれない。しかし、どうしても触れずにはいられない。泉はきれい過ぎる。
「君をあんまり長い間、引き止めて置けないようだから」
泉が後ろを振り返って佐伯に合図すると、彼はすぐやってきた。
「誰か泉さんのお友達を呼んでもらえますか」
佐伯はちょっと考えて、みどりを呼びに行った。