泉がもう帰ったと告げられた廉は、あの時間でまさかとは思ったが、会計を済ませて店を出た。外は雨が降りかけていた。細かい霧のような雨粒を浴びながら、廉は近くのパーキングから車を出した。時間を考えれば、自分の部屋へまっすぐ帰るのが正しかったが、Jの近くの信号まで戻って来た時、廉の気が変わった。このままここで待っていれば、彼女が出てくる。あんなに短い時間で店を出られるはずがない。廉は車をJの入り口が見えるところに止めた。
銀座の明るい街灯に照らされて、降り注ぐ細い雨粒は銀の糸のようだった。
俺は一体何をやっているんだろう?
廉はハンドルに手をかけたまま自分を哂った。これじゃまるでストーカーじゃないか。彼女は俺とは会いたくないと言ったも同じなのに。彼女が現れても、まさか声をかけるなんてことは……
ちょうどその時、地下の階段から泉が現れた。
ああ、やっぱり。
自分でわかっていてそうしたのに、帰ったと嘘をつかれたことが廉にはやはりショックだった。しかし、そんな感情はすぐにどこかへ吹飛んでしまった。
泉は傘を持っておらず、階段から出てきたところで空を見上げるようにして霧雨を浴びていた。
まただ。また、あの表情。
今日、廉がJにやってきた時、泉は最後のステージに入っていた。彼女の気を散らさないように、廉はわざわざ泉からは見えにくいピアノの反対側の席に案内してもらった。テーブルについた女性たちには自分たちで飲み物をつくらせ、自分は持ってこられたチェイサーだけを口にして、廉は泉のピアノに耳を澄ませていたが、その音は時々まるで泣いているように聞こえた。ピアノに阻まれて泉の姿は見えなかった。ただ、大きなグランドピアノから流れてくる音の粒は、冷たくて悲しい昨日アリオンで見た泉の姿そのままだった。
そうして廉は思わず車から外に出ていた。
気温が低いわけではないのに、霧雨をあびていると身体が冷えてくる。ついさっきまでピアノを弾いていたせいで温まっていた体が、段々冷たくなってくるのを感じながら、泉は通りをぼんやりと歩き始めた。
こんな生活をいつまでつづけるべきなんだろう?私のピアノは少し音楽がわかる人にはダメだといわれてしまう程度のものらしいのに……好きならきっとなんとかなると思ってやってきたけれど、そんなに甘いものではなかったのかもしれない。
泉が視線を通りに戻すと、向かいの車道から人が出てくるのが目に入った。どんどん近づいてくる人影をぼんやり見ていた泉は、はっとしてそれが森嶋だったことに気づいた。泉はそこから動けなくなった。どうしていいかわからなくなってしまったのだ。
森嶋は急いで道を渡って泉の前に立った。少し息があがっている。そして、大きく1つ深呼吸して元にもどり、泉に言った。
「そんなところでいつまでも立ってたら風邪をひく」
泉の顔を見つめる森嶋は暖かい目をしていた。嘘をついたことを怒っているわけではないようだ。
「森嶋さんこそ……こんなところで……」
泉は疲れきっていたが、森嶋のこれまで見たことのない優しいまなざしには、泉を安心させるような何かがあった。
「君に誤解されたままでいたくなかった。2度も余計なことを言ったから」
廉は照れたように下を向いた。
「それに……」
言いかけてやめ、廉は泉を見つめた。泉には森嶋の言いたいことがわかるようだった。あの気遣うようなまなざし……
私が泣いていたから。たぶん。アリオンの教室で、そして今ここで。
アリオンのオフィスで何度か見た硬い表情の森嶋と違って、今日の森嶋は優しい雰囲気だ。
「家まで送って行こう。もう遅いし」
森嶋の申し出はありがたかったが、泉は微笑みながら首を振った。
「じゃあ、駅まで」
泉はそれにも首を振った。駅までと言ったって銀座の駅はすぐそこだ。
「君は僕には何もさせてくれないんだな」
廉は不満そうだったが、泉がそうすることはなんとなく予想はついているようだった。
「それじゃ、1つだけ。これだけは言っておく」
廉の真剣なまなざしが泉を捉えた。
「僕はこの間、アリオンで君にすごく失礼なことを言った。それは謝る」
泉は森嶋が何を言ったのか、もう正確には思い出せなかったが、確かにそれは失礼な発言だった。
「だけど、花につけたカードは、僕の本心だから」
廉はそれだけ言って、霧雨の中を去っていった。後姿がいつまでも泉の頭の中に残っていた。
泉はしばらくその場でぼんやりしていたが、廉の言葉が耳で鳴っている間に歩き出した。彼は……何と言った?
僕の本心?
傘がなかったので銀座線を降りて、部屋に着いたころには泉の頭はかなり濡れてしまっていた。しかし、傘を持っていない惨めさを忘れるくらい、泉の心臓は高鳴っていた。
あのカードに書いてあったのは、確か
「あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。あなたの1ファンより」
だったか……
ああ、きっと部屋の本棚の上に置いてあるはず。泉はそれを思い出して真っ赤になった。そう、結局捨てられなかった。花に罪はないから、枯れたものだけ順番に捨てていって、今はもう開く気配のないバラのつぼみとかすみ草が何本か残っているだけだ。けれど、カードは……あんなに気分を悪くしていたのだから、捨てていてもおかしくなかった。それなのに、泉はなぜかそれを本棚の上にほうっておいた。本当か嘘かはわからない。それが、書き直した方がよいと言ってもらえるくらいの、ほんのちょっぴりでも、自分の作ったものに価値があると認めてもらえた、初めての証拠かも知れないと思ったからだ。
慌てて靴を脱ぎ、洗面所のかごのなかからタオルを一枚引っ張り出した泉は、頭をふきながら部屋の本棚の上を探した。子犬の写真が入ったフレームの後ろに、カードは置いてあった。
「今日は残念ながら行けなくなりました。あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている1ファンより」
泉はあらためてこの小さなカードを見てため息をついた。
そう、「もう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている……」
こんな言葉だったんだ……真剣にあなたのことを考えている……?
泉はまるで顔に火がついたような気がした。心臓の血管がどくどくしている。これって……泉はタオルを握り締めてばかな考えをやめようと自分を押しとどめた。まさか。これは大人のリップサービスだ。27にもなるのに、高校生みたいに単純に喜んでどうするの。泉は自分で首を振った。そして、カードを元のところにもどした。
銀座の明るい街灯に照らされて、降り注ぐ細い雨粒は銀の糸のようだった。
俺は一体何をやっているんだろう?
廉はハンドルに手をかけたまま自分を哂った。これじゃまるでストーカーじゃないか。彼女は俺とは会いたくないと言ったも同じなのに。彼女が現れても、まさか声をかけるなんてことは……
ちょうどその時、地下の階段から泉が現れた。
ああ、やっぱり。
自分でわかっていてそうしたのに、帰ったと嘘をつかれたことが廉にはやはりショックだった。しかし、そんな感情はすぐにどこかへ吹飛んでしまった。
泉は傘を持っておらず、階段から出てきたところで空を見上げるようにして霧雨を浴びていた。
まただ。また、あの表情。
今日、廉がJにやってきた時、泉は最後のステージに入っていた。彼女の気を散らさないように、廉はわざわざ泉からは見えにくいピアノの反対側の席に案内してもらった。テーブルについた女性たちには自分たちで飲み物をつくらせ、自分は持ってこられたチェイサーだけを口にして、廉は泉のピアノに耳を澄ませていたが、その音は時々まるで泣いているように聞こえた。ピアノに阻まれて泉の姿は見えなかった。ただ、大きなグランドピアノから流れてくる音の粒は、冷たくて悲しい昨日アリオンで見た泉の姿そのままだった。
そうして廉は思わず車から外に出ていた。
気温が低いわけではないのに、霧雨をあびていると身体が冷えてくる。ついさっきまでピアノを弾いていたせいで温まっていた体が、段々冷たくなってくるのを感じながら、泉は通りをぼんやりと歩き始めた。
こんな生活をいつまでつづけるべきなんだろう?私のピアノは少し音楽がわかる人にはダメだといわれてしまう程度のものらしいのに……好きならきっとなんとかなると思ってやってきたけれど、そんなに甘いものではなかったのかもしれない。
泉が視線を通りに戻すと、向かいの車道から人が出てくるのが目に入った。どんどん近づいてくる人影をぼんやり見ていた泉は、はっとしてそれが森嶋だったことに気づいた。泉はそこから動けなくなった。どうしていいかわからなくなってしまったのだ。
森嶋は急いで道を渡って泉の前に立った。少し息があがっている。そして、大きく1つ深呼吸して元にもどり、泉に言った。
「そんなところでいつまでも立ってたら風邪をひく」
泉の顔を見つめる森嶋は暖かい目をしていた。嘘をついたことを怒っているわけではないようだ。
「森嶋さんこそ……こんなところで……」
泉は疲れきっていたが、森嶋のこれまで見たことのない優しいまなざしには、泉を安心させるような何かがあった。
「君に誤解されたままでいたくなかった。2度も余計なことを言ったから」
廉は照れたように下を向いた。
「それに……」
言いかけてやめ、廉は泉を見つめた。泉には森嶋の言いたいことがわかるようだった。あの気遣うようなまなざし……
私が泣いていたから。たぶん。アリオンの教室で、そして今ここで。
アリオンのオフィスで何度か見た硬い表情の森嶋と違って、今日の森嶋は優しい雰囲気だ。
「家まで送って行こう。もう遅いし」
森嶋の申し出はありがたかったが、泉は微笑みながら首を振った。
「じゃあ、駅まで」
泉はそれにも首を振った。駅までと言ったって銀座の駅はすぐそこだ。
「君は僕には何もさせてくれないんだな」
廉は不満そうだったが、泉がそうすることはなんとなく予想はついているようだった。
「それじゃ、1つだけ。これだけは言っておく」
廉の真剣なまなざしが泉を捉えた。
「僕はこの間、アリオンで君にすごく失礼なことを言った。それは謝る」
泉は森嶋が何を言ったのか、もう正確には思い出せなかったが、確かにそれは失礼な発言だった。
「だけど、花につけたカードは、僕の本心だから」
廉はそれだけ言って、霧雨の中を去っていった。後姿がいつまでも泉の頭の中に残っていた。
泉はしばらくその場でぼんやりしていたが、廉の言葉が耳で鳴っている間に歩き出した。彼は……何と言った?
僕の本心?
傘がなかったので銀座線を降りて、部屋に着いたころには泉の頭はかなり濡れてしまっていた。しかし、傘を持っていない惨めさを忘れるくらい、泉の心臓は高鳴っていた。
あのカードに書いてあったのは、確か
「あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。あなたの1ファンより」
だったか……
ああ、きっと部屋の本棚の上に置いてあるはず。泉はそれを思い出して真っ赤になった。そう、結局捨てられなかった。花に罪はないから、枯れたものだけ順番に捨てていって、今はもう開く気配のないバラのつぼみとかすみ草が何本か残っているだけだ。けれど、カードは……あんなに気分を悪くしていたのだから、捨てていてもおかしくなかった。それなのに、泉はなぜかそれを本棚の上にほうっておいた。本当か嘘かはわからない。それが、書き直した方がよいと言ってもらえるくらいの、ほんのちょっぴりでも、自分の作ったものに価値があると認めてもらえた、初めての証拠かも知れないと思ったからだ。
慌てて靴を脱ぎ、洗面所のかごのなかからタオルを一枚引っ張り出した泉は、頭をふきながら部屋の本棚の上を探した。子犬の写真が入ったフレームの後ろに、カードは置いてあった。
「今日は残念ながら行けなくなりました。あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている1ファンより」
泉はあらためてこの小さなカードを見てため息をついた。
そう、「もう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている……」
こんな言葉だったんだ……真剣にあなたのことを考えている……?
泉はまるで顔に火がついたような気がした。心臓の血管がどくどくしている。これって……泉はタオルを握り締めてばかな考えをやめようと自分を押しとどめた。まさか。これは大人のリップサービスだ。27にもなるのに、高校生みたいに単純に喜んでどうするの。泉は自分で首を振った。そして、カードを元のところにもどした。

