カデンツァ

 翌週、火曜日の夕方に泉は暗い気持ちで器楽科の教務室に向かった。受付で名前を告げると、3号棟の12番教室に行くように言われた。オレンジ色に染まった校舎の脇を抜けて、3号棟に入り、教室の重い扉を開けると、中には富田理恵、本田さくら、北村里奈が既に席についていた。泉が中に入ると、3人の視線が一斉に泉の方へ向いた。

 泉は彼女たちとは別の島の席に着いた。落ち着かない気分で待っていると、青山と町村、それに花村がそこへ現れた。18時までまだ2分ほどあるが、博久がまだ来ていない。誰も何も話さない、気まずい気分でいると、博久が大慌てでやってきた。泉の姿を見ると安心したようにニコニコ笑って、その隣に座った。

「では説明会を始めます」
花村が教壇の前に立った。
「皆さんに今日、集まってもらったのは、他でもありませんが、音楽教育振興会ムジーカコンクールに本校から出場していただくためです。コンクールは12月に予選会、2月に本選があります。ピアノ科では毎年4人から5人の候補を選んで、通常の授業のほかに特別なレッスンを行っています。皆さんは今年、その候補に選ばれたわけですから、日々さらに精進して、コンクールで入賞できるようがんばってください。本田さん、南さんは町村先生、富田さん、北村さんは青山先生の担当です。それから、吉野さん、あなたはピアノではなく、作曲の方の候補になりましたので、担当教諭が高田先生になります」
その発表は泉だけでなく、そこにいた生徒たち皆を驚かせた。ピアノでなく、作曲……さくらたちがささやく声が聞こえる。

ピアノじゃなくて作曲ですって……

泉はまるで谷底に突き落とされたような気分だった。

「まさかその腕で、ピアノで出られるとは思ってないだろう。君はこれから作曲科の高田先生のところへ行きなさい。ただし、高田先生にも伝えてあるが、毎週の成果を私のレッスンでも報告すること。以上だ」
青山が泉に向かって言った。泉は半ば呆然としながら、青山を見た。そして博久にあいまいな笑みを浮かべて立ち上がり、教室を出た。


まさかその腕で……

泉は青山の容赦の無い言い様にひどく傷ついていた。
ピアノじゃなかった……ピアノじゃなかったんだ……泉の頬に涙がぽろりと落ちた。
馬鹿みたい……だいたい、そんなことあるわけがない。私が出られるくらいなら、奈々ちゃんだって、真紀だって出られる。泉は3号棟を出て、校舎の脇にあるコンクリートの高い植え込みの囲いに腰掛けた。時間が遅いので、もう周りには誰もいない。はらはらと涙が落ちて、泉はそれを指でぬぐった。本当は声を出して泣きたかったが、さすがにそんなみっともないことはできない。行けといわれたからには、高田の所へは行かなければならないだろう。しかし、とにかく作曲科の高田の所へ行く前に、気持ちを落ち着ける必要がある。しばらくして涙がおさまると、泉は隣のがらんとした5号棟の廊下の隅で、自分の顔が見られる程度に化粧を直した。

作曲科の高田の授業は今年になってから始まったものである。泉は第2選択として、他の楽器ではなく作曲を選んだ。それに才能があるとは思っていなかったが、ちょっとしたフレーズや小さな曲らしきものを作るのは、泉にとっては苦ではなかった。泉のノートにはそんな音符の切れ端のようなものがたくさん書き留めてある。本を読んでいるときや、映画を見た後、ふっと浮かんでくるフレーズを書いているだけなのだが、その落書きのような音符のメモがもう5冊のノートになっている。作曲演習の講座では、そういうわけで泉は少し楽をしていた。特にそのために悩まなくても、これまで書き溜めたものを、あっちこっちからつまんで提出すればよかったのだ。考えてみれば、ピアノの方ではものすごく苦労しているのに、作曲では全く困っていない。作曲をメインでやろうなんて、これっぽっちも思っていないのに。泉は作曲科の高田の研究室の扉の脇についた呼び出しボタンを押した。中から「どうぞー」と言う声が聞こえ、泉は扉を開けた。

研究室の中は、壁の一面が本棚で埋まり、部屋の中はシンセサイザーや電子ピアノ、パソコン、コード類でいっぱいだった。高田は部屋の奥の机に置かれたパソコンに向かっていた。高田は作曲科の教授だったが、まだ年は40半ばを過ぎたぐらいで、他の教師たちに比べるとずいぶん若い。もともとはクラシックの作曲をやっていたが、最近は映画やテレビドラマ、CMなどの作曲を数多くてがけている。当世の流行でもちろん電子楽器とパソコンを駆使しており、こうして機械に向かっていると、泉にはとても作曲家とは思えないのだった。

「来ましたね」
高田は泉の顔を見るなり言った。私を待っていたというのか?泉は高田に向かって小さく会釈した。
「コードに気をつけて。こっちに座ってください」
高田が勧めたソファセットは確かに小さなアンプがつながった電気ギターのコードが渦巻く隣にあった。泉はアンプのスイッチが入っているのを確認した。これをブチっとやってしまったらどうなるのか、ひやひやしながらそうっと足を抜き差ししてソファにたどり着いた。
「驚きましたか?コンクールの話」
高田はパソコンの画面の印刷ボタンをクリックし、プリンタに譜面を印刷する指示をした。間髪をあけず隣にあったプリンタが動き出す。
「はい……どうして私が? 作曲科の方が選ばれるべきでは?」
泉は自動的に折り返すプリンタを凝視しながら答えた。
「作曲科からももちろん選出しています。でも、人数に制限があるわけじゃないしね。才能のある人が出るべきでしょ?僕はあなたに賭けてみたくなったんです。ピアノ科の連中はいろいろ言ってきたけどね。でも、あんなに言われるなんて、あなた、そもそもピアノは向いてないんじゃないの?」
自分のピアノがダメなことは高田にまで知られている。あんなに言われるなんてって……一体何をそんなに言われているのだろう。
「まぁでも、僕があなたを作曲の方から出したいって言ったとき、青山さんはやられたって顔してたよ……あの人、実はわかってたんだね。だから、このままだとあなたは大変になるだけだと思う。一番いいのは作曲科に変わってもらうことです。学期の途中だけれど、まだ今年度は始まったばかりだし。どうですか?」
いきなりの話で、泉は面食らってしまった。
「どうって言われても、そんなこと……考えてもみなかったし」
第一、そんなにいきなりピアノから離れられない。ピアノがやりたくてこの学校に来たのに……泉はうつむいた。
その様子を見ながら高田はプリントアウトした譜面をさっと眺めた。
「その話はそれじゃ、少し置いとくとして。今日すぐになんて決められないだろうしね。それで、コンクールに向けての話だけど。あ!」
間違いを発見して、高田はまたパソコンに向かった。付け忘れていたフェルマータをつけて再び印刷ボタンを押す。
「あなた、僕の授業で大分手抜きしてるでしょ。いろんなフレーズを持ってるみたいだけど、それをつぎはぎして出してること、わかってるんだからね」
泉は高田に横目でにらまれた。今日は一体何のためにここに呼ばれたんだろう。あっちでもこっちでもしかられてばかりだ。
「今度のコンクールはそれは許されませんよ。それだけは理解しといてね。はじめからおわりまで、きちんと意味を成すものを作ってもらうから。ところで君、パソコンは持ってるだろうね?このコンクールは交響曲が課題だから」
泉が持っているノート型のパソコンは、会社勤めを辞める時、会社の友人が新しく買うからと言ってもらったものである。
「古いものならありますけど……」
高田はまたじろっと泉を見た。
「君が手書きで全部のスコアを書く気があって、時間も十分取れるというなら話は別だが、使えるところは電子楽器を使いなさい。そうすればスコアも楽にできるし、全体の構成も手直しがしやすい。電子ピアノかシンセがあるといいんだが」
うちにはないものばっかり……泉の曇った顔を見て、高田は泉の方に向き直った。
「聞くところによると、君はどうもここに通うのも大変らしいね。学費を自分で払ってるんだって?」
「はい」
高田は何か他にも必要だと言いたいようだったが、それについては口をつぐんだ。
「じゃあ、MIDIが使えるような楽器は持ってないか」
そんなものが買えるくらいなら、ピアノの修理に使ってるわ……泉は小さな声で「持っていません」と答えた。
「まぁ、ピアノからでも音は拾えるから、そこはあんまり大きな問題じゃない。パソコンだけは何とかした方がいいが、君がピアノでもきちんとした曲を作ってきてくれれば、後はどうにでもできる。本当の問題は、君のやる気だ」
高田はサンダルを履いた足を組んでいたが、その足先がゆっくり何かを刻んでいた。ほとんど時計の秒針と同じ速度だ。泉は高田と顔を合わせるのが怖くて、うつむいたまま、その足先の方に見るともなしに視線を置いていた。
「君は作曲でこのコンクールに推薦されたことを納得していないんでしょう。まさか、そんなこととは思ってなかっただろうね。けど、作曲の方だって、推薦をもらいたいと思っていた生徒は他にもいたはずです。君がその枠を一人分押しのけて入った。どうしても作曲が嫌なら無理にとは言わないが、それでもここで君が推薦をもらった意味をよく考えてほしい。私はできる限りのバックアップはするつもりです。コンクール向けの特別受講枠は週に4時間。火曜日と木曜日、16時から2時間ずつと考えているけれど、君はアルバイトがあると聞いているから、都合が悪ければ調整します。コンクールの応募要領はこれ。次の火曜日までにどんなものをやりたいか考えておいてください。来週、どんなスケジュールでやるかお話します。今日の話はこれでおしまい。ここからはあなたが考える番です」

渡された応募要領を抱いて、泉は高田の部屋を出た。作曲……よりによって。


まさかその腕で……

あなたそもそもピアノは向いてないんじゃないの?

青山と高田の声が泉の頭の中に交互にこだましている。向いてない……なんて痛い言葉。胸がきりきりする。アリオンに向かう地下鉄の中でも、アリオンで生徒たちを教えている間も、ずっとこの言葉が泉を悩ませ続けた。自分に才能がないことは良くわかっている。けれど、才能をカバーできる努力もあるかもしれないと信じてやってきたのに。泉にとっては作曲で推薦されたことより、ピアノがダメだと言われたダメージの方が大きかった。グレーだった自分の未来に、本当に幕が下ろされてしまったかのようだった。

「先生、じゃ、また来週」
今日の最後の生徒たちが帰っていくのを、やっとの思いで作り笑いして見送った泉は、レッスン室の扉を閉めて、窓際の椅子に力なくへたり込んだ。部屋の隅の壁に身体を持たせかけて、見るともなしに窓の外へ目をやる。繁華街の色とりどりのネオン。明るすぎて見えない星々。疲れた。今日は本当に疲れた。

この先、どうにかうまくピアノで食べていければと思っていた。演奏家になるなんて大それたことは考えていない。どんな仕事でも良かった。アリオンに残って、ピアノ講師のままで仕事を増やしてもいいし、だめならJのようなところでラウンジプレイヤーをやってもいい。とにかくピアノを弾いていられれば良かった。多くは望んでいない。ただそれだけのことなのに、どうしてこれほどまでに向いていない、向いていないと言われなければならないのだろうか?

森嶋は「腕の問題」と言ったが、それは本当のことで自分でも良く分かっているし、青山のレッスンで叱られたのも、練習していかなかった自分が悪いことはわかっている。
けれど、私のピアノを聴いたことがないであろう高田までもが、ピアノに向いていないのではないかと言った。

だからどうしたというのだ。ピアノを諦めろというのか?ピアノを弾いてはいけないのか?

スカートの上で、涙がぽとりと音を立てた。

別にピアノに真剣に向かっていないわけではない。誰かにこの大変な状況をわかって欲しいとも思わない。けれど、ピアノに向かう自分を否定されるほど、半端な気持ちでやっているわけではない。

ベージュのスカートに涙のしずくが突然降り出した雨のようにぼとぼと落ちていたが、泉はその色が変わっていくのに気づかないまま、ぼんやり窓の外を眺めていた。


泉のレッスンがこの時間、廊下の奥の5番教室であるのを廉は知っていた。だから、外出から帰ってきて、千葉と打合せするのにわざわざその隣の4番教室を選んだのだ。彼女が帰ってしまう前に、できれば一言、声をかけたかった。

しかし、5番教室の扉にはまっているガラス越しに泉の姿を見たとき、廉ははっとして動けなくなった。

窓から入る夜の明かりが泉の白い顔を照らし、頬の筋が小さな粒となって、きらきら光りながら次々に泉の服に落ちていく。

廉は中に入るつもりだったが、そうするのをためらってじっと泉を見ていた。その姿があまりにも美しくて、ガラスの額縁の中にはまった一枚の絵のようだったからだ。美しいのに痛々しい、心が締め付けられるような光景。廉はそのまましばらく5番教室の外からガラス越しに泉を見つめていた。



「森嶋さん!すみません、お待たせしました」
スタッフルームの方から千葉の大声が廉を呼んだ。その声は生徒のいなくなったレッスン室の泉にも聞こえた。はっとして扉の方を振り返ると、廉がガラス越しにこちらを見ていた。

廉の顔には泉を気遣う表情が浮かんでいた。が、突然、くるりと向きを変えて千葉の方に向かって叫んだ。
「ああ、千葉くん。やっぱり場所を変更しよう。L8教室で」
やってきた千葉を押し返すように、廉はもと来た廊下を戻って行った。泉は涙を手でぬぐいながら、森嶋が扉のガラスの狭い視界から消えていくのを見た。

見られた。こんなところを……よりによってあの人に。

泉は教室を出た。そして廉のいる8番教室の前を大急ぎで通り過ぎ、講師室にもよらずアリオンを出た。