放課後のジントニック、美術室の魔法

背後からかけられた声に、俺の心臓は跳ね上がった。チャコールグレーのシャツの奥で暴れる鼓動を必死に抑え込み、俺は『大学生の微笑み』を貼り付けたまま振り返る。
「あ…、結衣さん。こんばんは」
俺――藤代航平が人生で初めて『嘘』をついてまで手に入れたかったのが、この瞬間だった。
「こんばんは、航平くん。マスター、私もいつものを。ジントニック、ライム多めで」
結衣さんはそう言って、俺の右隣のカウンター席に滑り込んできた。
学校にいる時の、あのきっちり結んだ髪ではない。肩のあたりで無造作に揺れる髪からは、ほんのり柑橘系のシャンプーの香りがして、それだけで俺の耳の裏が熱くなる。
「今夜も、お疲れのようですね」
「そうなの!もう、本当に疲れた。一週間、長すぎ!」
マスターが差し出したジントニックのグラスを受け取ると、彼女は一口、大きめに喉を鳴らした。普段はきっと、生徒たちの前で『しっかり者のお姉さん』を演じているのだろう。教師になって二年目。理想と現実の狭間で一番もがいている時期なのだと、以前の会話で知った。
「まだ、部活のことで何かあったんですか?美術部の顧問って、結構大変なんだなって結衣さんを見てると思います」
俺は自分のジンジャーエールに口をつけながら、問いかけた。
「聞いてよ、航平くん。本当に大変なの。二年目って、学校の書類の仕事も増えるのに、部活のことまで手が回らなくて…。特にさ、私の持ってる美術部にすごい絵が上手な男の子がいるんだけど、私の指導を全然聞いてくれなくて。『先生の描き方、教科書通りでつまんない』って言われちゃって。その子、最近部活にも来なくなっちゃって…。私、顧問失格なのかなぁ」
少し潤んだ瞳で、結衣さんがまっすぐに見つめてくる。
胸が締め付けられるように痛かった。
正直に言えば、部活の練習も一度だってサボったことのない俺には、その部員の不真面目な気持ちなんてこれっぽっちも理解できない。
だけど、目の前で今にも泣きそうな顔をしている彼女の力にだけは、どうしてもなりたかった。
俺は頭をフル回転させ、普段グラウンドで交わしている同級生たちのくだらない愚痴や、大人への愚痴を必死に思い出す。
俺はグラスをコースターの上に戻し、少しだけ声を低くして言った。
「……その部員の人、結衣さんのことが嫌いなわけじゃないと思いますよ。」
「え?」
「高校生って、大人から『正しい正論』で来られるとわかってても反発しちゃう生き物ですから。……大学のサークルでも、そういう生意気な後輩、たまにいますよ」
大学生のフリをした、十七歳の俺が周囲を見て感じている本音。
結衣さんはジントニックのグラスを口元へ運ぶ手を止め、不思議そうな顔で俺の横顔を見つめてきた。
「……航平くんって、ときどき、すごい大人びたこと言うよね」
長い睫毛の奥にある瞳が、じっと俺を観察するように細められる。
まずい、と言い訳を探そうとした俺の焦りを置き去りにして、結衣さんはふっと、柔らかく微笑んだ。
「でも、そっか……反発、かぁ。私、あの子に『正しい先生』でいようとしすぎたのかもね。……ねぇ、もうちょっと詳しく聞かせて?大学生の航平先輩」
茶化すようにそう言って、結衣さんは自分のグラスを俺のジンジャーエールのグラスに、チリン、と軽く合わせた。