放課後のジントニック、美術室の魔法

結局、ファミレスでの時間はいつも通りの他愛のないお喋りで過ぎていき、俺たちの『安心できる日常』は何事もなく守られた。
――そんな日常の裏側で、金曜日の魔法は静かに、でも確実に動き出していた。
その週の金曜日、夜の八時。
いつものようにチャコールグレーのシャツに着替え、黒縁の伊達メガネをかけてバーのドアを押し開ける。
カウンターのいつもの席につき、辛口のジンジャーエールを口に含んだとき、ベスト姿のマスターが穏やかな声で俺に微笑みかけた。
「航平様。実は、先ほど別のお客様から、明日から始まる市内の美術館で始まる特別展の招待券をいたきましてね。ペアチケットなのですが、私はあいにく美術館はあまり興味がないものですから……。もしよろしければ、航平様、大学の課題の参考にでも、どなたかと一緒に行かれてみてはいかがですか?」
マスターがカウンター越しにそっと差し出してきたのは、二枚の綺麗なチケットだった。
いつもお酒が弱くてノンアルコールを頼んでいる、少し真面目な大学生の俺のために、マスターが『大人の男として純粋な気遣い』で、俺が気負わないような理由を添えて譲ってくれたのだ。
もちろん、目の前にいる俺が、お酒が弱いのではなく『法律で禁止されている未成年』だなんて、マスターは夢にも思っていない。
胸がバクバクと音を立てる。マスターがくれたこの幸運を、無駄にするわけには行かない。
結衣さんが店にやってきて、いつものジントニックを半分ほど空けた頃、俺はシャツの奥で暴れる心臓を必死に抑えながら、さりげなさを装って声をかけた。
「あの、結衣さん。実はさっき、大学の講義の関係で、明日から始まる美術館の特別展のペアチケットをいただいたんです。もし明日、お時間が合えば、一緒に行きませんか?」
人生で一番の緊張を隠しながら紡いだ、大学生のフリをした俺の誘い。
結衣さんジントニックのグラスを口元から離し、驚いたような瞬きをした。
「えっ、本当!?私、その特別展めちゃくちゃ行きたかったの!……でも、私でいいの?大学の友達とか、サークルの子とかと行かなくていいの?」
少し申し訳なさそうに、でもどこか期待を込めて俺の顔を覗き込んでくる結衣さん。年上の女性としての遠慮が混ざったその言葉に、俺は思わず熱くなりそうになる声を必死に抑えて、言葉を返した。
「サークルのやつらはこういうの興味ないですし……。何より、僕が結衣さんと一緒に行きたいんです」