いつもの席に腰を下ろし、冷えたグラスを受け取る。炭酸の泡がパチパチと弾けるのを見つめながら、俺の心臓は木曜日のあの日からずっと、落ち着かないビートを刻み続けていた。
その子は本当に美術室に戻ったのだろうか。結衣さんは今日、どんな顔をしてここに来るのだろうか。
ドアが開いたのは、それから十分ほど経った頃だった。
「こんばんは……。マスター、いつものを。ジントニック、ライム多めで……」
背後から聞こえたその声に、俺は小さく肩を震わせた。ゆっくりと振り返ると、そこにはカウンターに座り込んでくる結衣さんの姿があった。
だけど、その表情は――先週のような悲痛なものではなかったが、どこか狐につままれたような、ひどく困惑した顔をしていた。
「結衣さん、こんばんは。今週も……お疲れ様です」
俺は『大学生の微笑み』をどうにか貼り付けて声をかける。
「あ、航平くん。こんばんは……」
結衣さんは力無く微笑むと、マスターから差し出されたジントニックのグラスを両手で包み込んだ。
「お疲れなんだけどね…。もう、疲れたっていうか、何が起きたのか頭が追いつかなくて」
「何かあったんですか?」
ジンジャーエールのグラスを握る俺の手にも、じんわりと手汗が滲む。
結衣さんはジントニックをゴクリと一口飲むと、思いっきたように俺の方へと体を向けた。
「聞いてよ、航平くん。先週話した、部活をサボってたあの子ね…昨日の放課後に、いきなり美術室に戻ってきたの!」
――なんだ……あの子、ちゃんと戻ったのか。
胸の奥で、スッと温かい安堵が広がった。だけど、それに浸っている余裕は今の俺にはない。
「えっ、本当ですか?」
俺は激しく高鳴る鼓動を必死に抑え込みながら、人生で最高クラスの『驚いた大学生』の演技を披露した。
「そうなの。それは本当に嬉しかったんだけど、戻り方がすごくて……。ドアをバターン!って開けたとおもったら、ものすごい剣幕でスケッチブックを私の机に叩きつけてさ。……『これ見てつまんないっていうなら、俺はもう二度とここには来ない。先生の鼻を明かしに来てやった』って、睨みつけてくるのよ」
「……鼻を、明かす?」
デッドスペースの間際で、自分が最後に放った言葉がそのまま結衣さんの口から再生され、俺は心臓が止まるかと思った。

