新しいアルバムのリリースとともに、Bright Directionのドームツアーが決定した。
そのニュースを見て、美咲は思わず小さくガッツポーズした。
その時、不意にインターフォンが鳴った。
今日は特に、頼んでいた荷物もないはずだけど。
そう思いながら応答すると、
「こんばんは」
愁だった。
──ちょっと話したいことがある。
そう言われて、美咲は久しぶりに愁の部屋を訪れることになった。
以前と変わらない部屋。
そして、慣れた手つきで、丁寧にコーヒーを淹れる愁。
その姿を、美咲はどこか懐かしい気持ちで見つめていた。
「どうぞ」
愁は、美咲の前にそっとカップを置いた。
「ありがとうございます」
「なんだか、ずいぶん久しぶりな気がするね」
「そうですね」
初めてこの部屋でコーヒーを淹れてもらってから、もう一年あまりが過ぎようとしていた。
目まぐるしく過ぎていった日々は、あっという間だったような気もする。
けれど同時に、あの頃のことがずいぶん遠い昔のようにも感じられた。
「俺さ……」
愁は、そう切り出したあと、一度言葉を止めた。
「ここを引っ越そうと思って」
「え?」
「ありがたいことに、大きな仕事も任されるようになってきたから」
愁は少しだけ困ったように笑った。
「もっとセキュリティのしっかりしたところの方がいいだろうって、マネージャーと相談して」
「……そうですよね」
それは、美咲も以前から心配していたことだった。
最近では、愁やBright Directionの名前を見ない日はない。
このマンションの一般的なセキュリティだけでは、万全とは言いがたかった。
「いつ頃ですか?」
「来月の頭には」
「……そうですか」
一瞬、言葉に詰まる。
けれど。
「……寂しくなりますね」
そう口にすると、愁は手元のカップに視線を落とした。
「……うん」
「そういえば、ドームツアー決まったんですね」
「知ってくれてたんだ」
「ファン、ですから。一応」
「……そっか」
愁は目を細めた。
「応援してます」
「ありがとう」
しばらくの沈黙のあと、愁が再び口を開いた。
「まだまだ、俺にはやるべきことがある」
「はい」
「Bright Directionで、もう一度トップを目指す」
あの日。
愁が熱を込めて語っていた姿を思い出す。
あれから一年あまり。
愁はものすごいスピードで、その夢に近づいていた。
「美咲さん」
急に名前を呼ばれて、美咲は顔を上げた。
「どれくらいかかるかわからないけど……」
愁が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「いつか、またこうやって、美咲さんにコーヒーを淹れられたらいいなって思ってる」
──好きだとも。
待っていてほしいとも。
言われたわけではない。
確かな約束をしたわけでもない。
けれど。
その「いつか」を想像しただけで、美咲の胸は熱くなった。
「……はい。また、いつか」
一瞬だけ、お互いを見つめ、笑い合った。
その笑顔を、美咲はきっと忘れないだろうと思った。
引っ越しの日。
愁の部屋から、荷物が少しずつ運び出されていく。
美咲は自分の部屋の前から、その様子を見ていた。
最後の荷物が運ばれ、愁が、こちらを見る。
「じゃあ」
「はい……」
そのあとに続く言葉が思い浮かばなかった。
さようなら、は違う気がする。
またね、と言うには、その先があまりにも不透明だった。
迷った末に、美咲が選んだ言葉は。
「……いってらっしゃい」
だった。
愁は一瞬、驚いたように動きを止め、
そして
「いってきます」
そう答えた。
愁がいなくなったあと。
美咲は、しばらく閉じた隣の部屋の扉を見つめていた。
話す機会が減ってからも。
廊下ですれ違うことが少なくなってからも。
隣に愁がいる。
ただそれだけのことに、自分はどこか喜びを感じていたのだと、今になって実感する。
けれど、それももう終わり。
それでも。
いつか、また。
そんな曖昧な未来に、少しだけ胸をときめかせながら。
美咲は、自分の部屋の扉を閉めた。
そのニュースを見て、美咲は思わず小さくガッツポーズした。
その時、不意にインターフォンが鳴った。
今日は特に、頼んでいた荷物もないはずだけど。
そう思いながら応答すると、
「こんばんは」
愁だった。
──ちょっと話したいことがある。
そう言われて、美咲は久しぶりに愁の部屋を訪れることになった。
以前と変わらない部屋。
そして、慣れた手つきで、丁寧にコーヒーを淹れる愁。
その姿を、美咲はどこか懐かしい気持ちで見つめていた。
「どうぞ」
愁は、美咲の前にそっとカップを置いた。
「ありがとうございます」
「なんだか、ずいぶん久しぶりな気がするね」
「そうですね」
初めてこの部屋でコーヒーを淹れてもらってから、もう一年あまりが過ぎようとしていた。
目まぐるしく過ぎていった日々は、あっという間だったような気もする。
けれど同時に、あの頃のことがずいぶん遠い昔のようにも感じられた。
「俺さ……」
愁は、そう切り出したあと、一度言葉を止めた。
「ここを引っ越そうと思って」
「え?」
「ありがたいことに、大きな仕事も任されるようになってきたから」
愁は少しだけ困ったように笑った。
「もっとセキュリティのしっかりしたところの方がいいだろうって、マネージャーと相談して」
「……そうですよね」
それは、美咲も以前から心配していたことだった。
最近では、愁やBright Directionの名前を見ない日はない。
このマンションの一般的なセキュリティだけでは、万全とは言いがたかった。
「いつ頃ですか?」
「来月の頭には」
「……そうですか」
一瞬、言葉に詰まる。
けれど。
「……寂しくなりますね」
そう口にすると、愁は手元のカップに視線を落とした。
「……うん」
「そういえば、ドームツアー決まったんですね」
「知ってくれてたんだ」
「ファン、ですから。一応」
「……そっか」
愁は目を細めた。
「応援してます」
「ありがとう」
しばらくの沈黙のあと、愁が再び口を開いた。
「まだまだ、俺にはやるべきことがある」
「はい」
「Bright Directionで、もう一度トップを目指す」
あの日。
愁が熱を込めて語っていた姿を思い出す。
あれから一年あまり。
愁はものすごいスピードで、その夢に近づいていた。
「美咲さん」
急に名前を呼ばれて、美咲は顔を上げた。
「どれくらいかかるかわからないけど……」
愁が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「いつか、またこうやって、美咲さんにコーヒーを淹れられたらいいなって思ってる」
──好きだとも。
待っていてほしいとも。
言われたわけではない。
確かな約束をしたわけでもない。
けれど。
その「いつか」を想像しただけで、美咲の胸は熱くなった。
「……はい。また、いつか」
一瞬だけ、お互いを見つめ、笑い合った。
その笑顔を、美咲はきっと忘れないだろうと思った。
引っ越しの日。
愁の部屋から、荷物が少しずつ運び出されていく。
美咲は自分の部屋の前から、その様子を見ていた。
最後の荷物が運ばれ、愁が、こちらを見る。
「じゃあ」
「はい……」
そのあとに続く言葉が思い浮かばなかった。
さようなら、は違う気がする。
またね、と言うには、その先があまりにも不透明だった。
迷った末に、美咲が選んだ言葉は。
「……いってらっしゃい」
だった。
愁は一瞬、驚いたように動きを止め、
そして
「いってきます」
そう答えた。
愁がいなくなったあと。
美咲は、しばらく閉じた隣の部屋の扉を見つめていた。
話す機会が減ってからも。
廊下ですれ違うことが少なくなってからも。
隣に愁がいる。
ただそれだけのことに、自分はどこか喜びを感じていたのだと、今になって実感する。
けれど、それももう終わり。
それでも。
いつか、また。
そんな曖昧な未来に、少しだけ胸をときめかせながら。
美咲は、自分の部屋の扉を閉めた。

