担降りしたはずの推しが、隣に引っ越してきました

その頃、美咲は自宅で机に向かっていた。
パソコンの画面には、書きかけの原稿。
けれど、さっきから一行も進んでいない。
キーボードに指を置いては、止まる。

「……だめだ」

今日はもう、まともに書けそうにない。
美咲はクッションを抱きしめ、ソファに体を預けた。
頭の中に浮かんでくるのは、昼間の光景だった。
――「愁」
彩香の声が耳から離れない。。

自分の知らない時間。
自分の知らない愁。
胸の奥がざわつく。

ふと隣の部屋へ目を向ける。まだ、明かりはついていなかった。

「……帰ってきてない」

それだけのことなのに、なぜか胸が痛んだ。

いつもなら、そろそろ帰ってきている時間だった。

十年前の記憶が、蘇る。

愁の熱愛を報じた記事。
愁の隣に写る女性。

──彼に恋人がいたからどうだっていうのか。
ただの一ファンの自分には、どのみちどうすることもできない。
何度となく自分に言い聞かせた。
でも、苦しくて。
眠れない夜が続いた。
大好きだった。
たからこそ、自分の気持ちを整理できずに、、美咲は「SYU」を追いかけることをやめた。
曲も聴かなくなった。
雑誌も買わなくなった。
ライブにも行かなくなった。
少しずつ、自分の中から、愁を消していった。

それなのに──
十年たって、また。

もう、あの頃とは違う。
私だって大人になった。
もう、昔みたいに、一人のアイドルに心を振り回されたりなんてしない。

そう思っていた。
なのに。

隣に愁が引っ越してきて。
挨拶を交わして。
コーヒーを入れてもらって。
自分の書いた物語を、愁が演じてくれて。

あの頃とは違う形で、少しずつ、愁が私の心の中に戻ってきた。

「好き……なのかな」

不意に、涙がこぼれた。
あえて、深く考えないようにしていた。
認めてしまったら、また、あの時の傷口が開いてしまう気がして、怖かった。

好きになってしまった。

たぶん、もう、ずっと前から。

でも。

今、また十年前と同じように傷つくのが怖い。

結局、手の届かない存在なのだと、思い知ることが怖い。
愁が別の誰かを選ぶのを見るのが怖い。

美咲は立ち上がり、カーテンを閉めて、隣の部屋を見ないように、背を向けた。

「……やめよう」

自分に言い聞かせる。
今なら、まだ間に合う。
これ以上近づかなければいい。

けれど。

昔とは違う。
「もう一度、トップを目指したい」
そう熱く語っていた愁。
役に真摯に向き合う姿。
苦い過去を乗り越えようとする、強い覚悟。
そんな今の愁を、知ってしまった。

そっとスマホを手に取り、。西島愁の名前を検索する。
ドラマの評判。
番宣で出演したバラエティ番組のこと。
Bright Directionの新曲。
愁に関する情報が数え切れないほど並んでいた。

胸の奥に湧いてくる感情は、十年前とよく似ている。けれど、同じじゃない。

「……頑張って」

小さく呟く。
そして、少しだけ笑った。
「今度は、最後までちゃんと応援するから……」

そう口にすると、自分の中で、何かが吹っ切れた気がした。

恋人がいてもいい。
近くにいられなくてもいい。
それでも、愁が夢を追いかけるのなら。
十年前に一度手放した大好きな推しを。
今度こそ、最後まで応援したい。

美咲はスマートフォンを胸元で握りしめた。