その青は沈む

 玄関を開けたら、男は僕を見て一瞬だけ止まった。けど、すぐに「どうも、千五百円です」と普通に言った。

 どこで会ったのか、それともファンの一人かと悩んで、財布を取り出してから、小銭を数えるふりをして男を見ていた。

 そしたら、男が「いいとこ住んでますね」と言って、ポケットを探り出した。
男の挙動に目を向けながら、僕は慎重に「会社が借りてるものだから」と応えた。

「ふーん……」男は言いながら、少し見回してから、僕を見て、軽く首を傾げて、すぐに戻した。

「ごめん。お札しかないから、これで。お釣りはいいや、飲み物でも買って」僕は言いながら、お札を二枚差し出した。

 男は躊躇うように、お札を受け取って、僕を見たり、少し首を傾げたりしていた。

「少なかった?」そう聞いたら、男は「いや、昔、店に来てた気がして……」と言って、お札を畳んで、ポケットに入れた。

 男をよく見たら、気だるそうではあるけど、姿勢が良くて、少し胸を張っていた。多分、癖のようなものだろう、僕を見る目も普通だった。

 僕は気づいたけど、男と世間話をしようとは思わなかった。だって、プライベートだし、男も店の事情は話せないだろうし、それに今は聞くことよりも、先のことを見ていたい。

「元気そうで何より」僕はそう言って笑った。

「今度、店を持つことになったんで、良かったら……」と男はポケットから、皺になった名刺を差し出してきた。

「……いつも持ち歩いてるの?」苦笑いしながら見たら、「まぁ、ついでになるし。今日みたいに」と笑った。

「そっか。頑張ってね」と言ったら、男は「ありがとうございます……、あの……」と言って、少し黙った。

「なに?」普通に聞いた。

「……あいつ、すぐ泣くんで、あまり熱くならないように、おなっしゃす」と男は最後のほうを軽く言って去っていった。

「あ、君、名前は?」僕が呼び止めた時にはもう遅くて、名刺を見たら、〈佐々木稔〉と記されていた。

 男の名前を見た時に、僕は昔彼から貰った茶封筒の中身を、すぐ思い出した。

 けど、それ以上のことは、あの日のままでいいと思った。だって、時間は進んでいるし、なにかを聞きたくなったら、連絡もできる。どこかへ行きたくなったら、誘うこともできる。スタジオへ行ったら、妹や彼に会える。

 そして、店に行く日が来たときは、多分、思い出話をするのかもしれない。