君のとなり〜拓実と〜

 新幹線が、ゆっくりとホームへ滑り込んだ。

 低く響いていた走行音が小さくなり、ドアが開く。

 私は荷物を手に、新幹線を降りた。

 ホームに降りた瞬間、人の多さに圧倒された。

 行き交う人たちの話し声。

 キャリーケースの車輪が床を転がる音。

 頭上から流れるアナウンス。

 いくつもの音が重なり合って、駅全体が大きく動いているように感じる。

 私はスマートフォンを握りしめた。

 拓実が迎えに来てくれる。

 そう約束してくれた。

 人の流れの向こうを見渡す。

 右。

 左。

 見慣れた姿を探す。

「瑠夏」

 聞き慣れた声に、顔を上げた。

 人の向こうに、拓実がいた。

「……拓実」

 名前を呼ぶだけで、胸の奥がいっぱいになる。

 拓実がこちらへ歩いてくる。

「お疲れ」

「うん」

 目の前まで来た拓実が、私の顔を覗き込んだ。

「疲れた?」

「少しだけ。でも大丈夫」

「そっか」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見ただけで、さっきまでの心細さが消えていった。

「荷物、持つよ」

「大丈夫だよ」

「せっかく迎えに来たんだから」

 そう言って、拓実が荷物を受け取る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 並んで歩き出す。

 人の流れに合わせながら、拓実が自然に私の歩幅に合わせてくれる。

 それだけのことなのに、嬉しかった。

 ホームを抜ける風が、髪を揺らす。

 私はそっと拓実の手に触れた。

 拓実は何も言わず、その手を握ってくれる。

「……会いたかった」

「俺も」

 短い言葉なのに、胸が温かくなる。

* * *

 会場に到着すると、多くの選手や関係者が行き交っていた。

 遠くから音楽が聞こえる。

 フロアでは別の選手が練習している。

 手具を持って移動する選手。

 会場の隅で柔軟をする選手。

 明日の本番を前に、それぞれが静かに準備をしている。

 私は顧問の先生と合流した。

 私の公式練習時間までは、まだ少しある。

 私は会場の隅へ移動して、柔軟を始めた。

 脚を伸ばす。

 身体を前へ倒す。

 ゆっくり呼吸をしながら、身体をほぐしていく。

 ふと顔を上げる。

 少し離れたところに、拓実がいた。

 目が合う。

 拓実が小さく笑う。

 私も笑い返した。

 それだけで、不思議と落ち着いた。

――拓実

 瑠夏が柔軟をしている。

 俺は少し離れた場所から、その姿を見ていた。

 久しぶりに見る瑠夏。

 でも――。

 以前より、細くなった気がする。

 膝や足元にはテーピング。

 腕も、脚も。

 身体全体が少し細く見える。

 どれだけ練習してきたんだろう。

 どれだけ頑張ってきたんだろう。

 聞きたい。

 無理してないかって。

 でも、今の瑠夏は選手の顔をしている。

 明日の舞台に立つために、自分の身体と向き合っている。

 だから俺は何も言わなかった。

 ただ、見守る。

 頑張ったな。

 心の中で、そう呟いた。

 そのとき、瑠夏が顔を上げた。

 目が合う。

 小さく笑ってくれる。

 俺も笑い返した。

 それだけで、少し安心した。

* * *

 やがて、私の公式練習の時間になった。

「行ってくるね」

 拓実を見る。

「うん。頑張って」

「ありがとう」

 私は小さく頷いて、フロアへ向かった。

 さっきまでとは、空気が違う。

 自分の番が来た。

 そう思っただけで、自然と背筋が伸びた。

 フロアに立つ。

 まず、足元の感触を確かめる。

 一歩。

 また一歩。

 軽く身体を弾ませる。

 普段練習しているマットとは、わずかに感触が違う。

 足裏から伝わってくる反発を確かめながら、何度か動いてみる。

 次に、視線を上げる。

 天井が高い。

 いつもの体育館とは違う。

 手具を投げたとき、どこまで見えるのか。

 空間の広さはどのくらいなのか。

 明日の演技を頭の中で思い描きながら、一つずつ確認していく。

 やがて、音楽が流れ始めた。

 聞き慣れた曲が、広い会場いっぱいに響く。

 私は深く息を吸った。

 そして――動き出した。

 走る。

 跳ぶ。

 身体を大きく伸ばす。

 手具を投げる。

 落ちてきた手具が、予想していたよりも強く跳ね返った。

「……っ」

 私はすぐに動きを止めた。

 マットの反発が強い。

 手具を拾い、もう一度同じ場所で確認する。

 投げる。

 落ちる。

 跳ね返る。

 その軌道を目で追う。

 もう一度。

 今度は、少しだけ身体の位置を変える。

 明日は、ここで本番。

 今日のうちに、この感覚を身体に覚えさせておきたい。

 音楽の響き方も違う。

 フロアから聞こえる音。

 自分の足音。

 遠くで誰かが手具を落とす音。

 いろんな音が混ざり合って、いつもの体育館とは違う空気を作っている。

 私はもう一度、深く息を吸った。

 大丈夫。

 ここで演技する。

 明日も、この場所に立つ。

 今まで積み重ねてきたものを、全部出すために。

 私は最後まで集中して、公式練習を終えた。

* * *

 フロアから戻る。

 拓実が待っていた。

「お疲れ」

「疲れた……」

「頑張ったな」

 拓実の手が、私の頭にそっと触れる。

「ちゃんと調整できた?」

「うん。マットの跳ね返りが思ったより強くて、ちょっとびっくりしたけど」

「そうか」

「でも、もう大丈夫」

「なら、よかった」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見ていると、緊張していた身体から少しずつ力が抜けていく。

* * *

 宿泊先へ向かい、チェックインを済ませる。

 荷物を置いて戻ってくると、拓実が待っていた。

「門限まで、まだ少しあるんだろ?」

「うん」

「じゃあ、少しだけ歩こうか」

「いいの?」

「明日、朝早いから遅くならないように」

 そう言って、拓実が手を差し出す。

 私はその手を取った。

 二人で歩く。

 しばらくすると、大きな公園が見えてきた。

 公園の中央には、大きな噴水。

 水が高く吹き上がり、夕陽を受けてきらきらと輝いている。

 水の音が静かに響いている。

 木々の葉が風に揺れる。

 昼間の熱を残した空気に、少しだけ涼しい風が混じっていた。

「綺麗……」

 思わず呟く。

「うん」

 拓実と並んで、噴水の周りをゆっくり歩く。

 水しぶきが風に乗って、頬をかすめる。

 遠くから子どもの笑い声が聞こえる。

 夕暮れの空が、少しずつ淡い色に変わっていく。

「こうやって歩くの、久しぶりだね」

「そうだな」

 拓実が笑う。

 その横顔を見ているだけで、嬉しくなる。

 しばらくして、私は時計を見る。

「そろそろ戻らないと」

「そうだな」

 拓実も素直に頷く。

 明日は朝が早い。

 私も、ちゃんと休まなくちゃ。

 公園を出る前。

 拓実が足を止めた。

「瑠夏」

「ん?」

 拓実が私を見る。

「……最後に」

 拓実が両腕を少し広げる。

 私は一瞬だけ驚いて、それから笑った。

 その胸に、そっと入る。

 ぎゅっ。

 温かい。

 久しぶりに感じる、拓実の体温。

「……会いたかった」

 拓実の声が、頭の上から聞こえる。

「私も」

 拓実の腕が、少しだけ強くなる。

「前に言っただろ?」

「……何?」

「いっぱい抱きしめるって」

 私は顔を上げた。

「覚えてた」

「忘れるわけない」

 拓実が笑う。

 そして、ゆっくりと身体を離す。

「もう一回だけ」

 もう一度、抱きしめられる。

 今度は少し長く。

 夏の風が、二人の間を静かに通り抜ける。

「……元気出た?」

「うん」

「よかった」

 拓実が私の髪をそっと耳にかける。

「明日は、瑠夏らしく」

「うん」

「ちゃんと寝るんだぞ」

「拓実もね」

「分かった」

 拓実が優しく笑った。

「じゃあ、送ってく」

 宿泊先まで歩く。

 入口の前で足を止める。

「おやすみ、瑠夏」

「おやすみ、拓実」

 私は中へ入る。

 振り返る。

 拓実が手を振っている。

 私も笑って手を振り返した。

 その姿が見えなくなるまで、私は何度も振り返った。

 部屋に戻り、窓の外を見る。

 夜の空に、小さな光が浮かんでいる。

 明日は、インターハイ。

 高校生活最後の、大きな舞台。

 少しだけ緊張する。

 でも――。

 今日は、拓実に会えた。

 その温かさが、まだ身体に残っている。

 私は小さく笑った。

 明日は、きっと大丈夫。

 ベッドに入り、ゆっくり目を閉じた。

 明日の朝を迎えるために。