君のとなり〜拓実と〜

 3月1日。

 体育館には、いつもとは違う空気が流れていた。

 壇上には卒業証書。

 整然と並べられた椅子。

 その一番前に座る卒業生たちの中に、拓実がいる。

 いつもなら、少し離れた場所にいるだけで見つけられるのに。

 今日は、なんだか遠く感じた。

 瑠夏は、送辞を読むために壇上へ向かう。

 一歩。

 また一歩。

 マイクの前に立つ。

 客席に並ぶ在校生。

 その前にいる卒業生。

 瑠夏の視線が、拓実を捉えた。

 目が合う。

 拓実が、いつものように優しく笑った。

 その笑顔を見た瞬間。

 胸の奥に、たくさんの記憶が蘇った。

 初めて出会った文化祭。

 一緒に準備をした時間。

 二人で笑ったこと。

 抱きしめてもらったこと。

 一緒に見た花火。

 一年記念日に渡したプレゼント。

 怪我をした日。

 進路の話をして、泣いた日。

 そして――。

 受験へ向かう拓実を、新幹線のホームで見送った日。

 楽しかったこと。

 嬉しかったこと。

 寂しかったこと。

 その全部が、今日という日に繋がっている。

 瑠夏は、胸の奥に込み上げてくるものをそっと飲み込んだ。

 まだ、泣かない。

 今日は、卒業生を送り出す日だから。

 瑠夏は小さく息を吸った。

 そして、送辞を読み始める。

 卒業生への感謝。

 これまでの思い出。

 これから始まる未来への言葉。

 一つひとつ、心を込めて伝える。

 声が震えそうになるたびに、前を見る。

 その先にいる拓実を見る。

 拓実は、何も言わずに私を見つめていた。

 その目が、優しく笑っている。

 大丈夫。

 そう言ってくれているような気がした。

 最後の言葉を読み終える。

「卒業生の皆さん、本当にありがとうございました」

 深く頭を下げる。

 大きな拍手が体育館に響いた。

 顔を上げた瞬間。

 拓実と、もう一度目が合った。

 拓実が小さく頷く。

 私は微笑んで、壇上を降りた。

 今度は、卒業生代表の答辞。

 拓実が立ち上がる。

 その姿を見た瞬間、また胸がいっぱいになった。

 拓実が壇上へ向かう。

 マイクの前に立つ。

 そして、答辞を読み始めた。

 落ち着いた声。

 穏やかで、優しい声。

 いつも私に話しかけるときと同じ声だった。

 高校生活の思い出。

 先生や友達への感謝。

 これから始まる新しい生活への決意。

 その言葉を聞きながら、私は何度も涙を拭った。

 今日で、この学校を卒業する。

 拓実にとっても。

 私にとっても。

 大切な場所。

 たくさんの思い出が詰まった場所。

 答辞が終わる。

 拓実が深く一礼する。

 体育館いっぱいに拍手が響いた。

 私も、涙を流しながら拍手をした。

 拓実が壇上を降りる。

 その横顔を見つめながら思う。

 ――本当に、卒業なんだ。

 * * *

 式が終わった校庭は、笑顔でいっぱいだった。

 卒業生たちは友達と写真を撮ったり、先生と話したり、後輩から花束を受け取ったりしている。

 あちらこちらから笑い声が聞こえる。

 私は人の少ない場所で、拓実を待っていた。

 しばらくして、拓実がこちらへ歩いてくる。

「瑠夏」

「拓実」

 名前を呼んだだけなのに、胸が熱くなる。

「送辞、ありがとう」

「ううん」

 私は首を横に振った。

「すごく緊張した」

「知ってる」

「分かったの?」

「ずっと見てたから」

 拓実が笑う。

 その笑顔が、やっぱり好き。

「答辞も……すごくよかった」

「ありがとう」

 しばらく二人で見つめ合う。

 何を話せばいいのか分からない。

 今日という日が終わってしまうのが、少し寂しい。

 拓実が、校舎を見上げた。

「……ここで過ごすのも、今日で最後か」

「……うん」

 拓実が、ふっと私を見る。

「瑠夏」

「ん?」

「これ、あげる」

 そう言って、拓実は首元に手をかけた。

 シルバーのネクタイ。

 ゆっくりと結び目を緩め、ネクタイを外していく。

「え……?」

 拓実は外したネクタイを手にしたまま、私の前に立った。

「ちょっと、顔上げて」

「……うん」

 拓実の指が、私の制服のリボンに触れる。

 留め具を外して、首元からそっとリボンを外してくれた。

 そして、その代わりに――。

 自分のネクタイを私の首にかける。

「じっとしてて」

「……うん」

 拓実の指が、私の首元でネクタイを結んでいく。

 慣れた手つきで結び目を整え、最後にそっと位置を直した。

「……似合う」

「本当?」

「ああ」

 拓実が優しく笑う。

 胸元にあるのは、さっきまで拓実が身につけていたシルバーのネクタイ。

 それを見つめていると、胸の奥がじんと熱くなった。

「ありがとう……」

「卒業しても、持ってて」

「うん」

 その言葉を聞いた瞬間、我慢していた涙が頬を伝った。

 拓実が、そんな私を見つめる。

 そして――。

 私をそっと抱きしめた。

 胸に頬を寄せる。

 聞こえてくる鼓動。

 いつもと同じ。

 安心する音。

「ありがとう」

 耳元で、拓実の声がする。

「俺と一緒にいてくれて」

 涙が、また溢れた。

「私のほうこそ……ありがとう」

 拓実の背中に腕を回す。

「一年間、ずっと幸せだった」

「俺も」

 抱きしめる腕に、少しだけ力がこもる。

「これからも、ずっと大切にする」

 その言葉に、胸がいっぱいになる。

 しばらくして、拓実がゆっくりと腕を離した。

 そして、私の涙を指先でそっと拭う。

「笑って」

 その一言に、胸がきゅっとなる。

 私は涙を拭いながら、頷いた。

「うん」

 拓実が笑う。

 私も笑う。

 制服のリボンの代わりに結ばれた、シルバーのネクタイ。

 それは、今日卒業する拓実が、私に残してくれたもの。

 高校生活最後の日。

 私たちの一年間を包んでくれた、たくさんの思い出と一緒に。

「拓実」

「ん?」

「卒業、おめでとう」

「ありがとう、瑠夏」

 拓実が、もう一度優しく笑う。

 その笑顔を、私は忘れないように心に焼きつけた。

 桜の季節には、まだ少し早い。

 それでも。

 拓実の高校生活は、今日、確かに終わった。

 そして――。

 私たちの未来は、まだ始まったばかりだった。