君のとなり〜拓実と〜

 昇降口を出ようとしたところで、翔とすれ違った。

「……瑠夏?」

 足が止まる。

 顔を上げると、翔が驚いたように私を見ていた。

「どうしたの……?」

 自分でも分かる。

 制服も髪も、雨でずぶ濡れだった。

 私は何も言えなかった。

「瑠夏、何があった?」

「……」

「その格好……」

 翔が心配そうに私を見る。

「……なんでもない」

「なんでもないわけないだろ」

 責めるような声じゃなかった。

 ただ、心配している。

 それが分かるからこそ、余計に涙が出そうになった。

「……ちょっと、雨に濡れただけ」

「屋上にいたの?」

「……うん」

 翔が黙る。

 それ以上、すぐには聞かなかった。

 私が話すのを待ってくれているみたいだった。

 しばらく俯いていると、胸の奥に溜め込んでいたものが、少しずつこぼれていった。

「……拓実がね」

「うん」

「関東の大学を受けるんだって」

 翔の表情が変わる。

 でも、何も言わない。

「朝、聞いたの」

「……そうなんだ」

「最初は、何とも思わなかった」

 自分でも不思議なくらい、普通に聞いていた。

 拓実なら、きっと大丈夫。

 頑張ってほしい。

 そう思った。

「私、応援したいの」

「うん」

「拓実が頑張ってきたのも知ってるし……夢を叶えてほしい」

「うん」

「でも……」

 声が震える。

「卒業したら、学校からいなくなることは分かってたの」

「……」

「でも、会えなくなるなんて……考えてなかった」

 涙が頬を伝う。

「関東って聞いて……初めて分かったの」

「……うん」

「今みたいに、毎日会えなくなるんだって」

 翔は何も言わない。

 ただ、黙って聞いてくれている。

「行かないでって言ったら……拓実、困るよね」

「……」

「だから、言えない」

 唇を噛む。

「応援してるって……ちゃんと伝えなきゃいけないのに」

 また涙が落ちた。

「私……最低だよね」

「そんなことない」

 翔が静かに言った。

「好きな人と離れたくないって思うのは、普通だろ」

「……翔くん」

「それに、応援したいって気持ちも本当なんだろ?」

「うん……」

「だったら、それでいいんじゃないか」

 その言葉に、また涙が溢れた。

「……ありがとう」

 翔は少しだけ困ったように笑った。

「風邪ひくぞ。早く帰れ」

「うん」

 私は歩き出しかけた。

 でも、ふと足を止める。

「翔くん」

「ん?」

「……拓実には、言わないで」

 翔が私を見る。

「お願い」

「……分かった」

「こんなこと言ってたって知られたくない」

「分かったよ」

 私は小さく頷いた。

「ありがとう」

 そして、私は昇降口を出た。

 翔は、その後ろ姿を見送った。

 * * *

 翌日。

「拓実先輩」

「翔?」

 放課後。

 翔に呼ばれて、拓実は足を止めた。

「少し、話してもいいですか?」

「ああ」

 二人は、人の少ない廊下へ移動した。

 翔はしばらく黙っていた。

 何から話すべきか迷っているようだった。

「……昨日、瑠夏に会いました」

「瑠夏に?」

 拓実の表情が変わる。

「はい」

「何かあった?」

「……泣いてました」

「え……?」

 拓実の声が低くなる。

「雨の中、屋上にいたみたいで……制服も髪も、ずぶ濡れでした」

「……」

「瑠夏から聞きました」

 翔は一度、息を吐いた。

「関東の大学を受けること」

 拓実が黙る。

「それを聞いて……瑠夏、すごく苦しんでました」

「……そうか」

 拓実は視線を落とした。

「俺、何も知らなかった……」

「瑠夏は、拓実先輩を応援したいって言ってました」

 拓実が顔を上げる。

「でも、離れたくないって」

「……」

「行かないでって言ったら、先輩を困らせるからって」

 翔の声が少しだけ震える。

「だから、拓実先輩には言わないでって頼まれました」

「……じゃあ、なんで俺に?」

 翔は少し黙った。

「……黙ってることができなかったからです」

 拓実が翔を見る。

「瑠夏があんなに泣いてるのを見て……何もなかったことにはできませんでした」

「……翔」

「俺から、これ以上何か言うつもりはありません」

 翔はまっすぐ拓実を見る。

「瑠夏と拓実先輩のことに、これ以上入るつもりもないです」

 そして――

「ただ……」

 少しだけ声を落とす。

「瑠夏を、泣かせないでください」

 拓実は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、小さく息を吐く。

「……分かってる」

「……」

「俺も、ずっと心配だった」

 拓実の視線が、窓の外へ向く。

「関東に行くことを話したら、瑠夏がどう思うのか」

「……はい」

「だから……言うのが遅くなった」

 翔は黙って聞いていた。

「俺だって、瑠夏と離れたいわけじゃない」

 その言葉に、翔が少しだけ目を伏せる。

「でも、自分で決めた進路も諦めたくない」

「分かってます」

「だから……ちゃんと瑠夏と話す」

「はい」

 翔は頷いた。

「じゃあ、俺から言うのはこれで最後にします」

「翔」

「はい」

「ありがとう」

 翔は少しだけ笑った。

「……それじゃ」

「ああ」

 翔が歩き出す。

 その背中を見送りながら、拓実はもう一度、瑠夏の名前を心の中で呼んだ。

 昨日、瑠夏がどんな気持ちで雨の中にいたのか。

 それを想像するだけで、胸が痛くなる。

「……瑠夏」

 今度は、ちゃんと向き合わなければならない。

 拓実はそう思った。