『大ウクライナ百科事典というサイトがある。ウクライナの事ならなんでも載ってるサイトだ。それによれば、ウクライナの錫埋蔵量は0だ。生産実績もない』──などというクソつまらない文章をつらつら書いたところで、長谷川
浩二はキーボードから指を離し、ふう、と一つ息を吐いた。
なんとなく椅子をぐるりと回し、「やっぱり窓でもつければよかったな」などと思う。書斎には窓がなく、壁際の本棚にはみっちりと資料がつまっている。おかげでなにやら狭苦しく感じる。
仕事部屋に閉じこもっていても、廊下の向こうから微かに赤ん坊のぐずる声が聞こえてきた。かつてはその声に大きな圧を覚えたものだ。失敗することがとにかく怖かったな、と浩二は苦笑する。
ちら、とモニターを見ると先ほど書いた文章がテキストエディタに中途のまま放り出されていた。書かれた文章は何の技巧も施されてはおらず、なんだったら稚拙ですらある。しかし浩二はその文章──ウクライナのどうこうというそれを見て、満足そうに頷いた。
ウクライナ?
錫の埋蔵量?
はっきり言ってそんなものはどうでもいいし、そんなものについて書かれた文章の技術が屑でもカスでも浩二にとってはどうでもよい。人間、どうでもよいモノに対しては寛容になれるのだ。出来に不満が生まれるのは、我慢がならなくなるのは、どうでもよくないからである。そこに執着や期待があるからである。
ウクライナについてのアレコレについてなど、浩二にとっては心の底からどうでもよい。だから腹も立たないし、修正したいとも思わない。なんとも思わないのだ。
そう、今の浩二には心の余裕があった。 数か月前とは大違いだ。
・ ・ ・
子どもが生まれてから、もうすぐ三ヶ月になる。
妻の美穂は、出産を境にまるで別の生き物に生まれ変わってしまったかのようだった。世間で言う「ガルガル期」というやつなのだろう。
ホルモンバランスの急激な乱れや慢性的な睡眠不足が、母親の精神を著しく変容させることは知識として知っていた。妊娠中に何冊も育児書を読み漁り、頭では十全に理解していたつもりだ。しかし、理屈で分かっていることと、実際に牙を剥かれることはまったく別の問題だった。
浩二は作家だ。一般的な会社員に比べれば家事や育児に割ける時間は圧倒的に多い。決してベストセラー作家というわけではないが、生活に困るほど落ちぶれてもおらず、週に二日は家事代行のヘルパーに来てもらう余裕もあった。恵まれた環境を整えている自負はあったし、浩二自身、できる限りの協力を惜しむつもりは毛頭なかった。
が、上手くいかなかった。
浩二の手際は別に悪くはないが、決して良くもない。つまりは完璧ではない。そこが美穂にとっては我慢がならなかったようで、どれほどしんどくても、辛くても、自分がやると言って聞かなかったのだ。
美穂の棘というか、ガルガルな牙が自身に刺さる痛みはまあ仕方ないと受け入れて、次の改善につなげる事は出来る。実際至らない部分があることは間違いないのだし、浩二はその辺を切り分け、俯瞰して視る事は得意だった。そのあたりは職業的な資質がものをいったのかもしれない。
ただ、お前は必要ないのだとばかりに排除されるのは中々心に来るものがあった。
◆◆◆
ある日の昼過ぎ。
書斎のドアを開けると、廊下の冷たい空気が肌を撫でた。リビングの方から、カチャリと哺乳瓶が触れ合う硬い音が響いてくる。浩二は喉の渇きを潤す名目で、努めて足音を忍ばせながらキッチンへと向かった。
「ねえ、なんで毎回そうやって抜き足差し足で歩くの? 泥棒じゃないんだから普通に歩いてよ。かえって神経に障るんだけど」
リビングのカウンター越しに、美穂が氷のように冷たい視線を投げて寄越した。抱っこ紐の中でようやく寝息を立て始めた赤ん坊を、彼女は浩二から隠すように背中で庇っている。浩二は息を殺したまま、小さく「ごめん」と唇を動かした。
「謝れば済むと思ってない? それ、反省してない人の典型的な反応だからね。本当に赤ちゃんの睡眠サイクルを理解しようとしてる?」
喉の奥に小骨が刺さったような不快感が広がり、浩二はマグカップを持つ手を止めた。反論など到底許されないことは、ここ数ヶ月で嫌というほど骨身に染みている。何か一言でも言い返せば、十倍の理屈で武装された刃となって返ってくるだけなのだ。
「なんていうかさ、浩二さんはどこか他人事なんだよね。自分の体から生まれたわけじゃないから、痛くも痒くもないんでしょ。作家だかなんだか知らないけど、日中パソコンの前に座っていられる人は気楽で羨ましいわ」
締め切りのプレッシャーに胃を痛めながら執筆している時間のすべてを、気楽な逃避だと断じられてしまう。浩二は視線を伏せ、シンクに置かれた使用済みの哺乳瓶へと手を伸ばした。せめてこれだけでも洗っておこうと思ったのだが、その指先は途中で制止された。
「触らないでって言ってるでしょ! 浩二さんが洗うと乳首の溝にミルクかすが残るんだってば。何回言わせれば学習するの? これ以上私の仕事を増やさないでよ」
それは三か月も前の話で、いまはいわゆるちゃんとした洗い方は出来ているじゃないか──などとは言わない。浩二は乾ききった喉を一度だけ鳴らし、何も言わずに仕事部屋へと引き返した。
◇◇◇
長谷川 美穂はここ最近、陳腐な言い方をすれば自分が自分ではないような気がしてならなかった。
頭の芯では冷めた自分が「やめなさい」と警告しているのに、口を開けば凶器のような言葉ばかりが飛び出してしまう。仕事部屋へ逃げていく浩二の背中を見送りながら、美穂は奥歯をギリギリと噛みしめた。赤ん坊を抱く腕に無意識に力が入り、小さな寝息が乱れるのを感じてハッと我に返る。とにかく、このままではよくないとは自分でも思うのだ。だから声をかけてみる。
「浩二さん、ちょっといい? まだ話は終わってないんだけど」
防音ドアが数センチだけ開き、浩二が恐る恐る顔を覗かせた。その眉間に刻まれた困惑と怯えの色を見た瞬間、美穂の胸の内側でどす黒い感情が再び跳ね上がる。どうしてそんな被害者みたいな顔をするのか、まるで自分が理不尽な怪物だと責められているように思えて耐えられなかった。
「どうしたの? まだ何か手伝えることがあった?」
「その『手伝える』って言い方、本当にやめてくれない? 自分の子どもの世話なのに、なんで外野のお手伝いさん気分でいられるわけ? そういう無責任な姿勢が一番腹立つのよ」
違う、言いたいのはそんなことではない。浩二が仕事の合間を縫って協力を惜しまないでくれていることくらい、痛いほど理解しているはずなのだ。感謝して労わらなければならないと頭では分かっているのに、舌が勝手に最短距離で相手を傷つけるナイフを選び取ってしまう。
「……言葉が悪かったね、ごめん。オムツの確認だけでも代わろうか?」
「触らないでってさっき言ったよね! 浩二さんがやるとテープの留め方が甘くて、おしっこが漏れて肌着まで台無しになるの。赤ちゃんが不快な思いをするのが可哀想だと思わないの?」
「分かった、もう手は出さないよ。美穂、少しでもいいからベッドで横になってきなよ。一時間だけでも眠れば楽になるからさ」
その穏やかで優しい提案すら、当時の美穂の濁ったフィルターを通せば「お前は気が狂っているから隔離されて頭を冷やせ」という宣告に聞こえてしまった。我が子を奪われてしまうという動物的な恐怖が警報のように脳内で鳴り響き、視界が真っ赤に明滅した。全身の血液が逆流するような衝動に突き動かされ、彼女は決定的な言葉を喉から絞り出していた。
「寝られるわけないでしょ! 私が目を離したら、あなたがこの子を殺しちゃうかもしれないのに!」
取り返しのつかない一線を越えてしまったと気づいた時には遅かった。浩二の顔から完全に温度が抜け落ち、ただ人形のように立ち尽くしていた。美穂は自分の喉をかきむしりたいほどの激しい自己嫌悪に襲われ、膝ががくがくと震え出した。
「違うの、浩二さん……今の、本気で言ったわけじゃないの。私、どうかしちゃってて……ごめんなさい」
「……大丈夫だよ。美穂が一番疲れてるんだから、気にしないで」
「大丈夫なわけないじゃない! なんで怒らないのよ、殴るなり怒鳴るなりしてよ! そんな仏様みたいな顔されたら、私だけが異常者みたいじゃない!」
泣き叫びながらも、内側の冷徹な美穂が「狂っているのは紛れもなくお前だ」と嘲笑っていた。彼女は我が子を抱いたままその場にへたり込み、乾ききった喉の奥で、出口のない嗚咽を押し殺した。
◆◆◆
浩二はあの生活で、確かに限界までメンタルをやられていた。ただ、被害者ぶれるようならまだ楽だったのだが、浩二にはそれはできなかった。
美穂の様子が狷介なのは、愛情の有無の問題ではなくホルモンだかなんだかの問題で、これは本人に制御できる問題ではない──と理解していたからだ。納得感さえあれば、人間は大抵の理不尽に耐えられる。そう自分に言い聞かせていた。
ただ、あの日、美穂から「あなたがこの子を殺すかもしれない」と吐き捨てられた瞬間、浩二の中で何かがぷつりと音を立てて千切れた。
浩二の中の浩二が、静かに囁いたのだ。 『ああ、そうか。もういいんだ』と。
美穂を憎む気にはならなかった。怒りも湧かなかった。ただ、彼女という存在が、浩二の人生の「大事な枠」からごっそりと抜け落ちた。
ウクライナの錫の埋蔵量。 それがゼロであろうと、百億トンあろうと、浩二の人生には何の影響もない。
それとまったく同じ場所に、長谷川美穂という人間がストンと収まっただけの話だった。
どうでもいいモノに対しては、人間はどこまでも優しく、どこまでも寛容になれるのだ。
◇◆◇
それからの浩二は、驚くほど軽やかになった。 怯えも、緊張も、顔色を窺う卑屈さも完全に消え去り、常に穏やかな凪のような笑みをたたえている。
「浩二さん、トースト焼けたけど食べる?」
「ありがとう、美穂。ちょうどお腹が空いてたんだ」
カウンターから皿を受け取る仕草には、何の迷いも強張りもない。
「あ、マグカップの置き場所、そこだと手が当たって危ないかも」
「おっと、ごめんごめん。危うく大惨事になるところだったね」
かつてなら背筋を凍らせて縮こまっていたような美穂の神経質な指摘にも、浩二はカラリとした軽快さで応じ、すっと位置を直す。眉ひとつ動かさず、声のトーンも乱れない。
「……なんか、最近ちょっと雰囲気変わった?」
「そうかな。少し要領が掴めてきたのかもしれないよ」
「それならいいんだけど。前は本当に、私のほうがどうかしてたから」
「美穂のせいじゃないよ。誰だって初めての育児は余裕がなくなるものさ」
浩二はふわりと笑って言った。その言葉の通り、彼は怒っていなかった。恨んでもいなかった。道端の石ころが転がって足に当たったとして、石ころに本気で怒る人間がいないのと同じだ。雨が降れば傘を差し、風が吹けば襟を合わせる。美穂の小言もヒステリーも、ただの「そういう気象現象」に過ぎないのだから、腹の立てようがなかった。
美穂は深く息を吐き出し、胸の奥を撫で下ろした。
あの最悪な時期を脱したのだ。夫は私のホルモンバランスの乱れを理解し、広い心で受け止め、乗り越えてくれたのだ──そう信じることで、美穂のささくれ立った心は急速に癒やされていった。
「美穂、顔色があまり良くないよ。今のうちに少し昼寝しておいで」
「でも、そろそろ次の授乳の準備もしなきゃいけないし……」
「ミルクの計量ならもう完璧に覚えたよ。あの子のことは任せて少しお昼寝でもしたらいいと思うよ」
「じゃあ……甘えちゃうね」
「うん、二時間くらいしたら起こすね」
浩二の手に背中を優しく押され、美穂は寝室へと向かった。 だが──ふと、足が止まる。
背中に触れていた浩二の手のひらの感触を思い出し、美穂は小さな引っ掛かりを覚えた。
(……あれ?)
浩二の手は温かかった。押す力も適切で、優しさに満ちていた。
なのに、なぜだろう。まるで、コンビニの自動ドアのセンサーに触れられたような、機械的で均一な感触が残っている気がした。
美穂はドアノブを握ったまま、リビングを振り返った。 「浩二さん?」
「ん? どうしたの?」
浩二が振り返る。その顔には、完璧な親切心の笑みが張り付いていた。 美穂は夫の目をじっと見つめた。
……合っている。浩二の黒い瞳は、間違いなく美穂を捉えている。
けれど、何かがおかしかった。
以前の浩二なら、美穂に呼び止められた瞬間、無意識に瞳が揺れた。「また何か怒られるのではないか」という怯えや、「今度はどう応えればいいのか」という必死の気遣いが、視線の端々に滲んでいた。
だが、今の浩二の瞳には、何の揺らぎもない。
美穂の顔を見ているはずなのに、その視線は美穂の頭部を突き抜けて、背後の壁の木目か、虚空のゴミ粒でも眺めているかのように平坦だった。
「……ううん。なんでもない。ありがとう」
「どういたしまして。ゆっくり休んでね」
浩二は滑らかに頷き、赤ん坊の寝るベビーベッドの方へと歩いていった。 美穂は寝室のベッドに横たわりながら、天井を見つめた。
求めていたはずの平穏が手に入ったのに、胸の奥で、チリ……と冷たい針が刺さるような違和感が消えない。
あの人は、本当に私を見ているのだろうか?
なぜあんなに、私の理不尽な言葉を綺麗に受け流せるのだろう。まるで、何も受け取っていないからこそ、何も傷つかないとでもいうように──。
◇◆◇
リビングに残った浩二は、赤ん坊が小さな寝息を立てているのを確認し、ダイニングテーブルの上のノートパソコンを開いた。
赤ん坊に対しても、もはや過剰な恐れはない。
泣けばオムツを替え、腹が減っていればミルクを与え、背中をリズミカルにトントンと叩く。取扱説明書の手順に従ってプラモデルを組み立てるようなものだ。感情を込めず、作業として行えば育児など大した難度ではない。
「よし、ここまで書けば形にはなるな」
キーボードを叩き、担当編集者へ原稿の進捗と次回作のプロットについて短いメールを打つ。送信ボタンを押し、浩二はポケットからスマートフォンを取り出した。
「……容量がありません、か」
画面の隅に表示された赤い警告アイコンに、彼は小さく片眉を上げた。
近いうちに新しい機種へ買い替えなければならないなと思いつつ、動作を軽くするために写真フォルダを開く。
浩二の指先は、迷うことなく画面をスクロールした。 そして、機械的な手つきで選択していく。
妊娠が分かった時のエコー写真。 陣痛に耐える美穂の手を握った写真。家族三人で初めて撮った退院記念の写真。
我が子が産声をあげた瞬間の、美穂が涙を流している短い動画。
それらを親指でポン、ポン、とリズミカルにタップし、画面下部の『削除』アイコンを押す。
『完全に削除しますか? この操作は取り消せません』
機械的なポップアップが表示された。
浩二の心には、何の波風も立たなかった。懐かしさも、惜別の情も、過去の痛みを消し去りたいという復讐心すら湧かない。ただ、端末のメモリ領域を無駄に圧迫している不要なデータブロックを解放する。それ以上の意味は存在しなかった。
ためらいなく「削除」をタップする。
「ふう」
空き容量が増え、警告アイコンが消えたのを見て、浩二は満足そうに息を吐いた。
寝室のドアの向こうでは美穂が眠り、ベッドの上では赤ん坊が息をしている。 この家には何の問題もない。全ては平穏で、円満だ。
相手に何も期待せず何も求めず、心の底からどうでもいいと思っていれば世界はこんなにも静かで優しい。
浩二は再び画面に向き直り、原稿の残りにとりかかった。
浩二はキーボードから指を離し、ふう、と一つ息を吐いた。
なんとなく椅子をぐるりと回し、「やっぱり窓でもつければよかったな」などと思う。書斎には窓がなく、壁際の本棚にはみっちりと資料がつまっている。おかげでなにやら狭苦しく感じる。
仕事部屋に閉じこもっていても、廊下の向こうから微かに赤ん坊のぐずる声が聞こえてきた。かつてはその声に大きな圧を覚えたものだ。失敗することがとにかく怖かったな、と浩二は苦笑する。
ちら、とモニターを見ると先ほど書いた文章がテキストエディタに中途のまま放り出されていた。書かれた文章は何の技巧も施されてはおらず、なんだったら稚拙ですらある。しかし浩二はその文章──ウクライナのどうこうというそれを見て、満足そうに頷いた。
ウクライナ?
錫の埋蔵量?
はっきり言ってそんなものはどうでもいいし、そんなものについて書かれた文章の技術が屑でもカスでも浩二にとってはどうでもよい。人間、どうでもよいモノに対しては寛容になれるのだ。出来に不満が生まれるのは、我慢がならなくなるのは、どうでもよくないからである。そこに執着や期待があるからである。
ウクライナについてのアレコレについてなど、浩二にとっては心の底からどうでもよい。だから腹も立たないし、修正したいとも思わない。なんとも思わないのだ。
そう、今の浩二には心の余裕があった。 数か月前とは大違いだ。
・ ・ ・
子どもが生まれてから、もうすぐ三ヶ月になる。
妻の美穂は、出産を境にまるで別の生き物に生まれ変わってしまったかのようだった。世間で言う「ガルガル期」というやつなのだろう。
ホルモンバランスの急激な乱れや慢性的な睡眠不足が、母親の精神を著しく変容させることは知識として知っていた。妊娠中に何冊も育児書を読み漁り、頭では十全に理解していたつもりだ。しかし、理屈で分かっていることと、実際に牙を剥かれることはまったく別の問題だった。
浩二は作家だ。一般的な会社員に比べれば家事や育児に割ける時間は圧倒的に多い。決してベストセラー作家というわけではないが、生活に困るほど落ちぶれてもおらず、週に二日は家事代行のヘルパーに来てもらう余裕もあった。恵まれた環境を整えている自負はあったし、浩二自身、できる限りの協力を惜しむつもりは毛頭なかった。
が、上手くいかなかった。
浩二の手際は別に悪くはないが、決して良くもない。つまりは完璧ではない。そこが美穂にとっては我慢がならなかったようで、どれほどしんどくても、辛くても、自分がやると言って聞かなかったのだ。
美穂の棘というか、ガルガルな牙が自身に刺さる痛みはまあ仕方ないと受け入れて、次の改善につなげる事は出来る。実際至らない部分があることは間違いないのだし、浩二はその辺を切り分け、俯瞰して視る事は得意だった。そのあたりは職業的な資質がものをいったのかもしれない。
ただ、お前は必要ないのだとばかりに排除されるのは中々心に来るものがあった。
◆◆◆
ある日の昼過ぎ。
書斎のドアを開けると、廊下の冷たい空気が肌を撫でた。リビングの方から、カチャリと哺乳瓶が触れ合う硬い音が響いてくる。浩二は喉の渇きを潤す名目で、努めて足音を忍ばせながらキッチンへと向かった。
「ねえ、なんで毎回そうやって抜き足差し足で歩くの? 泥棒じゃないんだから普通に歩いてよ。かえって神経に障るんだけど」
リビングのカウンター越しに、美穂が氷のように冷たい視線を投げて寄越した。抱っこ紐の中でようやく寝息を立て始めた赤ん坊を、彼女は浩二から隠すように背中で庇っている。浩二は息を殺したまま、小さく「ごめん」と唇を動かした。
「謝れば済むと思ってない? それ、反省してない人の典型的な反応だからね。本当に赤ちゃんの睡眠サイクルを理解しようとしてる?」
喉の奥に小骨が刺さったような不快感が広がり、浩二はマグカップを持つ手を止めた。反論など到底許されないことは、ここ数ヶ月で嫌というほど骨身に染みている。何か一言でも言い返せば、十倍の理屈で武装された刃となって返ってくるだけなのだ。
「なんていうかさ、浩二さんはどこか他人事なんだよね。自分の体から生まれたわけじゃないから、痛くも痒くもないんでしょ。作家だかなんだか知らないけど、日中パソコンの前に座っていられる人は気楽で羨ましいわ」
締め切りのプレッシャーに胃を痛めながら執筆している時間のすべてを、気楽な逃避だと断じられてしまう。浩二は視線を伏せ、シンクに置かれた使用済みの哺乳瓶へと手を伸ばした。せめてこれだけでも洗っておこうと思ったのだが、その指先は途中で制止された。
「触らないでって言ってるでしょ! 浩二さんが洗うと乳首の溝にミルクかすが残るんだってば。何回言わせれば学習するの? これ以上私の仕事を増やさないでよ」
それは三か月も前の話で、いまはいわゆるちゃんとした洗い方は出来ているじゃないか──などとは言わない。浩二は乾ききった喉を一度だけ鳴らし、何も言わずに仕事部屋へと引き返した。
◇◇◇
長谷川 美穂はここ最近、陳腐な言い方をすれば自分が自分ではないような気がしてならなかった。
頭の芯では冷めた自分が「やめなさい」と警告しているのに、口を開けば凶器のような言葉ばかりが飛び出してしまう。仕事部屋へ逃げていく浩二の背中を見送りながら、美穂は奥歯をギリギリと噛みしめた。赤ん坊を抱く腕に無意識に力が入り、小さな寝息が乱れるのを感じてハッと我に返る。とにかく、このままではよくないとは自分でも思うのだ。だから声をかけてみる。
「浩二さん、ちょっといい? まだ話は終わってないんだけど」
防音ドアが数センチだけ開き、浩二が恐る恐る顔を覗かせた。その眉間に刻まれた困惑と怯えの色を見た瞬間、美穂の胸の内側でどす黒い感情が再び跳ね上がる。どうしてそんな被害者みたいな顔をするのか、まるで自分が理不尽な怪物だと責められているように思えて耐えられなかった。
「どうしたの? まだ何か手伝えることがあった?」
「その『手伝える』って言い方、本当にやめてくれない? 自分の子どもの世話なのに、なんで外野のお手伝いさん気分でいられるわけ? そういう無責任な姿勢が一番腹立つのよ」
違う、言いたいのはそんなことではない。浩二が仕事の合間を縫って協力を惜しまないでくれていることくらい、痛いほど理解しているはずなのだ。感謝して労わらなければならないと頭では分かっているのに、舌が勝手に最短距離で相手を傷つけるナイフを選び取ってしまう。
「……言葉が悪かったね、ごめん。オムツの確認だけでも代わろうか?」
「触らないでってさっき言ったよね! 浩二さんがやるとテープの留め方が甘くて、おしっこが漏れて肌着まで台無しになるの。赤ちゃんが不快な思いをするのが可哀想だと思わないの?」
「分かった、もう手は出さないよ。美穂、少しでもいいからベッドで横になってきなよ。一時間だけでも眠れば楽になるからさ」
その穏やかで優しい提案すら、当時の美穂の濁ったフィルターを通せば「お前は気が狂っているから隔離されて頭を冷やせ」という宣告に聞こえてしまった。我が子を奪われてしまうという動物的な恐怖が警報のように脳内で鳴り響き、視界が真っ赤に明滅した。全身の血液が逆流するような衝動に突き動かされ、彼女は決定的な言葉を喉から絞り出していた。
「寝られるわけないでしょ! 私が目を離したら、あなたがこの子を殺しちゃうかもしれないのに!」
取り返しのつかない一線を越えてしまったと気づいた時には遅かった。浩二の顔から完全に温度が抜け落ち、ただ人形のように立ち尽くしていた。美穂は自分の喉をかきむしりたいほどの激しい自己嫌悪に襲われ、膝ががくがくと震え出した。
「違うの、浩二さん……今の、本気で言ったわけじゃないの。私、どうかしちゃってて……ごめんなさい」
「……大丈夫だよ。美穂が一番疲れてるんだから、気にしないで」
「大丈夫なわけないじゃない! なんで怒らないのよ、殴るなり怒鳴るなりしてよ! そんな仏様みたいな顔されたら、私だけが異常者みたいじゃない!」
泣き叫びながらも、内側の冷徹な美穂が「狂っているのは紛れもなくお前だ」と嘲笑っていた。彼女は我が子を抱いたままその場にへたり込み、乾ききった喉の奥で、出口のない嗚咽を押し殺した。
◆◆◆
浩二はあの生活で、確かに限界までメンタルをやられていた。ただ、被害者ぶれるようならまだ楽だったのだが、浩二にはそれはできなかった。
美穂の様子が狷介なのは、愛情の有無の問題ではなくホルモンだかなんだかの問題で、これは本人に制御できる問題ではない──と理解していたからだ。納得感さえあれば、人間は大抵の理不尽に耐えられる。そう自分に言い聞かせていた。
ただ、あの日、美穂から「あなたがこの子を殺すかもしれない」と吐き捨てられた瞬間、浩二の中で何かがぷつりと音を立てて千切れた。
浩二の中の浩二が、静かに囁いたのだ。 『ああ、そうか。もういいんだ』と。
美穂を憎む気にはならなかった。怒りも湧かなかった。ただ、彼女という存在が、浩二の人生の「大事な枠」からごっそりと抜け落ちた。
ウクライナの錫の埋蔵量。 それがゼロであろうと、百億トンあろうと、浩二の人生には何の影響もない。
それとまったく同じ場所に、長谷川美穂という人間がストンと収まっただけの話だった。
どうでもいいモノに対しては、人間はどこまでも優しく、どこまでも寛容になれるのだ。
◇◆◇
それからの浩二は、驚くほど軽やかになった。 怯えも、緊張も、顔色を窺う卑屈さも完全に消え去り、常に穏やかな凪のような笑みをたたえている。
「浩二さん、トースト焼けたけど食べる?」
「ありがとう、美穂。ちょうどお腹が空いてたんだ」
カウンターから皿を受け取る仕草には、何の迷いも強張りもない。
「あ、マグカップの置き場所、そこだと手が当たって危ないかも」
「おっと、ごめんごめん。危うく大惨事になるところだったね」
かつてなら背筋を凍らせて縮こまっていたような美穂の神経質な指摘にも、浩二はカラリとした軽快さで応じ、すっと位置を直す。眉ひとつ動かさず、声のトーンも乱れない。
「……なんか、最近ちょっと雰囲気変わった?」
「そうかな。少し要領が掴めてきたのかもしれないよ」
「それならいいんだけど。前は本当に、私のほうがどうかしてたから」
「美穂のせいじゃないよ。誰だって初めての育児は余裕がなくなるものさ」
浩二はふわりと笑って言った。その言葉の通り、彼は怒っていなかった。恨んでもいなかった。道端の石ころが転がって足に当たったとして、石ころに本気で怒る人間がいないのと同じだ。雨が降れば傘を差し、風が吹けば襟を合わせる。美穂の小言もヒステリーも、ただの「そういう気象現象」に過ぎないのだから、腹の立てようがなかった。
美穂は深く息を吐き出し、胸の奥を撫で下ろした。
あの最悪な時期を脱したのだ。夫は私のホルモンバランスの乱れを理解し、広い心で受け止め、乗り越えてくれたのだ──そう信じることで、美穂のささくれ立った心は急速に癒やされていった。
「美穂、顔色があまり良くないよ。今のうちに少し昼寝しておいで」
「でも、そろそろ次の授乳の準備もしなきゃいけないし……」
「ミルクの計量ならもう完璧に覚えたよ。あの子のことは任せて少しお昼寝でもしたらいいと思うよ」
「じゃあ……甘えちゃうね」
「うん、二時間くらいしたら起こすね」
浩二の手に背中を優しく押され、美穂は寝室へと向かった。 だが──ふと、足が止まる。
背中に触れていた浩二の手のひらの感触を思い出し、美穂は小さな引っ掛かりを覚えた。
(……あれ?)
浩二の手は温かかった。押す力も適切で、優しさに満ちていた。
なのに、なぜだろう。まるで、コンビニの自動ドアのセンサーに触れられたような、機械的で均一な感触が残っている気がした。
美穂はドアノブを握ったまま、リビングを振り返った。 「浩二さん?」
「ん? どうしたの?」
浩二が振り返る。その顔には、完璧な親切心の笑みが張り付いていた。 美穂は夫の目をじっと見つめた。
……合っている。浩二の黒い瞳は、間違いなく美穂を捉えている。
けれど、何かがおかしかった。
以前の浩二なら、美穂に呼び止められた瞬間、無意識に瞳が揺れた。「また何か怒られるのではないか」という怯えや、「今度はどう応えればいいのか」という必死の気遣いが、視線の端々に滲んでいた。
だが、今の浩二の瞳には、何の揺らぎもない。
美穂の顔を見ているはずなのに、その視線は美穂の頭部を突き抜けて、背後の壁の木目か、虚空のゴミ粒でも眺めているかのように平坦だった。
「……ううん。なんでもない。ありがとう」
「どういたしまして。ゆっくり休んでね」
浩二は滑らかに頷き、赤ん坊の寝るベビーベッドの方へと歩いていった。 美穂は寝室のベッドに横たわりながら、天井を見つめた。
求めていたはずの平穏が手に入ったのに、胸の奥で、チリ……と冷たい針が刺さるような違和感が消えない。
あの人は、本当に私を見ているのだろうか?
なぜあんなに、私の理不尽な言葉を綺麗に受け流せるのだろう。まるで、何も受け取っていないからこそ、何も傷つかないとでもいうように──。
◇◆◇
リビングに残った浩二は、赤ん坊が小さな寝息を立てているのを確認し、ダイニングテーブルの上のノートパソコンを開いた。
赤ん坊に対しても、もはや過剰な恐れはない。
泣けばオムツを替え、腹が減っていればミルクを与え、背中をリズミカルにトントンと叩く。取扱説明書の手順に従ってプラモデルを組み立てるようなものだ。感情を込めず、作業として行えば育児など大した難度ではない。
「よし、ここまで書けば形にはなるな」
キーボードを叩き、担当編集者へ原稿の進捗と次回作のプロットについて短いメールを打つ。送信ボタンを押し、浩二はポケットからスマートフォンを取り出した。
「……容量がありません、か」
画面の隅に表示された赤い警告アイコンに、彼は小さく片眉を上げた。
近いうちに新しい機種へ買い替えなければならないなと思いつつ、動作を軽くするために写真フォルダを開く。
浩二の指先は、迷うことなく画面をスクロールした。 そして、機械的な手つきで選択していく。
妊娠が分かった時のエコー写真。 陣痛に耐える美穂の手を握った写真。家族三人で初めて撮った退院記念の写真。
我が子が産声をあげた瞬間の、美穂が涙を流している短い動画。
それらを親指でポン、ポン、とリズミカルにタップし、画面下部の『削除』アイコンを押す。
『完全に削除しますか? この操作は取り消せません』
機械的なポップアップが表示された。
浩二の心には、何の波風も立たなかった。懐かしさも、惜別の情も、過去の痛みを消し去りたいという復讐心すら湧かない。ただ、端末のメモリ領域を無駄に圧迫している不要なデータブロックを解放する。それ以上の意味は存在しなかった。
ためらいなく「削除」をタップする。
「ふう」
空き容量が増え、警告アイコンが消えたのを見て、浩二は満足そうに息を吐いた。
寝室のドアの向こうでは美穂が眠り、ベッドの上では赤ん坊が息をしている。 この家には何の問題もない。全ては平穏で、円満だ。
相手に何も期待せず何も求めず、心の底からどうでもいいと思っていれば世界はこんなにも静かで優しい。
浩二は再び画面に向き直り、原稿の残りにとりかかった。


