交際ゼロ日からの、契約結婚

 ──翌朝。

 菜穂子は、スーツケースをズルズル引きずって和室に入る。

 リビングを兼ねている和室では、早波一家がのんびりと朝食を取っていた。

 いつもと変わらぬ光景の中、菜穂子は食卓の前で正座して三つ指をつく。

「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、孝美さん、それとモコ、今までお世話になりました」

 深々と頭を下げる菜穂子に、早波一家はポカンとする。

 ケージの中にいるペットのうさぎ──モコだけは、我関せずといった感じで、チモシーをモシャモシャ食んでいる。

「えっと……この歳で家出宣言か?別にいいけど……出勤時間まで余裕があるから、駅まで送ってやるぞ」

 壁時計に目をやりながら、ご飯をかきこむのは菜穂子の兄、恭司である。

 18歳で不良を卒業した彼は、その過去の名残で金髪だ。

「待って、恭司さん。ちょっと違うと思うわ」

 家族全員分のお茶を用意しながら恭司の勘違いを指摘したのは、恭司の妻の孝美だ。小柄でゆるふわパーマをかけた彼女は、花柄のエプロンが良く似合っている。

「まぁ、家出でも何でもいいが、門限は守れ」
「そうよ、菜穂子。昨日、帰りが遅かったでしょ?お父さんったら心配で、ぜんぜん寝てないんだから」
「おい、こらっ」

 50間近になっても、子離れできていない事実を暴露された菜穂子の父である哲司は、妻の靖子を怒鳴りつける。

 元半グレという肩書に相応しい凶悪な顔をしているが、30年近く寄り添っている康子は、耐性がついているのか萎縮することはない。

 それどころか、かつてマドンナとチヤホヤされた魅力的な笑みを浮かべて、哲司を黙らせる。

「菜穂子、悪いけど今ママが言ったこと忘れてちょうだいね」
「うん」

 素直にうなずく菜穂子だが、その表情は困惑している。

 ベタな挨拶をすれば察してくれると思ったけれど、その考えは甘かった。

「あのさ……突然でビックリすると思うけど、っていうか私が一番びっくりしてるんだけど、私ね昨日結婚したんだ」

 悩んだ挙句、シンプルに家族に報告したけれど、返ってきたのは「誰推し?」だった。

「そうじゃなくって、昨日、区役所に行って結婚届を出したの。だからもう人妻なの」

 自分で言ってみたものの、”人妻”という響きに違和感を持ってしまう。むしろバツイチ予備軍と言った方がしっくりくる。

 でもそんなことを父親と兄の前で口に出したら、大変なことになる。

 今でこそ絵に描いたような平凡な家庭だが、少し前の早波家は荒れに荒れていた。

 暴れた恭司を哲司が力づくで押さえ込んだ結果、壁に穴が空き、窓ガラスは割れ、深夜にパトカーがしょっちゅうやってきた。

 小学校の行き帰りで通る交番の前に立つお巡りさんに、いつも憐憫の目を向けられる生活は、本当に辛かった。

 恭司が孝美に一目惚れしてくれたので、今の穏やかな生活を手に入れることができたけれど、菜穂子の父と兄が暴れん坊であることには変わりがない。

「菜穂子、本当に……結婚、したのか?」

 水を打ったかのように静まり返っていた和室に、哲司の固い声が響く。

「う、うん。黙っててごめん」

 とりあえず、菜穂子は謝った。

「ええっと……お相手はどんな方なの?」

 間を埋めようとしたのか、康子の目は泳いでいる。

 しかし、これは渡りに船。哲司と恭司がやんや言い出す前に、さっさと話しちゃおう。

「私の結婚相手は柊木真澄さん、28歳。どんな人かっていうと、まぁ、説明するより……会えばわかる。多分、みんな知ってると思うけど」

 菜穂子が言い終えると同時に、タイミング良く玄関チャイムが鳴った。

 すぐに孝美が「はーい」と大きな声で返事をしながら、玄関に走る。

「ったく、誰だこんな朝っぱらから」
「笹本さんじゃない?町内会の」
「あー?祭りはもう終わったのに?何の用だよ」

 哲司、康子、恭司が顔を見合わせながら、玄関の様子を探ろうとしたその時、孝美のきやぁぁーーーーーという悲鳴が、和室にまで響いた。

「お、おい!どうした!?」

 テレビの裏に隠してあった木刀を持って玄関に駆け付けた恭司は、腰が抜けてアワアワしている孝美を抱き起す。

「おい、てめぇ!」

 どすの利いた声で威嚇する恭司を援護するように、茶箪笥に隠してあった剪定ばさみを手にした哲司も玄関に顔を出し、ギロリと睨みつける。

 康子も哲司と同じように玄関を覗き込んでいるが、その目は輝いていた。

「あらあら、もしかして……」
「初めまして、お義父さん、お義母さん、お義兄さん、お義姉さん。この度、菜穂子さんの夫になりました柊木真澄です。朝早くのご訪問、お許しください」

 折り目正しく頭を下げた真澄に、孝美は恭司の腕を掴んで叫ぶ。

「あなた!この人、柊木グループの御曹司!!」

 二次元から三次元まで。ありとあらゆるイケメンを推しまくる孝美は、目をキラキラさせる。

 一方、状況がいまいち飲み込めない哲司と恭司は、とりあえず手にしていた凶器をそっと己の背に隠した。